23 黒い男

 「せっかくだから、ここの食堂でお昼食べていく? ハチ、ご飯まだでしょ?」

 昴に指摘されて初めて、僕は家を出てから何も食べていないことに気づく。そういえば、彼女の家に厄介になってから、外食をしたのはショッピングモールに行ったときの1回だけだ。僕は外出しないから当たり前のことだが、そもそも昴もあまり外食をしない。同居人のために帰ってきてくれているのかと思っていたが、それよりも“ばあちゃん”の野菜を計画的に消費すべく、日々自炊にいそしんでいる。僕が来たことで食材が余りにくくなったと、喜んでいた。


 役所の二階の端、「西棟」と書かれたところに食堂はあった。役場らしくAランチ、Bランチ、麺、丼というシンプルな4択だが値段はすべてワンコイン以下と良心的である。

 お昼時を少し過ぎていることもあり、席はがらがらだった。食券売り場で麺のボタンを押し、白衣を着た年配の女性に渡す。

 先に窓際の席を確保してくれていた昴のもとにトレイを持っていくと、身を乗り出して深い器を覗き込んだ。

「きつねうどん? けっこう即決だったけど、足りる?」

「うん。ちょっと熱中症っぽかったから、あんまりお腹すいてなくて」

「熱いものでいいの?」

 さっきまで暑いところにいたのに、熱々のうどんを頼むというチョイスは確かにちょっと不思議かもしれない。

「なんでだろう。今日のメニュー一覧を見たとき、無性に食べたくなって」

「ああ、あるよね、そういうとき」

 実際は、4つの選択肢のうち一番安かったのがきつねうどんだったから、最初に目に留まった。しかし昴の家でうどんを食べていなかったので、せっかくの機会に試してみたいと思ったのも事実だ。

 値段が安いぶん味もそこそこだろうとおもっていたが、想像していたよりは美味しい。甘めの出汁が少し柔らかいうどんに染みて心が和む。きつねもふわふわで、ほっとする食感だった。


 大学の学食で食事を済ませてきたという昴は、ピッチャーで置いてある水を飲みながら僕が食べる様子を眺めていた。

「じっと見られると、緊張する」

「ごめんごめん。集中してるから。うどん、好きなのかなぁと思って」

 食べながら、慎重に考える。好きか嫌いかでいうと好きだけど、この“好き”は、記憶と結び付きうるだろうか。また、昴と一緒に記憶を探ると決めたからには、自分の趣味嗜好はなるべく把握していきたい。

「好き、かな。うどんはおいしいけど、あんまり食べたことはないかも。懐かしさとか、どこかで見たことがあるとかは思い出せない」

「それも、ヒントになりそうだね」

 昴はわずかに首を傾げた。

「きつねうどんって、大体の人は食べたことあるだろうから。じゃあ無性に食べたくなったのって、たまにしか食べないからっていうより、そもそも食べた記憶がなくて味が気になったから?」

「そうかも」

 確かに、きつねうどんのサンプルを見たとき、食べてみたいとは思ったけれどどんな味かまではあまり考えていなかった。やっぱり、僕は記憶を失う前から食には疎かったようだ。

「でもさ、ハチってあんまり食べ物の割安・割高の判断がつかないって言ってたよね。普段料理しないからかなって思ってたけど。料理しない人ほど、カップ麺のきつねうどんとか選びがちな気がする」

