あらぬ噂/《monkey's paw》にて

4-1


 その翌朝にはさらにうんざりさせられた。篠崎カミラがふたたび待ちかまえていたのだ。


「あっ、あっ、あの、」


「なに?」


 僕は足早に立ち去った。昨夜はおびえまくり、ビールを普段より二缶多く飲んだ。それでも眠れなかったので料理用のワインにまで手をつけたのだ。そんなこんなで最悪な気分だった。いらつく女じゃなくてもけたいくらいだ。


「あっ、あの、」


「だからなんだよ」


「こ、こ、これで、よ、よ、よろしいでしょうか? そ、その、き、昨日、お、お、教えて、い、いただいた、とっ、通りに、し、し、してきました」


 顎の辺りをきながら僕は首を曲げた。彼女は眼鏡をかけておらず、髪も高いところでまとめてる。化粧もばっちりしてるようだ。ただ、ばっちりし過ぎてる。アイメイクがきついし、チークのつけどころがいまいちだ。だいいち服装に合ってない。


「化粧が濃いよ。顔だけ派手になってる」


「そ、そうでしたか。じ、じ、実は、は、母に、て、て、手伝って、も、もらったので」


 だからか。僕は肩をすくめた。年齢にも合ってないのだ。


「そういう雑誌あるでしょ。メイクの仕方が載ってるの。なんとか系メイクとか書いてあるヤツだよ。それ見て勉強したら?」


「わ、わ、私は、な、な、なに系なんでしょう?」


「知らないよ、そんなの」


 知るわけもない。というか、考えたくもない。もうぜんたる勢いで僕は歩いた。逃げ切りたい一心がそうさせたのだ。エレベーターホールには人が集まってる。――まいったな、こんな女とどうはん出社みたいに思われるのは嫌だ。そう考えてるところに「え?」と声がした。


「えぇ! 篠崎さん?」


 掻き分けるようにしてやって来た女の子は首をかなりぎょうかくにさせた。二人とも背が高いのでそうせざるを得ないのだ。


「びっくり! でも、かわいい!」


「そ、そ、そんなことは」


 うつむきかけたものの彼女は胸を張ってみせた。それから、比較的大きな声を出した。


「さ、さ、佐々木さんに、おっ、おっ、教えて、い、いただいたんです」


「えっ、そうなの。――へえ、ふうん」


 女の子は「ふむふむ」といった感じにうなずいてる。どちらかというとこっちの子の方がタイプだ。だから変な誤解はしないで欲しい。僕は可能な限りの無表情で押し通した。しかし、これからどうなるかはわかりきっていた。





 そして、その通りになった。小林からラインが来たのだ。


『大事件が起こったようだな。詳しく聴かせろよ。いつもの店で待ってるぜ』


『これといって事件なんて起きてない。それにいつもの店ってどこのことだよ』


『monkey's pawだ。いつもの店って言えばそこに決まってる。それに隠し事はするな。俺はすべてお見通しなんだ』


 それはスルーしておいた。しかし、二分もしないうちについしんがあった。


『忘れてた。八時な。八時にいつもの店で会おう』


 《monkey's paw》というのはシガーバーで、地下にある非常に落ち着いた感じの店だ。僕たちは二回だけ入ったことがある。


 一度目は迷い込んだようにして入り、かなり場違いなことをした。二度目は長くつきあってた彼女に振られた小林をなぐさめようと僕が連れていった。二人でふっかりしたソファに並び、コイーバをくゆらせながらなんだかよくわからない酒を飲んだものだ。そのとき小林はこう言ってきた。


「な、これから『いつもの店』って言ったら、ここにしようぜ。なんか格好良くねえか? 女の子と一緒のときにさ、『じゃ、いつもの店にでも行くか』って言うんだ。それで、ここに来る。女の子はどう思う? 『きゃっ、こんな素敵なとこにいつも来てるなんて格好いいわ』って思うだろ? こりゃ、モテるぞ」


