2-3
部屋はまだ荒れたままだった。僕には片づけをする気力も残ってなかったのだ。持ち出された物たち――
あるいは心的な外傷のせいで動けなかったのかもしれない。僕は仕事に打ちこんでいた。それこそ
その日も一人だった。時計を見ると、そろそろ十一時になる。僕は溜息をついた。嫌だと思っても帰らないわけにはいかないのだ。
ま、いずれは立ち直ることになるだろう。あんな女のことは忘れ去り、部屋も元通りにし、それまでのペースを取り戻すのだ。そんなふうに考えながらエレベーターを待っていた。ドアがひらくと、この前の子が操作パネルの前で身を縮めるようにしてる。
「あっ、あの、」
「はい?」
僕は操作パネルを
「おっ、おっ、お疲れさまです」
「お疲れさまです」
そう言って、僕は奥へ向かった。無音に近い状態でエレベーターは動いた。⑩へ行き、⑨に進み、⑧へと降りる。そのあいだ誰も乗りこんでこない。⑥の表示が変わったとき、彼女はふたたび声をあげた。
「あっ、あっ、あの、」
「はい?」
「いっ、いえ、す、す、すみません。な、なんでもないです」
④の表示がつき、③になった。僕は
「あっ、あの、」
ドアがひらき、僕たちは向かいあった。小林の言った「熱い視線」が頭をよぎる。――いや、この子は左肩を見てたんだっけ。
「なにかご用でも?」
「あっ、あっ、あの、さ、さ、佐々木さんで、よっ、よっ、よろしいんですよね?」
「ええ、佐々木ですけど?」
「あっ、あの、わ、わ、私、あ、あ、あなたに、お、お伝え、し、し、しなければ、な、な、ならないことが、ごっ、ごっ、ございまして、」
「なんです?」
「いっ、いっ、いえ、あ、あまり、こ、ここでは、」
彼女は周囲を
「あの、失礼かもしれませんが、お名前は?」
「あっ、い、いえ、すっ、すみません。な、な、名乗りも、し、しないで、こ、こんなこと、い、い、言うなんて。そ、その、わ、私、すっ、すっ、すこしだけ、きっ、きっ、緊張して、い、いたものでして、」
勢いよく顔をあげ、彼女はまじまじと見つめてきた。眼鏡の度がきついようで目はそのものより大きく見える。しかし、もともと大きそうだった。鼻は高く、薄く、筋が通ってる。
「で、お名前は?」
「あっ、すっ、すっ、すみません。な、な、名前でしたね。わ、私は、しっ、しっ、篠崎、篠崎カミラと、も、申します」
どうして自分の名前でどもる? そう思っていたもののフルネームを聞いて「は?」と思った。篠崎カミラ?
「ハーフ?」
「い、い、いえ、ク、クォーターです。そ、そ、祖母が、ア、ア、アゼルバイジャン人でして」
アゼルバイジャン人? ――いや、疑問を持つのはやめよう。いちいちそんなのに引っかかってたら夜が明けてしまう。
「それで、その篠崎さんが僕に伝えたいことって?」
「はっ、はい。ひっ、ひっ、非常に、じゅ、じゅ、重要な、こ、ことなんです。あ、あなたにとって、す、す、すごく重要なこと。で、で、でも、こ、こ、ここで話すのは、は、
「重要なこと?」
「そ、そう、じゅ、じゅ、重要なことです。きっ、きっ、聴いておいた方が、い、い、いいこと。あっ、あっ、あなたの、こ、今後に、か、か、関わる、こ、ことなんです」
僕は目を細めた。瞳に光が入ったように思えたのだ。その瞳で彼女は左肩すこし上方を見つめてる。ただ、僕は疲れ果てていた。遅くまで残業してたのもあるし、このやりとりでも疲れた。
「悪いけど、今日は疲れてるんだ。またにしてくれないかな。機会があったら」
「そ、そうですか。で、で、でも、き、き、聴いておいた方が、い、い、いいですよ。わ、私は、しっ、しっ、知ってるんです。あ、あなたに、お、起こったことも、こ、こ、これから、お、お、起きることも」
疑問に思うことはあったものの、僕は謎のアゼルバイジャン系クォーター篠崎カミラを残したまま会社を出た。足早に駅へと向かいながら宗教の
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