19 惑う心
熱くなった頬をあおぎながら、僕は記録用のノートと向き合った。だいぶ情報量が増えてきた。<使ったもの・食べたもの>の項目は、かなりあっさり記入しているにもかかわらず2ページ目に突入している。昴のおかげで、今までスカスカだった<名前など>の情報もかなり書き足せそうだ。
<名前など>
・名前=わからない →今の呼び名は“ハチ”
・年齢=20代~30代? →たぶん20代
・家族、住まいはわからない。 →この家は新鮮。たぶん一人暮らしではなかった
・服の値段はなんとなくわかる。食べ物の値段がわからない
→食材の名前もわかる。調理方法がわからない
・20時に人⇒猫、8時に猫⇒人になる
→魔女に変えられた。変わったのは僕の意思?
→猫・八は本名に由来する可能性が高い
→本名を思い出したら、魔女との「契約」が切れて記憶と姿が戻る?
・昨日、猫になっている間の記憶がなくなっていた
<“とっておき”の場所>
・行くのに案内がいる
→男が案内。大学生ではない。魔女と知り合い? 完全な仲間ではなさそう
・雑居ビルの3Fにある、バーみたいなところ
・何かをくれる? してくれる?
→自分の名前にちなんだ動物に変えられる
→代わりに自分の名前を魔女にとられる
→名前を思い出す=“契約”が切れる=元の姿に戻れる?
→いちど“契約”すると、魔女の店には戻れないらしい
・昴の家の近く。大学からも歩いて行ける
思いつくまま色々と書き出してみたが、特に気になるのは2点。本名を思い出せば姿が戻るということと、僕が昨日、猫になってからの記憶が無いことだ。
八がつく名前と猫がつく名前をそれぞれスマホで検索してみたものの、ピンとくる字面は見つけられなかった。八がつく氏名はただでさえ多いのに、昴が指摘した通り漢字の一部分が八、という可能性もある。しらみつぶしをするのは無理がある。猫のほうだって、猫の字そのまま、とも限らない。
――手詰まり、か――
ボールペンを机に転がし、ゆっくり息を吐く。気持ちを切り替えるためにちょっと呼吸を整えるつもりだったが、思いのほか深いため息が口から流れ出した。
危険な思いをして、昴は魔女のところまでたどり着いた。確かに有用なヒントはもらえたが、ここからどうすればいいのか、またわからなくなってしまった。
思えば、昴に拾ってもらってから、いつもそうだ。ノートをつけたり、一緒に買い物に行ったり。彼女の主導で試したものごとによって、少しずつ、僕の輪郭が見えてきた。僕自身が主体的に動いて得た情報は、何もない。居候で、質素な生活をする彼女に衣食住の面倒まで見て貰い、さらには僕の記憶を取り戻す作業もお任せ状態だ。
昴は、ことあるごとに「ハチに助けてもらってる」と言ってくれる。その言葉は傷つくモノを放っておけない彼女だからこそ出てくるのであり、僕が本当に助けになっているとは到底思えなかった。
何もできない、何も自発的に考えられない自分に嫌気がさす。いらだっている場合ではないのはわかっているが、自己嫌悪の連鎖を止めることは難しい。結局、眠って思考を断ち切ることにした。
机につけていた額をはっと上げると、外は薄暗くなっていた。
少しだけ寝て気分を切り替えるつもりだったのが、数時間意識を飛ばしてしまったらしい。机に突っ伏していたことで首と腰が痛い。
――僕はなにをやっているんだ――
また、深いため息が出る。昴がいない間に、なるべく自分で調べられることは調べたかったのに。だんだん、頭の中が「怒」のマークで覆われていき、椅子から立ち上がれなかった。
「ただいま」
抑揚のない声に、小さく飛び上がる。昴が玄関の扉を閉めて、リビングにやってくるのに時間はかからなかった。
「おかえり」
「どうしたの。電気もつけないで」
僕が席を立つより先に、昴がスイッチを押す。薄暗い部屋がいきなり明るくなり、まぶしさに目を細めた。電気スイッチの脇に立ったまま、まっすぐとこちらを見据える彼女に対し、無言を貫くことはできなかった。
「ごめん。昴。迷惑かけてばっかりで」
しかし、今の状況で口にできるのは謝罪の言葉だけ。それを言ったところで、何の解決にもならないことはわかっているのに。
「気にしなくていいって。私がここにいていいって言ったんだから。迷惑より、助かってる事のほうが多いよ。スーパーの特売日にまとめ買いできるし、部屋の掃除とか、手伝ってくれるし」
「でも、居候で、なんにも持ってなくて、与えてもらってばっかりだ」
「そんなことないよ。……ハチ、いったんお風呂入ってきたほうがいい。すっきりしてから、話そう」
やさぐれた発言をしそうになるのを自分でも感じたので、この場で否定語を連ねるのはやめて、家主の指示に従うことにする。
「ハチは、わたしにとってお兄ちゃんみたいな存在なんだ」
浴室から出ると、すでに食事が配膳されていた。また申し訳ない思いに駆られつつ席に着くなり、昴は前置きなしに先ほどの話を続ける。
「わたしの家は、小さい頃から父親がいなかった。ずっと母親と二人暮らしで、男性の家族って、遠くに住んでるじいちゃんと渉くらい。でも、じいちゃんもわたしが小学校に上がる前に亡くなっているから、実際には渉だけかな」
突然始まった昴の身の上話に、背筋が伸びる。彼女が奨学生なのも、その生い立ちが関係していそうだ。
「わたしにとってはそれが普通だったから、あんまり気にしてないけど。母親は仕事でいつも家にいなかったから、家で誰かに話を聞いてもらったり、一緒に物事を考えたりすることはほとんどしてこなかったんだ」
人に寄り添うことが上手な彼女がそんな家庭環境で育ったのは、意外だ。一方で、高い家事能力は実家にいたころから培われていたのではないかと考えると、納得がいく。
「だから、常に家にいて、一緒に色んな話をして、考えてくれる人はハチが初めてなんだ」
「渉さんは、いかにもお兄さんっていう感じだけど」
面倒見がよく、準備もいい従兄の存在を指摘すると、彼女は緩く首を横に振る。
「渉は、あくまでもいとこ。学生のころからプログラミング系のバイトで稼いでたし、稼ぎながらばあちゃんの手伝いをしてた。わたしがばあちゃんの家に行くときは一緒に遊んでたし、頼りになる親戚だけど、お兄ちゃんって感じではないと思う」
「しっかりしすぎてる、のか」
「というより、物理的に近い存在じゃない、かな。“遠くの親戚より近くの他人”でいうと、“遠くの親戚”っていう感じ。頼りにはなるけど、日常の小さいできごとを、いちいち話す感じの距離感ではなかった」
「それは、そうかもね」
確かに、昴の家から離れている、仕事の忙しい渉さんに毎日雑談をする、というのはハードルが高い。
「だから、ハチは“赤の他人”だけど、すごく家族って感じがする。わたしにはそれが嬉しいんだ」
箸をおいた昴は、少しはにかんでいった。控えめな、それでいて少し照れているのがわかる笑顔を直視できず、目線を完食したお茶碗に移す。
「あ、ありがとう」
このご飯も、昴が僕を家族だと思ってくれているから、嫌な顔せずに作ってくれているのか。そう思うとお茶碗を見ているだけでも彼女の愛情が伝わってくる気がして、落ち着かない。
視線をうろうろさまよわせているうちに、いつの間にか日中の苛立ちはおさまっていた。
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