六章二話

 同じ頃、イーケンは白苑の屋敷で軍服に着替えてから海軍本部に向かった。道すがら軽い朝食を摂り、暗い気持ちで海軍本部の軍港に停泊している軍艦を眺めてため息をつく。目の前の軍艦の最も背の高いマストの頂点には天竜旗が翻っている。その軍艦は昨年出来上がったばかりの最新型のものであり、第三艦隊の主力艦だ。この船に海兵隊のイーケンが乗船することはない。

(今思えば、俺を海兵隊に推薦してくれたのもルオレ閣下だったのだろうな……)

 第三艦隊に配属されて一年が経った頃、突如海兵隊への異動を命じられた。海兵隊とは陸戦も行う海軍の部隊のことである。フラッゼ神王国海軍では各艦隊が海兵隊を擁しているが、数年後には海兵隊は独立する予定だ。そんな部隊に希望を出した覚えも突然異動を命じられるようなことをした覚えも無いため、当時の上官に理由を聞いた。すると

「士官学校で剣聖と呼ばれていた者には陸戦を担当させたいという上の意思だ。細かいことは知らん」

 と言われたのだ。士官学校で優秀な成績を残したイーケンだったが、彼の剣の腕前に比肩する者だけはとうとう現れなかった。少尉として海軍に入ってからの訓練でもついに負け知らずだ。しかし海での戦いに火薬が多用されるようになってから剣の腕が重視される傾向が見られなくなってきている。せっかくの才を使わないのはもったいなかろうという話らしい。当時は何一つ疑問を抱くことなく受け入れたが、士官学校時代のことまで知っている上層部の者は限られる。

 もうユーギャスの身の潔白は証明出来ないのかという思いと、悪足掻きはしないでほしいという相反した気持ちがない混ぜになっている。色で例えれば絵筆で絵の具を何色も混ぜ合わせたような状態だ。普段ならば清々しいほど青い空を何も考えずに見上げられていたが、今日はため息とともに見上げている。

「全く、勘弁してくれ……」

 空の青さに耐えられなくなり、視線を海面に向ける。そして小さく呟いたとき、背後から声をかけられた。

「トランシアル、そこで何をしているんだ?」

 振り向いたところには第三艦隊海兵隊の最高責任者であるコーゲル少将がいる。もう初老に差し掛かろうかという年頃だが、彼の手腕は未だに衰えを見せない。海兵隊に配属されてから世話になっている上官の一人だ。

「閣下……!」

 姿勢を正したイーケンにコーゲルは楽にするようにと仕草で伝える。

「横領の疑いが晴れたそうだね」

「は、おかげさまで無事に釈放されました!」

「最近別の任務についていたと聞いたが、そちらは済んだのか?」

「あともう一歩のところまで来ております!」

 その答えを聞いてコーゲルは深く頷いた。

「それは何よりだ。ついでだからお前の部下達に顔くらい見せてやれ。サガンとパンロットがラヴェルの扱いに手を焼いておる」

「またあいつですか……! 書き置きくらい残すべきだった……」

 コーゲルからの知らせに眉間にシワを寄せる。今年の春に士官学校を出たばかりのラヴェル少尉は常にイーケンの頭痛の種であった。一族の男達はことごとく海軍将校という家の出のせいか、本人の性格のせいか、とにもかくにも鼻持ちならない青年だ。サガンという歴戦の曹長が教育を担当しているが、彼にも手がつけられないと言われる始末である。どうにもならないときはイーケンと、彼の直属の部下であるパンロットという中尉がラヴェルを抑えている。イーケンは第三艦隊海兵隊が管理業務などを行う執務棟へ目を向ける。きっと今日もラヴェルの扱いでサガンとパンロットが頭を痛めているのだろう。後でそちらに顔を出そうとイーケンは心に決めたのであった。

 コーゲルが本部の建物に消えていってから少しすると、本部の正門付近にアルンが現れた。警備兵の検査を受けてから中に入って来た。相変わらず頭巾を深々と被っている。アルンは同じ色の外套を羽織った若い天竜乗り達を従えていたが、彼らは頭巾を被っていない。天竜乗りは皆アルンのような服装なのかと思っていた彼にしてみれば驚きである。

