五章 前哨戦
五章一話
イーケンが眠りに落ちて数時間後、アルンは静かに目を覚ました。床から身体を起こすことはせず腕や足の曲げ伸ばしを繰り返す。普通ならば精神が弱りそうな状況下だが、彼女は至って平常心であった。天竜乗りの任務は他国への潜入を含む諜報、王族に害なさんとする者の暗殺、国家の転覆を企む組織の解体など多岐にわたる。それ以外にも様々な任務をこなすがそのほとんどは過酷なものであり、常人離れした体力、精神力、幅広い知識と技能を求められる。当然訓練も非常に過酷で、毎年数人は子どもが命を落とす。
天竜乗りであった父親の血を引くアルンも訓練を乗り越えて一人前と認められた。身につけた技能は数え上げればきりがない。その中でアルンが最も得意とするのは、狭所や暗所における多対一の戦闘だ。
(私は全く問題ないけど、あの二人は長くこの状況に置かれれば確実に疲弊する。逃げるなら早いうちにしないと。見張りは単独で交代の間隔は決まってる。やるなら全員が寝たと思って気が緩んでいる今が好機……!)
イーケンと立てた脱走作戦は至って単純である。第一段階としてまずはアルンが暴れる。暴れれば間違いなく見張りがつく。次に第二段階に移行。その見張りを殺して武器を入手し脱走する。この作戦の決行はアルンに任されている。朝方に派手に暴れてからアルンはずっと横になっていた。その理由は体力の温存と見張りの観察だ。
アルンは胸と腹を抱えるような体勢になってから突然うめき出した。それに気がついた監視役が檻に近寄る。
「何だ、どうした」
「うっ……!」
「おい、答えろ!」
「う、あ、ああ……?!」
あえて答えずにうめき続ける。すると監視役は落ち着かない様子になって檻の前をうろつき始めた。しばらくそれを続けていると檻の鍵が開く音がする。近づいてきた監視役の顎にアルンは強烈な蹴りを食らわせた。床に倒れた監視役に素早く馬乗りになる。そして口に声が漏れぬよう、昨夜服の裾を裂いて用意した布を詰め込み、監視役の持っていた槍を胸に突き立てた。二度、三度と繰り返し、監視役の手が震えてから力なく垂れる。アルンは監視役の太刀と脇差を抜き取り。自分の檻から出た。その直後にイーケン達の鉄格子の鍵も壊す。
「武器が手に入ったら戻って来ますので、それまでここで待機してください」
物音で目を覚ましていたイーケンと朱真はうなずき、アルンは上の階を目指して石段を上がって行く。石段の最後の段まで来たところでアルンは足を止めた。複数人の足音と話し声が聞こえたからだ。いずれも汰羽羅語だったが、ギッシュとコージュラの言葉も聞こえる。少し考えてから近くに落ちていた木箱から釘を取り出し、数本を手の中に握り込んだ。残りを床に投げる。
「何の音だ?」
数名が近寄ってくるのを気取りながら脇差をそっと抜いた。
「あ? 釘か」
そう言った男の首筋に、物陰から脇差を突き立てる。ゆっくりと倒れる身体を残りの相手に向かって投げつける。走り出そうとする別の二人には顔に向って釘を投げて足止めし、大きく跳躍して距離を詰めると首筋に脇差を刺す。すぐに引き抜いて残りの二人の首を掴む。二人分の頭を同時に壁に頭を叩きつけ、気絶させ、床に転がしてから首の骨に体重をかけてへし折った。
「制圧完了」
わずかな間に量産された死体を睥睨し、アルンはそう呟く。黄昏の瞳には冷酷な光が宿っていた。死体の腰から武器を奪い取ると踵を返してイーケンと朱真のところまで戻る。戦利品を見せつけるように突き出し、平坦な声音で告げた。
「武器です。好きなのを使ってください」
イーケンは迷わず太刀を手に取り、朱真は大ぶりの曲刀を持つ。二人は立ち上がって動き出した。歩きながらイーケンは朱真を気遣うように問いかける。
「朱真殿、傷は?」
「大したことねえ。戦力にはなれる」
「なら安心です」
三人で階段を駆け上がり、先程倒した五人の死体を階段に移動させる。
「どこから行きます?」
アルンの問いにイーケンは少し考えてから口を開いた。
「ここに何人いるかがが分からないから、制圧は諦めてとにかく脱出を最優先にしたい。と言いたいところだが、相手の情報も欲しい。二手に分かれよう」
「そういうことなら俺が白苑殿下の屋敷に戻ろう。今の状況を伝えて応援を出してもらう」
「ならば俺と天竜乗りはここに残ります」
「とりあえず目指すのは門ですね。まずはこの建物から出ましょう」
あっさりと話をまとめて朱真が手近な扉を開く。すると、すぐそこに若い男がいた。目が合って呆然としている隙をついた朱真が相手の腕を掴んで引き寄せ、すかさず扉を閉める。首元を掴んで壁に押し付けるとイーケンが一歩近寄った。
「静かにしろ。無駄口を叩けば腹から血が吹き出るぞ」
イーケンは鞘から抜いた太刀を腹部に突きつけ、そのまま尋問を始めた。
「この屋敷には今どのくらい人がいる?河野とか言う男はどこだ?」
「だ、大体五十人!」
「声が大きい。死にたくなかったら小さくしろ」
ぐっと切先を押し付けられ、相手は震える小声で応じる。
「河野様は、えっと、確か母屋にいらっしゃる」
「その母屋はどこにある?」
「この建物を出てすぐに見える白い屋根の建物」
