21 猫の性、人の性・下

 猫になり、昴の家に来てから僕一人で外に出るのは二回目だ。一回目は、昴を助けるために魔女のところへ行ったときだから、家に戻るのが前提だった。でも今回は、記憶を取り戻すまで門をくぐる気はない。

 とはいえ、手がかりになるものは限られている。そのうちの一つとして、いったん魔女のところへ向かうつもりでいた。一度契約した人とは会わないとか、契約破棄はできないとか言っていたけれど、場所自体はわかっているのだ。魔女はだめでも、昴を案内していた男に会えたら、何かしらのヒントが得られるかもしれない。

 僕は、魔女がいた店に行ったことがある。猫として意識を取り戻した場所も、昴の家から近かった。ということは、僕は記憶を失う前にも、店の近辺を歩いたことがあるはずだ。前行ったときは暗闇の中を無我夢中で走っていたから、周りの風景が目に入っていなかったが、今回はゆっくり見ていくことにする。そもそも暑すぎて、速足で歩く気にはなれない。

 ――うちわがほしいな――

 そんな贅沢なことは言っていられないので、なるべく端に寄り住宅が作る日陰に入り、そろそろと進む。頭上からの日差しはもちろんのこと、コンクリートからの照り返しがきつい。地面が熱せられてなさそうな場所を選ぶだけで、だいぶ心身は楽だった。


 昴の住むアパートから1本曲がると、車二台がすれ違えるくらいの少し広い道路に出る。道のはしっこにぴったり寄りつつ、家々の塀や垣根を注意深く見る。

「たぶん、ここかな?」

 背の高い生垣に囲まれた、ひときわ大きな建物が目を引いた。思わず小声でつぶやきつつ、そっと中を覗き込む。僕がツナ缶と共にハトに攻撃された家。奥に縁側付きの日本家屋があるのも含め、ここで間違いなさそうだった。

 ということは、僕が猫として目覚めた場所も近くにある。当時は空腹で、ほとんど記憶には残っていないが石垣の形や、ハトに襲われた家との距離から予想して、付近の道をしらみつぶしで覗いていく。

「あった」

 十字路につながる四つの小道、そのうち一番細い通り沿いに、見覚えのある石垣の塀があった。下から20cmくらいのところに線がある、灰色の塀。同じものがほかの区画にもあるかもしれないが、猫になった僕が魔女の関係者に置き去りにされたなら、より人通りの少ない道においていかれるだろう。状況的にも、ここだと考えてよさそうだった。昴の家と魔女の店の中間くらいの場所だし、位置関係も辻褄が合う。

 でも、細い道を僕が逆走していたら。昴の通学ルートとは外れ、彼女と出会えなかったかもしれない。今更ながらぞっとする。

 ――いや、それよりも、僕の記憶の手がかりを探さないと――

 猫になった後の足跡をたどっても、過去の記憶には結びつかない。魔女と僕のかかわりを検証するだけにすぎない。かぶりを振り、魔女の店を目指す。

 見慣れない道を進むと、飲食店らしき看板がいくつかある。初見で入るのは気が引けるが、雑居ビルの隙間にならぶ店舗群には、近くに住む大学生や教育関係者が立ち寄るのかもしれない。


 密度の高い並びを抜けると、少し道幅が広くなった。通りの角にある、白い塗装がされた、時代を感じる4階建てのビル。外側に金属の階段が取り付けられている。縦長で小さく店舗看板が取り付けられている。どの看板が該当するのかはわからないが、この建物の3Fだ。ここに、魔女がいる。

 お昼の食事処というよりは、夜にアルコールを提供していそうな雰囲気の看板が多い。昴も“バーみたい”と言っていたから、近隣も似たような店が並んでいるのだろう。気にせずに金属の甲高い音が反響する階段をのぼる。