「大尉、遅くなって申し訳ありません」

「大して待ってない。それで? 必要なものは全て揃ったのか?」

「はい。万事滞りなく。こちらの二人も天竜乗りです。大尉から見て右がトーラ、左がオーカと言います」

 トーラと呼ばれた方は隻眼の女だ。オーカは見ただけでは性別が分からないような中性的な容姿をしている。だが両者に共通しているのは動きが肉食獣のようにしなやかで皮膚の下にはかなりの量の筋肉がついているであろうこと、茶髪と茶色い目を持っていることだ。

「二人には捕縛をお願いしてあります。万が一の場合もトーラとオーカが対処してくれることになっています。行きましょう」

 足早に歩き出したアルンに、イーケンはふと浮かんだ疑問を投げかける。

「万が一の場合とは何だ?」

「逃走しようとした場合のことです。どこからどうやって逃げようとも捕縛と追跡の達人の二人ならば間違いなく捕らえられますから」

 その返答に思わずイーケンは口を閉じた。目の前に現れた白い外壁の建物に向かって黙って足を運ぶ。

 海軍本部の建物の外壁はほとんどが灰色だ。しかし元帥や各艦隊長の執務室のある「本棟」と呼ばれる建物だけは白い外壁を持っている。国内にある海軍の西方司令部と東方司令部、陸軍本部とその司令部、要塞、憲兵本部も同様だ。フラッゼ神王国において、白は王家を示す神聖かつ高貴な色。よって王によって天竜旗を賜った軍や憲兵、重要な要塞でのみ白を外壁の色として使うことが許されている。

 本棟の正面入口を開くと大理石の床が一行を迎えた。入口から真っ直ぐ進んだところには大きな階段があり、イーケンは迷わずそちらへ歩く。

「元帥閣下やルオレ閣下にはもう事前に連絡はしてあるのか?」

「元帥には上官がしているはずです。艦隊長については連絡はしていませんが今日の予定は全て把握しています。何かが起こらない限り、彼は午前中はずっとこの建物の執務室にいると聞いています」

 どこからそんな情報をと思ったがイーケンは何も問わない。今の彼には余計な情報を受け付ける余裕が無かった。階段を登っているうちに怒りと困惑、悲しみが溢れてくる。顔に出ないのが唯一の救いであった。

 元帥の執務室の前に来ると警備兵がアルンの所属を問いただす。それに応じて身体検査を受けてから、アルンはためらいなく執務室の扉を叩いた。すぐに扉が開き中に入るようにと声が聞こえる。入室したのはイーケンとアルンの二人のみで、トーラとオーカは外で待つらしい。入室してすぐに部屋の主の声が響いた。

「ほう、この間の若い天竜乗りか」

 部屋の一番奥、大きな窓を背にして執務机の前の椅子に老齢の男が座っている。彼の名はクレアス・トゥレ。フラッゼ神王国海軍の中でも戦争の際に主戦力を担う本部の長であり、全ての海軍兵の頂点に立つ人物である。髪に白いものが混ざり顔には深い皺が刻まれているが、身体付きには衰えが見られない。