「門はいくつだ? 門番の数は?」
「正門と裏門がある。門番は裏門にはいない。正門には五人くらいいたと思う」
「門番の武装は?」
「軽装だ。具足も身につけてない。弓矢も無い」
「建物はいくつある?」
「ここと母屋と母屋の奥にもう一つ」
「馬はいるか?」
「もう一つの建物が馬屋だ。だからそこに二頭」
「それだけでも分かれば十分だ。ご苦労。天竜乗り、何か布を寄越せ。朱真殿はそのままでお願いします」
指示されたアルンは自分の服の裾を破った。受け取った布をイーケンは男の口に詰める。詰められる側はくぐもった声で何か言っているが、イーケンは意に介さない。いささか詰め過ぎなのでは、と残る二人が思った次の瞬間、イーケンの太刀が腹を貫いた。引き抜くと赤黒いどろりとした血液がこぼれる。
「朱真殿、首を切っておきたいので手を離していただけますか?」
「切るならこっちにしとけ。太刀には血抜きの溝がねえから切れ味が悪くなるぞ」
曲刀を受け取ったイーケンは相手の身体を床に倒し、喉笛を一切のためらいなく掻き切った。無言で死体を処理したイーケンは曲刀を朱真に返す。
「これでこちらの動きは漏れませんね。まずは馬屋に向かって馬を入手しましょう」
アルンの冷静は言葉に男二人はうなずいてまた同じ扉を開いた。外はすっかり日が落ちている。濃紺の夜空には白銀の星が散りばめられ、淡い色合いの月が浮かんでいた。つまり今は人も動物も寝静まる夜中だ。
「この暗さじゃあんまり物が見えねえが、二人はどれが母屋か分かるのか?」
朱真の問いにフラッゼ育ちの二人は頷く。理由は単純だ。フラッゼでは屋敷の建築様式は大まかに決まっているからである。
まずは正門があり、その正門の真正面には前庭を挟んで母屋がある。母屋は大抵の場合は二階建てだ。正門から見て母屋の右側に離れや別棟が位置する。左側には馬屋や蔵の類がある。地方や広さによって多少の変化はあれども基本的な構造自体は変化しない。どれか一つの位置が分かれば他のものも把握できる。
「ここは天竜乗りにお任せを。私について来てください」
そう言ったアルンは迷いなく歩き出した。まるで昼間のように見えているのか、踏み出す足に迷いが無い。
「天竜乗り、もしかして見えているのか?」
イーケンの問いにアルンは何ともなさげに返す。
「暗所や狭所での戦闘に対応できるように訓練されたおかげで夜目が利くんです。今日は細いとは言え月も出ています。それなりに見やすい」
アルンは自分達が出てきた建物を見上げ、それが離れだと目星をつけた。
(馬屋は真反対。母屋の前を抜けるしかないのか……)
警備が最も厳重であろう母屋の前を抜けるのは危険だが、今はそれしか方法がない。壁に張り付くようにして歩きながらアルンは首を傾げる。
(異様に静か。まさか見張りもつけずに寝ている?)
眉をひそめつつも足音をさせずに馬屋へと歩く。離れと馬屋は一直線上に造られていることが多い。母屋を横切れば迷うことなく着くはずだ。
それから数分後、何事もなく馬屋に着いてしまった。そのことに胸騒ぎを感じるアルンの目の前で、朱真はアルンとイーケンに大きな音をさせぬように言う。
「馬は物音に敏感な繊細な生き物だ。驚かせたくねえから静かにしてろよ」
馬房の一つを開くと、朱真はそこにいた青鹿毛の馬を起こす。優しく声をかける様は我が子を慈しむ慈母のようであった。初めは床に腹ばいになっていた馬はゆっくりと身体を起こす。暗い中でも分かるほど見事な馬格の馬に、朱真は思わず唇を綻ばせた。良い馬を得て喜ぶ武人は多いが、特に牙月の武人達は心から喜ぶ。
また牙月は遊牧民族が興した国であるがゆえに金銀財宝よりも馬の方が重んじられる。定住せずに移動し続ける彼らにとっては、金銀財宝はかさばるだけの荷物だったからだ。多くの牙月人が定住するようになって久しいが、流れる遊牧民族の血と価値観は変わらない。
「夜中にひとっ走りしてもらうが、その後はたんまり飯食わせてやるからな。頼むぜ」
朱真はそう声をかけ、まずは自分の手を馬の鼻先に持って行ってからその逞しい首を軽く叩いた。それを見ながらアルンは鞍を見つけてきて朱真に手渡し、受け取った朱真は手早く鞍を乗せる。その後、ゆっくりと馬を歩かせる朱真にイーケンが問いかけた。
「裏門から行きますか?」
「ああ。だがその物音で屋敷中の人間が目を覚ますかもしれねえ。なるべく早く応援を呼んで来るが、上手いこと持ちこたえてくれや」
馬は信じられないほど従順だ。いななくこともせずに黙って歩いている。木製の裏門の前に着くとアルンが閂を外した。イーケンがゆっくりと門を開くと蝶番が錆びているのか、ギイと重い音が響く。朱真はひらりと馬に飛び乗った。同時に建物の影から松明の火がちらついていることにアルンは気がつく。アルンの手によってすらりと抜かれた白刃を見て、イーケンも太刀の柄に手をかけた。
「朱真殿、お早く!」
アルンが言った途端に朱真は夜闇の中に駆け出す。同時に飛来した矢をイーケンの振った太刀が真っ二つにした。
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