第2話「理想と現実」

 バイトの日。

 俺の一日は隣の家に住むユキの部屋に行ってユキを起こすところから始まる。

 別にユキは誰かに起こされないと寝坊するような人物ではない。

 今日ほどではないが、毎回対局が不安になってなかなか布団から出られないのだ。

 そして俺はユキが起きあがるタイミングで部屋を出る。

 油断していると俺にお構いなしに着替え出すからだ。

 一度そのことを指摘したのだが、「別にいいじゃない」と言われてしまった。

 女性の方がいいと言っているのだから問題ないかもしれないが俺が気恥ずかしいのだ。

 そして俺がバイトをしないといけない本当の理由。

 別に俺がそこまで金に困っているという話ではない。

ユキは絶望的なくらいに方向音痴だ。

 一番通う回数の多い将棋会館にすら未だに一人では辿り着けない。もう何年も通っていると言うのに。まして始めて行くタイトル戦の会場などに辿り着けるわけもない。

 ユキを対局の場まで連れて行くのが俺の一番の役目だ。

 対局の場所にたどり着けさえすれば、タイトルホルダーだけあってユキは強い。

 圧倒的な防御力を誇り〈北の受け師〉の異名をとる実力者だ。


          *


 白峰雪子には幼馴染しか知らないある夢があった。

『棋士って強くなると異名がつくでしょう。私は名前からとって白雪姫って呼ばれたいな。茨城の……いや、常陸の白雪姫なんて格好良くない?」

 今から五年ほど前のユキの言葉だ。〈常陸の白雪姫〉と呼ばれる事がユキの夢になった。

 そして二年後にはタイトル初挑戦。三年後にはタイトルを獲得する。

 そして、トッププロになったが特に誰からも〈白雪姫〉と呼ばれることはなかった。

 良く考えてみれば異名は自分で考えるのではなく周りが勝手につけるものだ。

 ユキの将棋は華やかな戦いぶりじゃない。

 穴熊で王を囲って相手の攻めをひたすらに耐える。対局相手は攻めきれずに自滅するのが必勝パターンだ。

 そんな戦法からついた異名は〈北の受け師〉

 ユキは北海道生まれだ。物心着く前には茨城に引っ越してきた茨城育ちなのに北の人間にされてしまった。

 女流棋士界のもっと上の人には〈女流棋士界の皇帝〉とか〈盤上の妖精女王〉など凄い異名の人も存在する。こんな異名の人達がいれば〈白雪姫〉と呼ばれたいユキの気持ちはわからないでもない。

『なんで私だけこんなイカツイ感じの異名なの』

 ユキはそう嘆いていた。

 だが、トップ棋士の中には〈ビックマム〉とか〈赤鬼〉とか〈嘆きの前兆〉なんて呼ばれている人もいるからユキの異名が特別イカツイわけではない。

「あああああ。やっぱり勝てなかった」

 布団に突っ伏して泣きながら嘆いている。

 今日のユキの対戦相手。

 上林華。十五歳。

 彗星のごとく現れ、女流名人のタイトルを獲得。

 〈相模のアルテミス〉と称される美少女。

 うちの白雪姫はそのアルテミスに女流名人のタイトル挑戦者決定戦で敗れている。

「だいたいあの〈アルテミス(月の女神)〉って何よ。私は白雪姫と呼ばれないのに」

 実は俺はその答えを知っている。

 ようは見た目の問題なのだ。

 分厚いメガネ。ぎちぎちに束ねた髪。華やかな異名を得るには見た目が地味なのだ。

 身内びいきではないがアルテミスには及ばないけど、コンタクトにして髪をほどけば美人だ。実際に家の中で髪を束ねていない姿を見ると未だに見惚れてしまう時もある。

 でも教えてあげない。

 ユキにはもてて欲しくない。

 俺は自分の都合でユキにすべき助言をしていない。

 俺みたいにもてない男と違ってもてるようになるのに。

「大丈夫。ユキは可愛いよ」

 そう言ってベッドに腰掛けてヒステリック幼馴染を慰める。

 本当はユキにもっと可愛い格好をさせて美少女っぷりを世間に知らしめてその上で俺の彼女にしたいのだが俺にはそのスペックが残念ながらない。

 理想と現実の違いを感じながら、俺は幼馴染が泣きやむまで慰め続けた。

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