3 お隣の松葉さん
「猫になると、服が脱げるのか。だから今朝は全裸だったんだね」
最初に納得するところはそこなのか。思わず突っ込みを入れそうになるが、みゃーみゃーいうだけで終わるのは学習済みだ。とりあえず全身に覆いかぶさっている浴衣からはい出して、手前に座る。犬で言う「おすわり」の姿勢だ。夕食を作ろうとしていた昴も、手を止めて僕の前に戻ってきた。
「私が誰かは、わかる?」
問いかけに首を縦に振り、気づく。たしかに、前猫でいたときは「人だった時の記憶」が無くなっていた。今は、道路の上で目が覚めた時以降の記憶がちゃんとある。もちろん、昴のこともわかる。
「わかるみたいだね。こんな人間ぽい猫いないし」
彼女はそう笑って、机上に視線を向けた。
「今、ちょうど20時を過ぎたところだけど。今朝全裸人間になったのって、何時ごろだったかな」
全裸にこだわるなぁと心の中で苦笑しつつ、思い返すも今朝、時計を見た覚えがない。結局昴が一人で考えるのを見守ることになった。
「大学の授業は2限からだから、私は今朝9:30ごろに家を出てる。あなたの話を聞いて、大学に行く支度して、ノートも作ったから1時間以上はかかっているよね。そしたら朝も8時くらいなのかな。いずれにしても、8時くらいを境にまた人間に戻る可能性があるから、注意しておいた方がよさそうだね」
昴はぱん、と手をたたいた。
「とりあえず、明日に備えてさっさと休もうか」
・・・
翌朝。全裸対策でバスタオルをかぶせられた僕の前に、アナログの卓上時計が置かれた。昴曰く、8:00にアラームが鳴るようにセットしてあるから目を離していても気づくらしい。
僕はほかにすることもないし、手のひら大の時計とにらめっこをする。銀メッキのそれは、上部に2つベルがついた懐かしいデザインだ。でも秒針は音を立てずに回るから、物自体は新しいのかもしれない。
――7時59分59秒――
滑らかに動く細い秒針が12のところに来たとき、僕の体内が大きくうねる感覚があった。猫になった時に感じた激しい痛みはないが、寝起きで突然動き回った時のような気持ち悪さで、頭がくらくらする。追い打ちをかけるように、目覚まし時計のアラームが脳内に響きわたる。
ジリリリリリリ……
支度をしていた昴が戻ってくる前にバスタオルを巻く意識は、かろうじて残っていた。僕がどうにか腰回りを隠して壁に手をついたのと、彼女がけたたましく鳴るベルを止めたのはほぼ同時だった。
「やっぱり、8時ちょうどに変わったね」
「そう、だね」
深く息をつきながら答えると、昴は僕の顔を下から覗き込んできた。
「大丈夫、じゃなさそうだね」
「いや、落ち着いてきたから、今は大丈夫だよ。目覚ましの音で、ちょっと耳がキーンとはなっているけど」
実際、身体の変化に伴う気持ち悪さよりも、耳に残るベルの強烈な音響のほうがダメージは大きかった。昴はふっと横を向く。
「ごめん。目覚ましの音、猫にはうるさすぎたね」
いや、人間にとってもけっこうな音量だと思うけど。それはさすがに言わないでおいた。
「あーでも、今の時間帯に鳴らしたのはまずかったかも」
彼女は僕から目をそらしたまま、視線を玄関に向ける。それを待っていたかのようにドアチャイムが鳴った。
「たぶん松葉さんだ。いったん、洗面所に行って。出てこなくていいけど、浴衣は着ておいたほうがいい」
早口でささやくと、昴は急ぎ足で玄関へ向かう。僕は玄関口が開く前に、慌てて洗面所に飛び込んだ。脱衣所の引戸を閉める直前に、玄関に立った昴がドアノブを押すのが見えた。
「昴ちゃん、おはよう。今日は二度寝?」
一瞬視界に入ったシルエットから察するに、がっしりとした体格の男性のようだ。第一声からかなりデリカシーに欠ける発言な気がするが、昴は気に留める様子が無い。僕と話すときと同様、感情の起伏を感じさせない落ち着いた声で答える。
「いえ。課題を終わらせるのにタイマーをセットしていたのですが。ごめんなさい、朝からうるさかったですよね」
「いいよ、昴ちゃんがあの目覚ましを普段使いしてるのは知ってるから。ただ平日の朝に、目覚まし以外の用途で使ってるの珍しいから。二度寝してたらまずいなぁと思って」
「お騒がせしました。お気遣い、ありがとうございます」
「ううん。勉強、頑張ってね」
「はい」
扉が閉まり、鍵がかけられたのを音で確認してから、僕はおそるおそる脱衣所から顔を出した。目が合った昴は、口パクで伝えてくる。
きがえたら?
