5 ハチ
あまり買うものはないと言いつつ、家路につく僕たちの4本の腕すべてに、買い物袋が提げられていた。
「ごめん。重いものを持たせて」
「ううん。むしろ卵とかは、つぶしそうで怖いから。それよりは重いほうがいい」
僕が両手にもっている布製の袋には、みりんやらごま油やら、液体系の調味料が色々と詰め込まれていた。びん入りのものは昴が手拭いで手際よく包んでくれたので、よほど勢いよくぶつかったり落としたりしない限り壊す心配は薄い。左肩に野菜の入った麻の袋を担ぎ、右手で割れやすそうな食品一式が入ったビニール袋を提げている昴に比べたら、緊張感が低いとおもう。
「いや、荷物持ちは慣れだから。さっきもいったけど、必要に駆られたら覚えるし、毎週のようにやってたらできるようになるよ。……逆にみりんとかは、そんなに頻繁に買わないから持ってもらえて助かる」
「お役に立てて幸いです」
「いいえ」
ちゃかすような会話を交わした僕の足取りは軽い。ただ何もせず居候させてもらっているのを気にしていたので、ささいなことでも“昴の役に立っている”という実感が持てるのはうれしい。彼女は感情があまり大きく顔にでない代わりに、思ったことをはっきりと口に出してくれる。だから居心地が良いのだと、僕は薄々感じはじめていた。
――なし崩し的に、というより昴の提案で住まわせてもらっているけど。彼氏とか、いないのかな――
ふつう、彼氏がいたら見知らぬ男を家に泊めようとはしないだろうから、多分いないのだろう。でもきちんと確かめておいた方がいいと思いつつ、直接聞くのはためらわれてしまう。何の文脈もなく突然切り出すには、だいぶプライバシーに突っ込みすぎているきらいがある。
「あれえ、昴ちゃん?」
僕の考えごとは、昴に話しかける男性の声で打ち切られた。
「松葉さん、こんばんは」
昴の答えに身を固くする。マツバさんは、昴の部屋の隣人ではなかったか。二人で買い物帰りというこの状況、見られたのはまずいのではないだろうか。
「昴ちゃんだよね? 知らない人と一緒にいるから、一瞬見間違えたかと思ったよ」
案の定、松葉さんは口ぶりからして僕を思いっきり警戒している。どんな風に見られているのかを確かめるのがこわくて、とっさに目線を地面に落としてしまう。しかし僕の後ろめたそうな行動によって昴の株が下がったら嫌だと思い、なんとか顔を上げて松葉さんの方に身体を向ける。疑うようにこちらを見ていた彼と思い切り目が合った。
「けっこうイケメンだね。あれ、一緒に買い物してきたのかい?」
「はい」
即答する昴に、僕は焦る。そんなにあっさり認めたら、さらに追及が飛んできそうな雰囲気だ。僕の存在がばれた後なんて説明をするのか、口裏合わせをしていなかったのが悔やまれる。どうすればよいのだろう。
「料理を教わりたいといわれたので、食材を一緒に選んできたところです」
首を傾けて「ね?」と目で問われ、慌てて頷く。
「はい。すば……谷口さんの料理が美味しいと聞いたので、ぜひ教えてもらいたいと思いまして。食材選びも、勉強になります」
ついさっき知った情報を組み合わせて何とか答えると、松葉さんは大きくうなずいた。
「そりゃそうだろう。昴ちゃんは大学入学してから、ずっと自炊しているからね。ぼくも前肉じゃがをお裾分けしてもらったけど、うちの姉が作るのよりおいしかったな。それにしても、昴ちゃんの料理上手はどこで知ったの?」
「
昴がそう答えたとたん、松葉さんの表情は幾分か和らいだ。
「渉くんの知り合いか。なら納得だ。それにしたって、渉くんも事前に教えてくれたらいいのに。知らないうちに変な男につかまっていたら、君の家族に申し訳が立たないからね」
なんだかよくわからないが、共通の知人の名前が出たことで、彼の疑念は薄らいだらしい。
「でも、せっかくいま会ったんだから、名前くらいは教えてほしいな」
安心するのはまだ早かった。名乗れる氏名は、思い出せない。しかし“名無しの権兵衛です”などといえる雰囲気でもないし、今まで仮名をもつ必要性を感じていなかったからとっさに出てこない。
「……名乗るのは嫌かい?」
「ハチ、って呼んでます」
松葉さんが再び疑うような声音になったタイミングで、昴が即座に返した。……ハチ?
