15 魔女・上

 タン、タン、タン

 金属製の階段をのぼっているのだろう。二人分の足がゆっくりとリズムを刻む。閑静な住宅街の一角にしても、静かすぎる気がする。ここに来るまで、昴たち以外に人が動く気配は全く感じられなかった。カラスの鳴き声などもしないから、もしかしたら“魔女”とやらが手を回しているのかもしれない。

『着きました。こちらでございます』

 目的のフロアに着いたのか。二つのリズムが止まるのとほぼ同時に、男が昴に声をかけた。

『カフェ、というよりもバーですか』

『あの方は、お酒はお出ししておりませんよ。あの方がいらっしゃらない日は、おっしゃる通りバーとして稼働されているようですが』

 どちらかが扉を開けたようだ。カランコロンという、喫茶店にありそうな木琴のドアチャイムが鳴った。


『こんばんは』

 昴の呼びかけに返事は無い。

『谷口様はもう少し、中へ。カウンターのお席におかけください』

 男が椅子を引いたのだろうか。表面がざらざらしたタイルを金属でこすったような音が響く。

『あの方をお呼びしてきます。こちらで少々お待ちください』

『はい』

 男はこの場所に慣れているようで、“魔女”ともそれなりに面識があるらしい。呼んでくるというくらいだから、バックヤードにでも入っていったのだろうか。


『小さいバーみたいなところ。薄暗いけど雰囲気はいいよ。逆さまにぶら下がっているワイングラスが、上にたくさん並んでる』

 いきなり、小声でささやく昴の声がして、僕は背筋を伸ばす。こちらから返事はできないが、“魔女”が来るまで状況を説明してくれるつもりのようだ。

『カウンターが5席。いや入口側にも椅子があるから、6席か。いまはその真ん中に座ってる。カウンターは分厚い木で、明るい茶色、っていえばいいかな。背もたれが無い丸椅子がそこに並んでる。さっき案内してた男の人は、裏手に入っていった』

『なんだ、冷やかしの動画投稿者かい?』

 突然、低い声が響く。画面越しだが反射でヒッと小さく叫びそうになり、慌てて口を押えた。画面の向こうはきわめて静かで、ビビりな自分がすこし恥ずかしくなる。

『いえ。忘れっぽいので。状況確認を声出しでしていました』

『ふうん。確かに、動画は撮っていないようだね。いったん、そういうことにしておこうか』

 こういうとき、昴のテンションが一定であることは強みだと思う。少なくとも声で判断する限り、彼女が動揺しているようには感じられない。

『あなたが、魔女、ですか』

 そのうえ、初対面では不躾ぶしつけではないかと思う問いを、一発目で投げかけた。

『まぁ、そう言われることが多いね。名乗るような名前もないから、それで構わない。だいたいの人間がその名に持つ印象と、性別は合っているからね』

 幸いにして怒られはしなかったが、威圧感のある声に気圧される。普通、低音で発せられる言葉は聞き取りづらい。しかしスマホから響く声は、かなり低いもののよく通った。

 そしてどうやら、魔女は女性らしい。魔という呼び方を案内人の男が否定しなかったから、そんな気はしていたが。そこまで考えが及んでいても、本人の申告がないと確信を持てないくらい、彼女の声は野生肉食獣の雄を思わせる迫力があった。


『で、用件は何だい? ウチのところに来たってことは、何か契約がしたいんだろう』

『契約、ですか。自分以外の何かになれる、と聞いてきたのですが』

 サークルの勧誘ビラで見かけたフレーズを口にする昴に対し、ふん、と魔女が鼻を鳴らした。

『初対面の見ず知らずの人間相手に、いきなり何かしてあげるわけがないだろう。そんなことをするのは、よほどお人よしなのか、あとで法外な要求を突き付けてくる性悪な奴か、だ。ウチはどちらでもない』

 いつの間にか飲み物が出ていたのだろうか。氷がグラスにぶつかり、カラン、と涼やかな音色を立てた。そんな場違いな小さい音をスマホが拾ってしまうくらい、静かな空間だった。

『ウチの要求が納得できた人間とは、契約を結ぶ。契約だから、当然ウチも相手の要求を叶える。だが納得できないなら、帰ってもらう。二度とここの敷居は跨がせない。わかりやすいだろう』

『はい。人にものをお願いするときに、お互いの納得が必要という点は、同感です。わたしが自分以外の何者かになりたいなら、あなたにもなにかメリットになる条件が必要、ということですね』

『物分かりが良くてありがたいね』

 どん、と重いものが置かれたような鈍い音が聞こえた。

『水晶玉、と、ガラス板ですか』

『まあただの玉と板さ。素材は使えればなんだっていい。ここに来て契約を結ぶ人間は皆、板に名前を書いていく。契約書のサインだと思ってもらえればいい。それを力にして、ウチは契約を履行する』


 水晶玉と、ガラス板。タブレット端末くらいの大きさの薄い、透明な板。そばには赤い台付きの、バスケットボールくらいの大きさがある水晶玉。木目模様の机の上にそれらが置かれている場面が、ふいに僕の脳裏をよぎった。単なる想像か、それとも、実際に見たことがあるのか。一瞬考えたが、後者だという根拠なき確信があった。

 僕は、いま魔女がいる場所に行ったことがある。

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