会話に集中してバスタオル一丁のままだったことに気づき、慌てて再び扉を閉める。きれいに畳まれた浴衣を着ていると、壁越しに彼女が声をかけてきた。
「さっきの人は、たぶん自分の部屋に戻ったから、声出して大丈夫」
「今のは?」
「松葉さんっていう、隣の部屋の人」
僕は、昴にもらったノートに「お隣に気づかれたらめんどう」と書かれていたことを思い出した。
「いつも、あんな……ちょっとしたことで声かけてくるの?」
勝手に家に上がり込んでいる僕が言うことでもないが、赤の他人にしてはちょっとおせっかいが過ぎる気がする。
「うん。ここ、女子大生が一人暮らしする用のアパートじゃないから、入居の時にいとこがお隣さんに色々頼んでいって。ちゃんと大学に行ってるか、トラブルに巻き込まれてないかとかを確認してくれてる」
「厳しいね」
それでは、親元を離れて羽を伸ばして楽しむ、という雰囲気では無いのではなかろうか。昴の表情は見えないが、彼女の声音は変わらない。
「まぁ、遊ぶために一人暮らししているわけじゃないし。大学行くために奨学金もらってて、欠席したらまずいから。寝坊したりしないように、いちおう自分でも気を付けてはいるけど。私が大学の勉強を重視してるのを知ってるから、松葉さん……お隣さんね。あの人も目覚ましの音には敏感なんだ」
お隣さんとの関係性はわかった。しかし目覚まし時計が鳴る時間がいつもと違うだけですぐにやって来てしまうほど、生活習慣を把握されているのは女の子としてどうなのだろう。昴は気にしていなさそうだが、やはりちょっと引っ掛かる。だから、思わず口に出てしまった。
「昴はいいの? 寝起きの時間とか、プライベートなことを赤の他人に知られるのって、僕は嫌だなと思うけど」
「今までは、あんまり気にしてなかった。実家に住んでるのと変わらない感覚だし。でも今は、どうしようか」
淡々としゃべる昴は、ひと呼吸おく気配がした。
「あなたがいるのがばれたら、なんて説明するべきかは考えないといけないね」
「一個、今聞いてもいいかな」
「なに?」
僕はとっくに浴衣に着替え終わっていたが、面と向かって聞くのが少しこわくて、扉を開けずに声をかけた。
「厄介なお隣さんは、たぶん僕が本当に猫だったとしても、何かしら構ってきていたよね。それでも、僕を連れ帰ってくれたのはなんで?」
「ケガしてるのを見たから」
昴の回答は簡潔で、僕が予想していたような逡巡の時間は一切なかった。
「それだけ?」
「うん」
シンプルすぎて返す言葉を失っていた僕にかまわず、昴は洗面所の扉を開けた。
「さすがに、もう着替え終わったよね。そんなわけで、ドアホン鳴っても出なくていいよ。今日は午後までずっと授業だから、帰るの遅いけど、松葉さんに何か言われたら私から言っておくから」
僕が浴衣姿になっているのを確認すると、話はこれでおしまい、とでもいうように踵を返し、さっさと自分の準備をしに行ってしまう。
「ほんとうに、それだけで助けようと思えるのかな」
「何か言った?」
「ううん。独り言」
聞き返してきた昴に慌てて返し、彼女に見えないように死角に入る。
今まで生きてきた中で、たぶん彼女のような考え方の持ち主には会ったことが無い。以前の僕の人間関係は全く思い出せていないが、なんとなくそんな気がした。しゃべってすらいないが、松葉さんも同じだ。僕は、全く見知らぬ世界に足を踏み入れてしまったのかもしれない。
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