「そう、なのかな」

 昴の家にカップ麺はおかれていない。自分が食べるイメージも、食べたいという思いも湧かず曖昧な返答になってしまう。

「今の話もぴんとこないってことは、実家暮らしで料理をしたことがないっていう線が濃いかな。あるいはすごくお坊ちゃまで、食材の購入から調理の過程を見てこなかったか」

「いや、おぼっちゃまだったら、執事とか使用人とかに探されてるんじゃない」

 冗談だと思いつつ、こちらも冗談っぽく返すと彼女は案外真面目な顔をしていた。

「無くはないと思うよ。ハチ、食べ方きれいだし。少なくとも一人暮らしですさんだ生活を送ってた、ってわけではなさそう」

 昴がつくってくれる料理はいつもおいしいので、丁寧に頂いているつもりだった。それが彼女に好ましく見えていたなら、嬉しい。

「本当にお坊ちゃまなんだとしたらさ。この辺りにいる会社員の人たちに混ざって、家の関係者がゆるく行動チェックをしてるかもしれないよ」

 彼女はいたずらっぽく笑い、周囲をぐるっと見渡す。食堂には端のほうに2~3人がいるだけだったが、確かに皆同じ白いYシャツ姿で、ちらっと見ただけではすぐに忘れてしまいそうだ。知り合いが紛れていたとしても、顔を上げなければ気づかないかもしれない。


「ハチ」

 食堂内に意識が向いていた僕は、不意に昴が出した緊迫した声にびくっと背中を伸ばした。いつもならそれに突っ込みを入れてきそうな彼女は、硬い表情のまま窓の外を見ている。

「あの人、私を魔女の店まで連れて行った人だ」

 彼女の目線を追うと、先ほどまで僕たちがいた公園が眼下に広がっている。一面を覆う芝生の上に、この暑さの中場違いな黒スーツの男が一人で歩いていた。

「ちょっと、目立ちすぎな気がするけど。間違いなさそう?」

「うん。髪の長さとか、なんとなくの体格とかが、一緒」

 昴を魔女に引き合わせた男には、僕も一度会っている。しかし、あの時は暗闇で顔や体つきはほとんどわからなかったし、昴を取り戻すのに必死で服装もあまり覚えていない。声を聞けばわかるかもしれないが、今の状況では彼女の記憶を頼みにするしかない。

「追いかけて、話しかけてみる? 声聞いたら、僕もわかるとおもう」

 だから、彼女にそう提案した。


 ・・・


「左に曲がっていったから、こっちだ」

 役所をあとにした僕と昴は、食堂で見た彼の動きを頼りにあとを追う。僕たちが店を出たのは彼が公園を左折して見えなくなった後だが、それでも少し離れた程度なら見つけられる自信があった。風通しがいいはずの浴衣でいても、すぐにばててしまう暑さだ。そんな中、ジャケットまでしっかり着込んで歩いている人などそうはいない。おまけにこの辺りは住宅街だ。大学が近いから学生らしき人はちらほらいても、真昼間まっぴるまにスーツを着た人が歩いている可能性はほとんどない。

 だから一瞬見失ったとしても、近くに先ほど見たのと同じスーツ姿の男性がいれば、ほぼ間違いなくあの男だといえそうだった。

 昴と道の左右に分かれ、細い曲がり角があるたびに覗き込みながら速足で歩く。3ブロックほど過ぎたところで、彼女が声を上げた。

「みつけた。こっち」

 背中越しに道路を覗くと、道端に黒塗りの車が停まっている。太陽の光を浴びてつややかに反射している車両は、のどかな住宅街から浮いていて目立った。車の傍に、ドアを開けて立っている男の姿があった。

「なんか、偉い人を待ってる感じ? タクシーじゃないし。ハイヤーかな?」

「どうだろう。手袋をしてないから、運転手ではないと思うけど」

 男が一人ではなさそうなので、いきなり声をかけるのは少しためらわれる。僕と昴は別の通りの角に立ち、ひそひそと言葉を交わした。

 ほどなくして、車が停まっている前の店の暖簾がめくれ、一人の恰幅のよい男性が出てくる。ワイシャツにスーツのズボン、手にはジャケットを持っている。男性は畳まれたそれを待っていた男に手渡すと、すぐに車に乗り込んだ。その後から男が助手席に回り、乗るや否やドアを閉める。

「追いかける?」

「うん」

 声をかける一瞬のチャンスを逃した僕たちは、頷きあって駆け出した。

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