13 サークル「変幻自在」
昴にもらったノートを更新していたとき、僕のスマホが机で震えた。
渉さんから受けとった黒い薄手のスマホには、彼と昴の連絡先しか入っていない。容量制限のあるプリペイドSIMだから、アプリをダウンロードしたり検索に使うのも不安でほぼ初期設定のままになっている。結果、このスマホが鳴るとしたら二人のうちどちらかから、連絡があったということだ。
「っと、渉さんか」
渉さんには、僕の記憶の解明状況を時折報告している。衣食住のうち「衣」を提供してくれた彼は、昴とは違い一歩引いた形でサポートしてくれる。僕がチャットを送っても詳しい考察が飛び交うことはなく、“何かわかるといいね”と返事をくれるのが常だ。しかし、今日は少し違っていた。
『昴から聞いたよ。ハチくんに関係がありそうな怪しいサークルがあるって。本当に関わりがあるとわかるまでは、きみは直接そこの人たちと接触しない方がいいと思う』
『また巻き込まれる可能性もあるし、今のハチくんの状態が知られたらまずいかもしれないから』
『何かわかるといいね』
今回の件は、僕が猫でいる間に昴から連絡していたらしい。見えていないのはわかっていても、画面に向かって大きく頷く。
いまはまだ、探りを入れている段階だ。何かわかるまでは下手に動かない方がいい。とはいえ、そんな危険かもしれない場所に、昴を単身で乗り込ませていることへの罪悪感はある。
――そもそも僕自身が何か、記憶を取り戻す手がかりを持っていればいいんだけれど――
一週間ほど昴と生活を共にしてわかったことは少ない。どんなささいなこと――食べ物の物価がよくわからないとか、オイルサーディンを食べた記憶があるとか――でも昴は真剣に聞いてくれるし、そこから人物像を考えようとしてくれる。それでも、肝心の「なんで猫になっていたのか」の部分につながる手がかりは見つからないままだった。
猫として目覚めた後の不慣れな感覚から、この近所で姿が変わったのではないか――猫として目覚めたのはあの日、あの場所が初めてだったのではないか――という気がする。しかしそれも、何者かの手で猫にされて、長距離を移動していたならわからない。
思考が行き詰まっていたタイミングで不意に出てきた「人以外の動物に変われる」とうたうサークル。胡散臭いことこのうえないが、全くノーヒントの現状では、あてずっぽうでも僕の記憶につながりそうなキーワードに飛びつかないわけにはいかなかった。
朝、人の姿に戻ってからずっと落ち着かない僕は、先ほどから今までわかったことをノートに整理したり、昴が今何をしているのかに思いを巡らせたりして気を紛らわせているのだった。
一旦気分転換しようと椅子から立ち上がった時、再び四角い筐体が震えた。
机に直置きしたスマホの通知は、バイブレーションにしていても大きな音として聞こえる。ウーという不快な響きににびくっとしながら手に取ると、今度は昴からだった。
『だいひょうに あえた ぶしついく すぴーかーで でんわかけるから おとだけきいて』
画面を見ずに打ったのだろうか。全文ひらがなのメッセージの意味を理解するのに、少々の時間を要した。間をおかずに、着信があり慌てて「通話」ボタンを押す。
サークルの代表に会えた。これから部室に向かう。スピーカー機能の状態で電話をかけるから、何を話しているか聞いておいてほしい。
昴のチャットをそう解釈した僕は、電話がつながっても呼びかけはせずに耳に当てた。
鞄のポケットにでも入れているのだろうか。布がこすれるようながさがさという音が耳元で響く。顔をしかめつつ、何か音を緩和できるものがないか、立ち上がったついでに探しにいく。
右手を固定したまま室内をうろうろした結果、机の上にハンカチを敷き、その上にスピーカー状態にしたスマホを置くことにした。この通話が2~3分で終わる気がしないし、耳元で聞いていて突然変な会話が聞こえたら、うっかり声を出してしまうかもしれない。だから僕は少しだけ離れて、口元をタオルで押さえた状態でスタンバイした。
がさ、がさという反響がおさまる。と同時にドアノブを回し開く気配がした。
『どうぞ。今日は他の部員がいないと思うから、ゆっくりしていって。ここにかけてもらっていいから』
『ありがとうございます』
人当たりのよさそうな、やわらかい女性の声と、落ち着いた昴の声が流れ出る。どうやら、サークルの代表は女性のようだ。再び布ずれの音がしたので、二人とも座ったのだろう。
『改めて、このサークルに興味を持ってくれて嬉しい。さきほども自己紹介したけれど、「変幻自在」の代表の姫継佳宵子(ひめつぐ かよこ)です。お姫さまを継承するって書くの』