「ちょっと、お忍びらしくて。外でむやみに名前を呼ばないほうがいいらしいんです。だから、松葉さんもハチでお願いします」
真顔で頭を下げる昴に従い、僕も頭を下げた。恐る恐る頭を上げると、松葉さんはじろりと僕を見た。
「お忍びって。女性関係のトラブルがあるとかじゃないよね。渉くんが昴ちゃんのところによこしたんだから、まさかそんなことはないと思うけど」
「いえ、そういうわけではありません!」
反射的に返したが、100%無いとは言い切れないのがつらいところだ。過去の自分が何かをやらかして、結果的に記憶喪失になっている可能性も現段階では否定できない。
なおもじっと見られたが、見つめ返しているとやがて先に目線をそらされた。彼は横を向いたまま、深く息を吐く。
「ふーっ。まぁ、渉くんと昴ちゃんに免じて、この場は君の言葉を信じるよ。くれぐれも、昴ちゃんに迷惑がかからないようにね」
「はい」
今度は、迷いなくはっきりと返事ができた。それを見て少し安心したのか、松葉さんはさっと手を上げて歩きだす。
「じゃ、ぼくはちょっと出るから。帰りは遅くなるかな。昴ちゃんも人を家に上げるんだから、気を付けてね」
「わかりました。いってらっしゃい」
ひらひらと手を振りながら歩いていく松葉さんを見送り、僕は深呼吸をした。
「……緊張した」
「名前、考えてなかったね」
昴は小声でつぶやき、後ろを振り返った。松葉さんが十分離れたのを確認してから、言葉を続ける。
「ごめん。あなたの特徴を考えたときに、“8時に猫になる”ことを真っ先に思い出したから。8時のハチってとっさに言っちゃった」
そういうことか。当てずっぽうで答えたにしてはあんまり人間のあだ名っぽくないとは思ったが、理由を聞いて納得した。
「いや、僕は何も考えられなくて、単語が出てこなかったから。むしろ昴がスパスパ切り返しててすごいと思った」
「松葉さんとは、毎日あんな感じでやり取りしてるからね。料理と一緒」
「毎日やってたら、できるようになる?」
「そう」
彼女がついさっき言っていた言葉を口にすると、また小さな笑みを見せてくれる。それをすぐに引っ込めて、前を見据えた。
「一応、あの場は切り抜けたけど。たぶんまだ納得はされてない。申し訳ないけど、しばらく外ではハチって呼ばせてもらう」
「そのほうが、よさそうだね」
「で、一応言った手前、料理も見てみる?」
昴の提案に、僕は目を瞬かせた。むろんそのつもりだったし、そもそも一緒に食事をとっているのだからそこを確認されるとは思わなかった。
「もちろん。今日買った食材と、おばあちゃん? の野菜でどんな料理になるのか見てみたい」
「あー、完成版は当然、一緒に食べるから見るけど。作るところも、見る? 素人だから別に見せるようなものでもないけど、見たら何か思い出すことはあるかもしれないし」
「昴が、邪魔じゃなければ」
「別に台所で暴れるわけでもないでしょ。大丈夫」
作業を観察されるのは、嫌な人は嫌じゃないかと思うが、昴がいいというなら僕は彼女に従うまでだ。
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