 アルンは机の前まで歩み出るとうやうやしく腰を折った。

「天竜乗りが一人、アルンと申します。本日はお忙しいところお時間をいただきありがとうございます」

「王家の紋章の入った革の筒と天竜乗り部隊の隊長が早朝に自宅にやって来れば、普通の人間は頼みに応じるものだ」

 クレアスの目線がイーケンに向けられる。思わず居住まいを正したイーケンは、染みついた癖で声を発した。身体も勝手に動いて敬礼する。

「自分は本部第三艦隊海兵隊大尉、イーケン・トランシアルであります!」

「言われずとも軍法会議で裁いた相手の顔程度は覚えとるわ。それから声が大きい。ここは甲板ではないぞ」

「は、失礼致しました」

「とりあえず座りたまえ。わざわざ天竜乗りが来るということは相当な話であろう」

 クレアスが応接用の長椅子の方を示し、自分が上座に腰を下ろす。イーケンとアルンは一言断ってから座った。

「で、一体何の用かね? 私は暇ではないぞ」

「単刀直入に申し上げます。海軍本部の将校に内通者がいるようです」

 アルンの一言にクレアスどころか彼の背後に控えていた秘書官も硬直する。

「我々の調査の結果、十年ほど前に総本営を移転させるために用意されていた建物がとある者達によって使用されていたことが判明致しました。さらに……」

「待ちたまえ」

 クレアスはそう言ってアルンに話すのを止めるように指示した。秘書官に部屋から退出するように言い、扉が閉まるのを確認してから天井を仰いだ。

「それは事実なのか?」

「誠に残念ながら事実であります、閣下」

 イーケンの返答を受け、クレアスは再び二人に顔を向ける。

「それで? その裏切り者の名前は?」

「第三艦隊艦隊長ユーギャス・ルオレです」

 アルンの淡々とした宣告にクレアスが何か問いかける前に、イーケンが口を開く。

「内通者の条件は十年ほど前に将官であったこと、また本部所属であったことが挙げられます。加えて相手方は自分の身元を判明させていましたから、自分の名前と所属、顔を知っていることの三つとなります」

「以上の条件で絞って海軍本部の将官の一覧表や機密書類全般を調べましたところ、この結果となりました」

 アルンの最後のひと押しにクレアスは力なく声を発した。

「そこでルオレが候補に上がったという訳か」

 うつむいたクレアスは一回り小さくなったようにも見える。声も細く、つい先程まで持っていた威厳はどこかに消えてしまっていた。アルンは手元にあった一覧表や書類の写しを机の上に広げる。

「これを見ていただければ分かっていただけると思います。最早候補の段階ではありません。ルオレ以外には考えられないというのが我々の結論です」

「それで、奴を拘束しに来たというわけだな?」

「……閣下、ここにありますのは陛下直筆の罷免状です」

 持っていた革筒を開けると、アルンは中に入っていた一枚の紙を取り出す。そこには名前の欄に空白があり

「以上の者を罷免する」

 とだけ書かれている。王家の紋章の判が押され、女王の名前が入っていることを除けば至って普通の書類だ。

「この空欄部分に閣下にルオレの名前をお書きいただいて、書類上はすでに罷免という形にします」

「ルオレは第三艦隊の艦隊長だ。戦時には艦隊の指揮を執る人間ですぐに代わりの者を据えられない。せめて後任を決めてからでもいいだろう」

 目をむいたクレアスの反論にアルンは机を強く叩く。その様子を見たイーケンはあまりの無礼さに気絶しかけていた。

「ルオレはまさに獅子身中の虫! 放置すれば機密情報を内通相手に流される程度では済みません。最早猶予はありません。この国自体が転覆させられる可能性もあるのです」

「転覆だと……?」

 クレアスの眉が寄って眉間に峡谷が出来上がる。アルンはそれを見逃さずさらに情報を追加していく。

「ルオレの内通している相手は麻薬を精製しています。それがこの国に大量に流通すれば麻薬によって身を滅ぼす者が増えるでしょう。国を作るのは人です。そんなことになれば様々な部分に影響が出ることは間違いありません。国力も弱まるでしょう」

「麻薬というと痛み止めの原料か。軍では十倍に薄めたものを使っているが……」

「トランシアル大尉が横領の嫌疑をかけられた原因のものです。海軍の物資から作られた麻薬が国を転覆させることがあれば、海軍の威信は地に落ちるでしょう。それとも元帥閣下ともあろうお方が大陸最強を誇った海軍が国を滅ぼして良いとでもお考えですか?」

 さらに畳み掛けて目を細めたアルンに向かってクレアスは低い声で応じた。

「そんなことは言っとらん……!」

「ならば今すぐこの場で一筆いただけますね?」

 間髪を入れずに発された言葉を聞き、イーケンは思わずアルンの襟首を掴む。

「貴様! 閣下に何ということを!」

「私は天竜乗りです。相手が海軍元帥だろうが手段が無礼であろうが知ったことではありません。どのような経緯を辿れども目的が果たせれば十分です」

 アルンの目にも声にも揺るぎない光があった。両手を震わせるイーケンの目の前でクレアスが椅子から立ち上がる。アルンの手にあった紙に文字を書き、アルンに手渡した。アルンは紙を確認して再び革筒に収める。立ち上がって深々と一礼した。

「ご協力ありがとうございます。これより先はお任せください」

「私も同席させてもらう。愚かにも己の責を忘れ、陛下を裏切った部下の末路をこの目で見ねばなるまい」

 そう言ったクレアスには海軍元帥としての威厳が戻っていた。目に浮かぶ光には凄みがある。それを見たアルンは貼り付けたような笑みを浮かべた。

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