2 女子大生の家
「警戒されてないのかな……」
部屋にひとり残された僕は、誰にともなくつぶやいた。
家主である彼女――
「今日、私は昼前から大学あるから。いまから出るけど、帰ってくるまでに自分でわかることはノートに書いておいて。夕方には戻るから。そのあと、どう動くか決めよう」
「これは」
「中見ればわかると思う。一応最低限知っておいてほしいことを書いておいた。筆記用具は適当に使ってもらっていいから」
それだけ言って、昴はあっさり家を出て行った。見知らぬ男を一人で自宅に残しておく、貞操観念が心配になる。が、ルールを破れば通報するといわれたことは忘れていない。僕はいったん彼女の指示に従うことにした。
Cから始まる有名なB5の横軸ノートの表紙には、サインペンで「記録」とだけ書かれている。きっちりとした、読みやすい字だ。
見開きの二ページ目からは、ボールペンで箇条書きされた文字が並んでいる。
<名前など>
・谷口 昴(たにぐち すばる)
→名づけはじいちゃん。曲が由来。
→性別を間違えられることもあるけど、自分の名前はけっこう好き。
・大学二年生
・今住んでいる家はアパートで賃貸、一人暮らし
・家族は母、いとこ、ばあちゃん。
<家のルール>
・ごはんは残さない
・あまり物音を立てない
→お隣に気づかれたらめんどう
・使ったもの、食べたものは記録すること
→記憶が戻ったら返してもらう。費用もわかれば記録すること。ノートの裏側に記入欄あり
見開きの右側にも、<名前など>と記されている。その上に鉛筆で線が引かれ、メモ書きがされている。
“私の作ったリストと同じレベル感で、自分のわかることを文字起こししてほしい”
左右のページを見比べて、僕は首をひねった。
自分の名前は思い出せない。思い出すためのヒントとして、彼女……昴自身の名前の由来も書いてくれたのだろうがそれでもぴんと来ない。
年も、覚えていない。が、昴を見た時、彼女の方が年下な気がした。いっぽう、洗面所の鏡に映った僕の顔からすると、40歳以上ということはないと思う。初対面でタメ語だったから、昴も僕とそんなに年が離れているとは思っていないだろう。
家族構成もさっぱりだ。本当に最低限だが、いまわかることもなるべく含めて書き残すことにした。
<名前など>
・名前=わからない
・年齢=20~30代?
→たぶん20代。昴からはどう見えたかな?
・家族、住まいはわからない。
→この家は新鮮。僕の家とは違うかも?
本当はもう少し埋めたいけれど、何もわからないから仕方ない。ノートをぱらぱらとめくると、後ろの方には線が引かれていた。
日付と、「使ったもの・食べたもの」「金額(おおよそ)」の欄がある。ちょっとした家計簿のようだ。こういうところはきっちりしているらしい。
さっそく、今までもらったものを書き込んでおく。
<使ったもの・食べたもの>
7/9 浴衣 5,000円?
7/9 トースト、スクランブルエッグ、キャベツをゆでたもの ??円
浴衣の値段はなんとなくイメージがついたが、食べ物はわからない。前のページに戻り、メモを書き加える。
<名前など>
~
・服の値段はなんとなくわかる。食べ物の値段がわからない
他に、書けることはあるだろうか。机の前で頬杖をつき考える。しかし、無の状態からひねり出せるものは何もなく、次第に意識が遠のいていった。
・・・
「おーい、大丈夫?」
耳元で女性の声がして、飛び起きる。僕の勢いのよさにびっくりしたのか、声の主……昴は上半身だけ引いてから、僕と目を合わせた。
「疲れがでたかな。今帰ったよ」
「あ、おかえりなさい」
言葉を選べるほど意識が浮上しておらず、反射的にそういうと昴の目つきが和らいだ。
「家で、おかえりって言ってもらえるの、いいね」
サラリーマンが出迎えを受けた奥さんにかけるような言葉を告げられて、妙にむずがゆい気持ちになる。しかし、昴はそれを気に留めた様子もなく視線を机上のノートに移した。
「何か、わかった?」
すぐに本題を問われ、僕も頭を切り替える。
「一応、わかることは書いたつもり、だけど思い出せたことはほとんど無いかな」
ノートをめくった昴は、小さく頷きながら僕のメモを読み進める。
「うん。私も、あなたは20代だと思う。若そうだけど、なんとなく私より年下ってことはなさそう……家、か。アパートじゃないとしても、一軒家とかマンションとか、ドミトリーとかいろいろあるから断定できないね。……食べ物の値段がわからない?」
突然怪訝な声を出されて、僕は思わず首をすくめる。一人暮らしをしている学生からすれば、信じられない感覚なのかもしれない。
「あ、ごめん。責めてるわけじゃない。でも服の値段がわかって、食べ物がわからないって不思議だね。服は自分で買うけど食べ物は買わない。実家暮らしとか、農作物は自給自足していてスーパーにはいかないとか?」
ぽんぽんと出される推理を、僕は黙って聞いているしかない。どれも、ピンとくるものがないからだ。何も意見できないことを申し訳なく思っていると、昴は顔を上げてうん、と大きく頷く。
「家の中で話していてもわからないか。じゃあ、わかる要素、探しに行こう」
「えっ?」
「今日、木曜日だから、そうだな……土曜日、ショッピングセンターに行こう。服の値段はわかるなら、服屋さんに行けば何かわかるかもしれない。この辺で、服買うならあそこしかないから」
僕の居候が決まった時と同様、てきぱきと話を進める昴におもわず疑問が湧いた。
「なんで、そんなに手際がいいの……?」
「手際、いいもわるいもないよ。わかることをつなぎ合わせて、やるべきことを決めるだけ」
早口でそういった昴は、立ち上がって台所へ体の向きを変えた。
「記憶、取り戻すの手伝うよ。あなたを家に連れ込んだの私だし。手伝うことを決めたら、ちゃんとやる」
振り返った彼女にありがとうと言おうとして、失敗した。昴の目が大きく見開かれる。
僕は全身を締め付ける、強い痛みに襲われ、身体を前に折り曲げる。へその下に手を置いて深呼吸しようとした途端、身体が急に縮む感覚がした。
激痛はやってくるのと同様、引くのも突然だった。痛みを気にせず動けることを確認して手をどけようとして……固まった。
「猫になるの、一度きりじゃなかったんだ」
頭上から降ってくる昴の声に、心のなかで一緒に驚くしかない。
僕の手は、再びふさふさの、猫の手になっていた。
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