八時の魔法~記憶喪失の僕は、猫になってクール系タラシの女子大生に拾われる~

水涸 木犀

1章 猫と女子大生

1 出会い

 無言でスマホに手を伸ばす若い女性に、僕は心の中で深くうなずいた。


 自宅にいきなり見知らぬ男が現れたら、ふつう警察を呼ぼうと思うだろう。僕だってそうする。女性ならなおさらだ。しかし、通報されかねない僕のほうにも、のっぴきならない事情がある。

「あの、すみません」

 スマホを持ったまま、彼女は鋭い視線を向けてくる。指はスマホの上にかかり、今にも通話ボタンを押されてしまいそうだ。続ける声は否応なしに小さくなる。

「あの、僕、先ほど助けていただいて……」

 その言葉に、指の動きが止まる。

「私は、あなたのような人を助けた覚えは無いのだけど?」

 彼女はこちらに視線を向けながら、玄関のほうにゆっくり下がる。電話で通報するか、外に出て大声を出すか。どちらの選択も彼女にゆだねられている。それでも、まずは伝えなくてはならない。


「あの、猫です」

「え?」

 自分でも自信が持てないが、しっかり目の前の女性のほうを見て言った。嘘をつくつもりではないことを、わかってもらうために。

「信じられないと思うんですけど、僕はあの、昨日の夜、猫の姿であなたに助けていただいた者です。いま気づいたときには、人の姿になっていましたが」

「猫……」

 ひとりごとのように呟いた彼女は、僕の足元をじっと見つめる。

「確かに、昨日拾った猫は今あなたがいる辺りで休んでいたけど。本当に猫だっていうなら、私の家に来るまでのこと、説明できるの?」

「はい」

 それだけは自信があり、はっきりと頷いた。ただ、まずは一つ頼まなければならない。

「あの、その前に、バスタオルとかいただけませんか」

 僕は、なにも身に付けていない身体を丸めながらそうお願いした。


 ・・・


 目が覚めて真っ先に視界に入ってきたのは、コンクリートの地面と湿ったブロック塀だった。

 ――いや、目線が低すぎないか?――

 酔っぱらって寝ていたわけではないと思う。身体の節々に痛いところはないし、ちゃんと「起きている」感覚がある。地面にはいつくばっているつもりではない。その割に見えるものはせいぜい、地表から20~30cmくらいにあるものだ。ブロック塀の下から2番目の境目が、ちょうど目線の高さに合う。


 見える範囲が低いせいか、ここがどこなのかもよくわからない。

 ――とりあえず、もう少し高い場所にあるものを確認したい――

 いったん、塀を越えた先に見える水たまりに向かって歩く。そこに自分の姿を映して……愕然とした。人間の男ではなく、赤茶色のしましま模様の猫が、僕のことを見返していた。


 思わず後ずさり、周囲を見渡す。ぽつぽつと灯る街灯に照らされた道路には、ひとっこ一人いなかった。目線を真下に向けると、ふさふさした、明らかに人のものではない手が見えた。

 ――毛深いってレベルじゃない……いやそうじゃなくて、これ、どう見ても猫の手、だよな――


 僕は、絶対に人間だったはずだ。人間で……そこまで考えて、思考する言葉を失う。コンクリートの上で目覚めるより前の記憶が、まったく無い。ただ猫の姿を目の当たりにしてもなお、人間だという確信を持っているから、そこは間違いないと思う。というか視界に入るものの中に信じられるものが何もないので、とりあえず今の自分の考えだけは信じたい。

『ミャー(お腹すいたな)』

 発せられる声も明らかに、猫のものだった。鳴き声すらも、聞き覚えがない。一つだけ確かなのは、僕は今腹が減っているということだけだ。

 さっきから、少しいいにおいがしている。まずはその元を目指してみることにして、僕は歩き始めた。


 においの正体はすぐにわかった。数区画先にある広い家の軒先に、ふたの空いたツナ缶が置かれていた。食欲をそそる香りにふらつきながら、人としての僕の自我が呼び止める。

 ――誰が置いたかもわからない、ペット用のえさを食べるのか? お前は人間だろう? なら、こんなものには手を付けるべきじゃない――

 人としての自制心は空腹を押さえつけてくれるには不十分で、足はじりじりとツナ缶に向かっていく。

 ――だめだ、口をつけちゃ、僕は人間だ――

 思いっきり腰を引きながらも、ふさふさの手が缶の端に触れたその時、


 バサバサバサッ

 向かって右奥の低木が揺れる大きな音がして、どん、と僕の身体に何かがぶつかった。軽く小突かれたなんてものじゃない。ゴールポストから跳ね返ってきたサッカーボールが腰にヒットしたくらいの衝撃で、身もだえながら左に転がる。

 ぶつかってきたモノのほうに目線だけを向けると、“それ”はバサバサと翼を広げながら、くちばしでツナ缶の縁をくわえ引っ張っていた。僕が知っているよりもはるかに大きいが、鳩に違いない。

 そう思った瞬間、“それ”と目が合った。


 ――まずい――


 とっさに身体を引こうとするが、鳩の動きの方が早かった。ツナ缶をじぶんの手元においてから、まっすぐ僕のほうに向かって飛んでくる。逃げるのをあきらめ顔を隠すと、右手をくちばしでぐりぐり突かれている感触があった。痛い。

 本物の猫だったら、ここは身の安全のために反撃すべきかもしれない。しかし人間の僕にそのすべはなく、顔を上げる勇気もない。だって顔を上げたら、目をひっかかれたりするかもしれないだろう?


