3章 僕と彼女と未開の未来
22 約束
背もたれのないベンチに座り込み、浅い呼吸を繰り返す。
魔女の店の前で軽い熱中症を自覚した僕は、スマホで調べて近くにある公園まで歩いてきた。飲み物を買うお金は持ち合わせていない。大きめの公園なら、手洗い・水飲み場があるだろうと踏んだのだ。案の定、スマホアプリの地図で緑色に見えたこの場所には、入ってすぐ右手に水場があった。一心不乱で水道水を口に流しこみ、ほんの少し人心地がついたタイミングでベンチをみつけ、腰かけたのがついさっきの出来事だ。
申し訳程度に頭上にひさしがついているので、真上からの日光は避けられている。しかしひさしといっても藤棚のようなつくりで、前後左右はノーガードだ。横から差し込む日差しは防ぎきれず、じりじりと背中がやかれる感覚に僕の落ち着きは奪われる。
――水は飲めるけど。それだけで、日中の体力がもつのか?――
結局、脱水の不安が緩和されただけで熱中症の主因は取り除けず、かといってもう一度立ちあがり、より日が遮られるポイントを探しに行くのも億劫で、とにかく今いる場所で呼吸を整えようと努めた。
「ハチ?」
そんなときだった。いま、ここにいるはずのない声が聞こえたのは。
信じられなくてゆっくり顔を上げると、日傘をさした昴が目の前に立っていた。
「家に帰る、まえに熱中症っぽいよね。顔赤いし、視線が定まらない感じだし。ちょっと待ってて。あ、これ差してていいから」
僕がなにかいう前に早口でいうと、彼女はさしていた傘を僕の右手に握らせて駆けだしていく。この場をすぐに離れたかったが、昴の持ち物を託された以上そうするのも気が引けて、腰を少し浮かせた状態で固まる。葛藤している時間もなく、彼女はあっという間に戻ってきた。
「これ飲んで。体調悪かったら、水よりもスポドリのほうがいいよ。ほら一旦日傘預かるから」
傘を昴に返す代わりに、ペットボトルのスポーツドリンクを受け取る。近くの自販機で買ってきたのだろう。よく冷えて水滴がついているそれを、彼女の無言の圧に圧されて口にする。一口含むと、頭のもやがかかったような感覚がすーっと晴れていくのが感じられ、そのあとは一心不乱に喉を動かした。
あっというまに500mlが空になると、昴が僕の手からボトルを奪い取る。代わりに再び、傘を差し出された。
「さっきよりは、ましな顔色になったね。少し歩ける? 日傘はハチが使っていいから、もうちょっと涼しいところに行こう」
「どうし、て、ここに」
喉が潤ったおかげでようやく声が出た。ふらふらな僕をちらりと見た彼女に、右手を差し出される。
「大学の食堂で、松葉さんに会って。“ハチ君が外を歩いているのを見た”って聞いたから」
「なんで、ここが」
「スマホ」
一言だけいうと、昴は僕の手首をしっかりつかんだ。
「ここじゃまた、体調悪くなるよ。屋内で休もう。家まではいかないから、いったん建物の中で話そう」
彼女に引っ張られる形で立ち上がった僕は、案外力強い手を振り払う気力もわかず、黙ってあとをついていった。
・・・
僕がいた公園のすぐそばに、役所があったらしい。空調のきいた待合室の端に僕を座らせた昴は、扇子を取り出して火照りが残る顔を無言で扇いでくる。
「それは、自分でやるよ」
平日の昼間とは言え、さすがに役所には人の目がある。年下の女の子に扇がせている男が周囲にどうみられるのかを考えると恐ろしく、とっさに扇を受け取った。
「さっきの質問だけど、ハチのスマホの位置情報を確認させてもらったんだ」
扇の持ち手の方を僕に差し出しながら、彼女は淡々と告げる。
「位置情報って、昴が魔女のところに行ったとき、持ってたみたいな?」
「あれほど正確じゃないけど。渉が、もしハチに何かあったときに探せるようにって。わたしのスマホで、ハチのスマホがある場所を表示できるようになってるんだ」
僕がふところに入れていたスマホを出すと、昴はその先っぽについていたたい焼きのスクイーズをぎゅっと握りしめる。