 3Fの小さい踊り場にくっつくように、ガラス戸があった。真ん中にはコルク地の「closed」の札がかけられている。だめもとで扉を押してみたが、ピクリとも動かない。そもそも施錠されているようだ。中を覗き込むと、薄暗い店内に、深い紅茶のような色の分厚いカウンターが鎮座しているのが見えた。背もたれのない丸椅子が6席、並んでいる。

 魔女がいないことは、予想できていた。それでも、僕がここに来た時の記憶は、可能な限り思い出したかった。昴と魔女の会話を聞いているだけで映像がフラッシュバックしたのだ。実際に現場に来たらもっと鮮明によみがえるかもしれない。


 本当に、表向きはバーなのだろう。目を凝らしてみると、カウンター上にぶら下がるワイングラスだけではなく、後ろの壁面にはビールジョッキや、カクテルを飲むのであろう様々な高さのグラスが並んでいた。さらには小皿までおかれている。一番上の棚には、ウイスキーと思しき琥珀色のボトルが勢ぞろいしている。


『おまえ、辛気臭い顔してるねぇ。話をする前に一杯飲みな。口が柔らかくなきゃ、聞きたい話も聞けないだろう』

 不意に、魔女の声が脳裏にフラッシュバックする。記憶を空想で補完することがないよう、慎重に“その場面”を思い出すよう努める。

『僕は、お酒強くないので、遠慮しておきます』

『なんだい。酒で酔えない口か。じゃあジンジャーエールでも飲んでおきな。ショウガの辛さが口を滑らかにするさ。あとつまみだね。本物のアルコールじゃなくても、それっぽい飲み物とつまみ、飲む空間さえあれば酔いが回るさ』

 黒い服をきた男が、カウンターの奥からやってくる。手に乗せた皿が、魔女に差し出される。

『今日のつまみにはワインが合いそうだが、まあいいだろう。オイルサーディンのピザだ。これを食べてさっさと思っていることを言いな』

 皿の上には、一切れのピザが載っていた。オリーブの実とオイルサーディン、そこにバジルが散らされているだけのシンプルなピザだ。紅茶色の鮮やかなテーブルに、白い皿が映える。更にすぐ横に、どん、と薄茶色の炭酸が置かれる。

『ほら、ジンジャーエールだ。どっちも前払いだよ。おまえの話を聞く対価さ。金を持ってそうだけど、おまえの金はいらないから』

『僕の話を聞いてもらって、これもいただけるんですか』

『ああ。おまえの話がウチにとってのメリットになるからね。代わりに、包み隠さず話してくれよ。正直であればあるほど、この後の“契約”の力が強くなる』

『はぁ』


 そこで、記憶は途切れた。出されたピザとジンジャーエールをいただいたのか、僕は何の話をしたのか、どんな契約をしたのか――契約内容は僕の現況から想像できるけど、そもそもなんでそんな契約をしたのか――までは思い出せない。しかし、今のはかなり進展のある発見だった。

 まず、お酒が強くないと断っているから、僕の年齢は20歳以上で確定だ。実際に酔いやすいのか否かは、社交辞令の可能性もあるからうのみにはできない。そして“お金を持ってそう”という魔女の判断。僕の何を見てそう言ったのかは定かではないが、少なくともみずぼらしいいでたちではなかったのだろう。

 過去の僕がお金を持っていそうなのは、朗報だ。昴にさんざんもらった分のお金を、すぐに返すことができるかもしれない。彼女から受けた借りはなるべく早く返したい。

 なおも思い出すことはないかと、店内をくまなく見るべく身を乗り出したとき、一瞬脳が浮遊する感覚になり身体がふらついた。扉の枠にとっさに手をつき難を逃れたが、自分が肩で息をしていることに気づき我に返る。

 いまは真夏だ。できるだけ日陰を歩いてきたとはいえ、長時間屋外にいることは推奨されなさそうな気温である。ここ1~2週間、日中に外を歩き回っていなかった僕にこの湿度はこたえた。

 ――とりあえず、水が飲みたい。まずは少し休憩か――

 店の扉に身体を預け、僕は数回呼吸を繰り返した。

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