 石のように動かない僕に構う気が失せたのか、鳩の気配はいつの間にか無くなっていた。鳩がいたときに漂っていた鳥のにおいがしないのを確認してから、恐る恐る顔を上げた。

 身体を起こそうとして、小さく悲鳴をあげる。突かれていた右手の毛がむしられ、わずかに出血していた。鋭いくちばしで攻撃された割には浅い傷かもしれないが、痛いものは痛い。

 ――猫として生きていくには、無理がある――

 鳩との戦い、いや一方的な防衛に辟易した僕は、そう痛感した。せめて人気ひとけのあるところのほうに行こう。無人の民家にいるよりは、ほかの動物に襲われるリスクが低いはずだ。

 ツナ缶が転がっていた民家(明かりはついていなかったので、無人と判断した)から離れ、道路に向かう。先ほどからあまり車や人の動く気配がしないが、それでも舗装された道沿いにいた方がいい気がした。猫にとって居心地がよさそうな場所には、先客がいるだろうし。


 少し歩いただけでも、右手がひりひりと痛む。あまり長い距離を移動する気にもならず、道路に出て目に入った街灯の下で丸くなった。歩道と車道が分かれていない、狭い道だ。生き物が動いたらすぐに気づくはずだ。


 僕が彼女と出会ったのは、そんな場所で寝るべきか否か、思案しているときだった。


「ケンカでもしたの?」

 そう呟く小さな声に、勢いよく顔を上げる。目つきがやや鋭い、半袖のブラウスの女の子が目の前に立っていた。彼女の目線は、毛羽立った僕の右手に注がれている。

『みゃー(そうなんです)』

 伝わるわけはないと思いつつも、体を起こして答える。

 しばらく僕の手を見ていた彼女は、なにも言わずに歩き出す。今おいていかれたら、またいつ他の動物に襲われるかわからない。そんな思いに駆られて、慌ててあとをついていく。右手は痛いし、どうしても引きずるようになってしまうが、そんなことを気にしてはいられない。

 僕がついてきていることに気づいた彼女は、4~5歩進んだところで振り返った。

「家に来る? ケガの消毒くらいは、できるよ」

『みゃー(ついていきます)』

 僕としては、家に入れてくれなくても、人のそばで一晩安全に過ごせさえすればいいと思っていた。しかし傷の手当までしてくれるのはうれしい。返事をしてからは一度も後ろを振り向かず、歩調をゆるめることなく歩く彼女の背中に必死でついていった。


 道中のそっけなさは少々不安だったが、家に入れてくれた彼女は言葉通り、水と消毒液で傷口をきれいにしてくれた。そして床の一角に小ぶりなバスタオルをしき、指をさす。

「たぶん、うちのアパートはペット大丈夫だったと思うけど。あんまり夜出歩かれても迷惑だからさ。今晩は一旦、タオルの上にいてもらえると助かる」

『みゃあ(僕もそのほうがありがたいです)』

 敷かれたバスタオルの上にいそいそと乗った僕をみて、彼女は小さく笑う。

「猫って、あんまり人の言うこと聞かないイメージあったんだけど。きみは聞き分けがいいね」

 ――それは、人間だからな――

 反射的に言いそうになった思いは猫の言葉でも口に出せなくて、小さくうずくまる。

 今日は一日ここに泊めてもらって、明日のことは起きたら考える、つもりだった。


 ・・・


「それで、起きたら人間に戻っていた、ってこと?」

 彼女の言葉に、無言でうなずく。

「猫になる前の記憶はないけど、自分が人間だったという意識はある。猫になった理由も、記憶がない理由もわからないし、なんで今人間にもどったのかもわからない、と」

「はい」

 彼女の言う通りだ。猫として意識を取り戻してから、今に至るまでの出来事ははっきりと思い出せるが、猫になる前何をしていたのかがわからない。なんでバスタオルを腰に巻いた状態で、見知らぬ女の子に事情説明をするような状況になったのかも。


 玄関に立つ彼女は、僕の右腕を見て、深く息をつく。

「確かに、猫にしては聞き分けがいいと思った。連れて帰ってきた猫と同じ場所に傷があるし」

 彼女のいうとおり、僕の右腕には、鳩につけられたはずの傷が残っていた。消毒してもらったおかげかそこまでひどく腫れてはいないが、ひりひりと痛む。


「あなたが把握している状況は理解した。納得は、してないけど」

「はい」

 それはそうだろう。僕も全く納得していない。しかし、今の僕は“赤の他人の家に上がり込んだすっぽんぽん(但しバスタオル付き)の男”だ。覚えている限りの事情を伝えても、目の前の彼女に通報されたら逮捕されることは請け合いだ。

 

――彼女は、僕をどうするつもりなのか――


 直立不動の体勢で、彼女をじっと見つめる。彼女もじっと見つめ返してくる。おびえている雰囲気はない。相手を見定めるような、鋭い目線だ。

 何十分も経ったように思える時間のあとで、彼女は両手を上げた。僕の勘違いでなければ、“降参”のポーズに見えた。


「オッケー。とりあえず今日から3日間はうちにいていいよ。その間に何かあったら、警察に通報する。後で決まりを作るから、それは絶対に守ってもらう。守らなかったら、やっぱり通報する」

「え?」

「それともこのまま全裸バスタオルで外に出て、不審者として通報される?」

「それは、困ります」

「じゃあそういうことで」

 あっさりそう言ってのけた彼女は、ぱんと手をたたく。


 彼女と僕の、突拍子もない同居生活の始まりの合図だ。

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