「食堂でお昼ごはんを食べてたら、松葉さんがいて、ハチ君をアパートの外で見たっていうんだ。松葉さん、散歩ついでにお昼を大学で食べること、けっこうあるから。ハチ君に合いカギ渡してるのかってきかれて、嫌な予感がして一旦家に帰って。いろいろ準備してから、こっちに来たんだ」
「昴、授業はいいの?」
「“今までありがとう”って書き置きされて、気にならないわけないよ!」
突然鋭い声を出されて、思わずびくっと肩が跳ねる。さすがに場所をわきまえてか、声量は抑えていたが、ただならぬ雰囲気を感じたのか、同じ列に座っていた年配の男性がちらちらと僕たちのほうに目をやっている。昴もそれに気づいたようで、さらにひそひそ声になった。
「ハチが、わたしの怪我を気にしてそんな行動をとったなら、全然気にする必要はないよ。お金も、着替えももたないで一人で飛び出して、何かあったら。そっちの方が心配」
「怪我だけじゃないよ」
僕も小声で、しかしはっきりと言葉を返す。
「衣・食・住ぜんぶ、僕は昴に依存しすぎだ。家族みたいだって言ってくれて嬉しかったけど、一方的に与えてもらって、なのに恩をあだで返して。そんなことが起きるくらいなら、僕はきみと距離を置きたい。これ以上、僕の手できみを傷つけたくない」
「傷つけたくないっていうなら、」
至近距離で僕を見上げる。いつも以上に鋭い目つきに言葉を飲み込む。
「数週間一緒に、ハチの記憶と猫になった原因を探して、少しずつ手掛かりが見つかってきた。それを途中で“やっぱり一人でやります”って言われた方がわたしは傷つく」
「でも、物理的に」
「ちゃんと、話し合おう。猫になるタイミングで記憶が無くなるって言っても、逆に言えば猫としての性質が強く出てるってことだろうから。後で調べたけど、猫って小さい音とか声でも敏感に反応するらしいから、接し方を変える必要がありそうだし。そこは、たぶんペットを飼っているのと同じ感覚だよ」
「ペット、か……」
人だと思わない発言に少し微妙な気持ちだが、実際に意識が無い猫状態のときの僕は、ペットの猫と大差ないのだろう。
「魔女のかかわりがわかって、本名と猫のつながりがありそうだってことも分かった。確実に前進してきてるよ。だから、ハチが本名を思い出すまで、わたしもつきあう」
昴は、きっぱりと言い切った。僕はまだ彼女を巻き込みたくない気持ちが強いが、それ以上に強い意志を持った瞳で見つめ返してくる。
「猫の姿で、猫の意識でいるときにしたことが、さ。人間の姿で、人間の意識に戻った時に自覚すると辛くなるんだ」
「そこは、割り切るしかないよ」
本音を零すと、彼女ははっきりといった。
「猫のときのハチと、人のときのハチは別人格だって。実際に、魔女がどんな力をつかったのかわからないから、可能性はあるし。それだって、名前を思い出せれば元に戻るはず」
「だとしても、猫の僕がしたことは、人の僕が責任をとらないといけない」
「真面目だね。……じゃあこれはどうかな。猫の姿は、ハチの本名から来てる。「八時」っていう要素も同じ。だったら、“ハチ”っていう呼び名も本名に結びついていて、猫でいるときもハチって呼んだら人としての意識を保てるとか」
後ろ向きな発言を繰り返す僕を見かねたのか、昴は微妙に話題を変えた。
「それは、試してみたいね」
僕もこれ以上暗い話を続けたくなくて、昴の話に乗ることにした。彼女はようやく、表情を和らげる。
「ね。今晩、試してみようか」
いたって健全な話をしているはずなのに、少しどきっとしてしまう。あまり表情を変えない彼女に自然な雰囲気で、口角を上げて言われたら妙な勘違いをしてしまいそうだ。
「わかった。昴と一緒に、僕の記憶を取り戻す。これからも、よろしくお願いします」
変な動揺をしていることを悟られないように、必死に話を本題に戻して頭を下げた。
「うん。こちらこそ。約束だね」
それに気づいているのかいないのか。僕が家を出る意識が弱まったから安心したのか。顔を上げて目が合った昴は、声こそ淡々としているが目元がうれしそうで、再び目をそらす羽目になった。いよいよ、僕の動揺がばれてしまう気がしたから。
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