『本名だったんですね』
『よく言われるわ。この名前でいじめられることもあった』
姫継という人は、率直な物言いの昴に対しても柔らかく返している。しかしいじめと言った瞬間に、声のトーンが少し下がった、ような気がした。
『顔と名前が合ってないって自分でも思うもの。それなのに姫、姫ってからかわれるから。結婚したら苗字を変えられると思ってたけど、彼氏もできないし。このまま一生いじめられて過ごすんじゃないかって、不安になったのが大学1年の時』
昴に話しているのか、自分の世界に入っているのか、姫継さんは滔々と言葉をつなげる。
『名は人を表すという。あなたの名前は、あなた自身にとてもよく似合っている。そう言ってくれたのが、当時のサークル……「変幻自在」の代表だった。
初めてだったの。この名前が、わたしに合ってるって言ってくれた人は。それで、サークルの歓迎会に行ってみたら、じぶんの名前で悩んでいる人がたくさんいた』
名前にコンプレックスのある人が、コンプレックスのない、自分の名前から解放された存在になることがサークルの目的なのだろうか。僕が頭をひねっている間にも、話は進む。
『お互いに名前で嫌な思いにあったことを話したら、すこし心が楽になった。それから、わたしは部室に通うようになったの。このサークルの人たちは、名前でからかったり変な目で見たりしなかった。みんな、それで苦労した人同士だから。
あなたも、名前で嫌な思いをしたことがあるのかしら。無理に言う必要はないけれど、「変幻自在」に入る人は、みなそうだから』
『……名前だけを見て、性別を間違えられることはよくあります』
なんとなく、スマホの向こうで姫継さんが大きく頷く気配がした。
『昴ちゃんってかっこいい名前だけれど、ぱっと見て男の人って思う人がいるかもしれない。わたしはすてきだと思うわ』
『わたしも、この……いえ、姫継さんの名前は女性的で合っていると思います。やさしくて、何でも受けとめてくれる包容力を感じます』
昴、自分の名前は気に入ってるって言っていたからな。今それを口にするのは適切ではないから、とっさに相手を褒める方向に切り替えたようだ。
『ふふ、嬉しい。そこまで優しくフォローしてくれたのは、あなたが初めて』
『初対面の方にフォローはしません。思ったことをお伝えしたつもりです』
『それは素敵。女の子相手なのに、ちょっとくらっときたわ』
相変わらず昴の声のトーンは一定だが、言葉だけで口説いているように聞こえるのが不思議だ。彼女の言い回しがタラシのそれだと思うのが自分だけではないことに、こんな状況だが妙に安心してしまった。
『嬉しい気持ちにさせてくれたから、「変幻自在」の“とっておき”を見せてあげる。明日、時間はある?』
本当にたらしこまれたらしい姫継さんは、そんな提案をしてくる。サークル「変幻自在」は怪しい団体だ。そう言い聞かせながら聞かないと違和感を覚えないくらい、彼女の言い方は自然だった。
『授業が5限まであるので、そのあとでしたら大丈夫です』
『そう。“とっておき”に行くのは終業後だから、ちょうどよかった。だったら、明日の5限後にこの場所で待ち合わせでいいかしら?』
“とっておき”というのは場所を指すらしい。
『わかりました』
『あと、ひとつだけ。“とっておき”に行けるのは一回に一人だけって決まっているの。だからお友だちは連れてきても、一緒には行けない。できればあなた一人で来てほしいわ。秘密を共有するのは、素敵な人たちの間だけにしたいじゃない』
『はい』
なんだか、雲行きが怪しくなってきた。大学が警戒しているサークルがいう“とっておき”の場所に一人で連れていくとは、ろくなところではなさそうだ。しかし昴はその条件にもあっさり答えて、荷物をまとめ始めたようだ。
『では、また明日こちらに伺います』
『ええ。楽しみにしている。わたしはもう少しここにいるけれど、帰り道はわかるかしら』
『大丈夫です。では失礼します』
『おつかれさま』
立ち上がるのに生じる布ずれ、それからドアノブをひねり、ドアを閉じる。金属製の階段をおりるタン、タンという響き。そういった生活音がしばらく続いた後、通話が途切れた。
ほどなくして、スマホが再び通知を知らせる振動を響かせた。
『家で、今日きいた話を確認しよう。明日の動きも含め』
「了解」
チャットに対して口に出して答えてから、同じ内容を打ち込む。振動対策をしていたタオルを片付けて、机の上をすっきりさせた。
色々と気になることはあるが、まずは昴が帰ってからだ。
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