「お前な、昨日振られたばかりなんだろ? よくそんなふうに考えられるな」


 僕は青白いけむりをながめていた。正面を向いていたので小林の表情はわからない。


「こういうときだから言ってるんだ。俺は後ろは見ない。――うん、いいな。『俺は後ろは見ない』定年退職したら、そういうタイトルの小説を書こう。そしたら読んでくれるか?」


「もちろんだ。読んでやってもいい」


「そうか。ありがとう、助かるよ」


 ――という心温まるエピソードを僕はすっかり忘れていた。まあ、忘れてもおかしくないくらいそれ以降の小林はいろんな女の子と遊びまわるようになったのだ。



 その日は僕が先に着いた。店は空いていて、のりのきいたシャツにちょうタイ姿のバーテンダーが無表情にじゃっかんの笑みをつけ足したような顔をして立っていた。背後には縦に四段あるたなしつらえてある。僕はきゃしゃなグラスに注がれたビールを飲みながら輝くボトルを眺めていた。


「待たせたな。帰り際につかまっちまったんだ。あのハゲ、なに言ってんかわからねえんだよ。まったくようりょうを得ない」


 バーテンダーが音もなく近づいてきた。《monkey's paw》では誰も大声を出さない。そういうルールになってるのだ。


「とりあえず連れと一緒で。ああ、あとサーモンとタマネギの料理みたいのあったでしょ?」


「〈スモークサーモンのケッパー風味〉でしょうか?」


「ああ、それ。それもお願いします」


 頼んだものがくると小林はナプキンで顔をおおった。それから、背中を三度ほど張ってきた。


「なんだよ」


「しらばっくれるなよ。俺はすべてお見通しなんだぜ。えらい変わり様だったそうだな。――ええと、あった、これだ。『まるで別人だった』だとよ。ほれ、書いてあっだろ? それからな、――ん、あれは梨花ちゃんだったから、――あった、これだ」


 ふたたび見せてきた画面にはこう書いてあった。『佐々木さんとお似合いだった(笑)』


「こういうのもあったな。ちょっと待ってろ」


 いや、待つ理由もないんだけど。そう思いつつ僕はボトルを適当に指した。


「あちら? あれをショットで? かしこまりました」


「すごい反響だろ? 注目の的だ。感想は? それをみんなに送ってやるぜ」


「スタンプの意味がわからない。なんでウサギなんだ? それになんの意味がある? 文面とちぐはぐすぎるだろ。それに、(笑)ってのも気にいらない。笑える要素なんてないし、あったとしても笑うタイミングくらい自分で決められる」


「そうむくれるなよ。まだあるんだぜ。見るか?」


「見なくていい。いや、見たくもない」


 僕はスマホを払った。そのとき新しい酒がきた。


「〈ラフロイグ カスクストレングス〉です。香りがすこしきつめですよ」


 確かにいだことのない香りだ。味も表現するのが難しかった。単純に美味しいとは言えない。


「面白いでしょう。香りも面白い。飲みれないと不思議な感覚を抱かせる味です。しかし、飲みつけるとやめられなくなる。――それは若干特殊な環境で造られたものなんです。わかりますか?」


 チェイサーで舌先を湿らせ、僕はもう一度口にふくんだ。


「理解しようと思わず感じてください。酒なんてそんなものですから。ヒントをひとつ。塩です」


 舌に触れる感覚と鼻を抜ける香りは確かに塩っ気を感じさせた。ゆうどうされたからかもしれないけど、これは塩の香りに違いない。それも海の。僕はうなずいてみせた。バーテンダーもうなずき、その場を去った。


「なんなんだよ、今のは。どれ、飲ませてくれ。俺も感じてみたい」


 口をつけた瞬間に小林は舌を突き出してきた。コイツにはみょうな物事を感じることなんてできないのだ。

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