四章三話

 あれは恐ろしく暑い夏のこと。当時士官学校の一年生だったイーケンは良くも悪くも目立つ生徒だった。剣術などの実技はもちろん、座学の試験でも常に上位者として名前が貼り出された。しかしこれをよく思わない者も一定数存在する。

 特にその傾向が見られたのは、海軍の高級将校の子息達であった。曽祖父、祖父、父親と将校の家系に生まれた彼らには幼い頃から英才教育が施されている。全ては将校となるためだ。海軍で出世していくための一つの手段は、士官学校を優秀な成績で卒業すること。そのためには常に上位者として君臨する必要がある。ゆえにイーケンは彼らにとっての邪魔者だった。

 その日は授業の後に校舎裏に呼びつけられ、六人に囲まれた。普段ならば三人ほどのはずなのにやたら数が多い。それに眉をしかめつつ、育ちの良いお坊ちゃん達とは思えないような言葉遣いや仕草にイーケンは呆れてため息をつく。それを見た一人が高圧的に問いかけた。

「何か文句でも?」

「俺に絡むこの時間で勉強や訓練をすればいいのにと思って。そうすれば成績だって上がるんじゃないのか?」

 この一言が引き金になったのか、突然脇腹を殴られた。対処する前に二発、三発と殴られる。彼らは賢いから顔は狙わない。服で隠れる腹や背中を狙うのだ。自分を囲んだ六人を引き剥がして逃げようとしても上手くいかなかった。数が倍になると逃げ出すのはさすがに難しい。どうにか校舎裏の狭い通路から抜け出した瞬間、目の前に黒が広がった。

「何だ、どうした?」

 頭上から声が降って来てイーケンは自分がぶつかったのが人間だと気がつく。顔を上げれば、そこには見事な黒髪の偉丈夫がいた。その厚い胸に輝く階級章を見てイーケンは驚いて硬直する。

(この階級章は少将?!)

 偉丈夫の後ろには部下達が揃って並んでいる。いずれも海軍の軍服に身を包んで怪訝そうな表情でイーケンを見ていた。

「大変失礼致しました! お許しください!」

 そう謝ると、部下の一人がイーケンに問いかける。

「君、唇が切れているぞ。それにこんな建物の裏で何をしているんだ?」

「いえ、その」

「制服の襟が乱れているな。何かあったのか?」

 答えに窮していると、偉丈夫は目を鋭く光らせてイーケンを押しのけた。イーケンが走って逃げてきた通路に足を踏み入れる。するとイーケンを追って来ていたらしい複数の足音が止まった。


 偉丈夫の名前はユーギャス・ルオレ。十一年前は第三艦隊の少将であった。その日は偶然士官学校の視察にやって来ていて、学生時代に自分がよく使っていた訓練場を見るために校舎の裏を通って近道をしようとしていたらしい。彼はイーケンの置かれていた状況を教官達に伝え、その状況から救い出してくれた。

「それにしてもひどいな。どうしてこんなことに?」

 医務室で手当を受けるイーケンにユーギャスはそう問いかけた。

「自分の成績が彼らより良いからです。彼らは将校の家系で彼らの家族のようになることを期待されていますが、そうあるためには自分が邪魔なのです」

 あざだらけの上半身を見てルオレは顔をしかめる。イーケンは医官にあざを触られて息を詰めた。ユーギャスはふと距離を詰めたかと思うと首を傾げる。

「しかし珍しい目の色だ。薄青か? いや、少し違う色も入っているな」

「薄青の内側に焦げ茶が入っています。母が同じ目をしていました」

「見事な白い肌だ。これでは日に焼けると痛いだろう」

「北方の血を引いているので、このような色なのだと思います。女のような肌です。……どうしても、好きになれません」

 そう話している間に苦い気持ちが胸の奥底からにじみ出た。親からもらった肌も目も、今まで好きになれたことはない。あらゆる国から人が来るとは言え、この珍しい色の目は無遠慮な人目を引いた。薄青に部分に囲まれた内側には焦げ茶が入っていて、少し変わっているからだ。両親はこの目を特別な目と呼んでくれた。それでも家の外ではそうもいかなかった。ずっと昔に近所の子どもに

「変な色の目!」

 と言われたことはは未だに忘れられない。

 肌も嫌悪の対象だった。弟はすぐに日焼けして小麦色になるのに、昔からイーケンときたら夏になっても雪のような肌のままだったのだ。これもまた同い年の子どもによるからかいの対象になる。ある日家に帰って両親に泣きついてことがある。そのときに母は

「白絹みたいで素敵よ」

 と言ってくれたのに、全く好きになれなかった。

 士官学校に入ってからは余計に嫌いになった。周囲はあっという間に日焼けし、身体つきもあいまって逞しい男へと変貌していくのに自分は全くそうはなれない。入学して半年近く経ってようやく色が着いたように思われたが、未だに学級では誰よりも色が白かった。同じようになれないことがこの上なく悔しい。容姿は違って当たり前のものだが、狭い世界ではどうしても居場所が無いように感じてしまう。

 イーケンの気配を察したのか、ユーギャスは穏やかに問いかける。

「この狭い士官学校という世界では、その容姿は人目を引くか?」

「残念ながらその通りです」

「そんな君に良いことを教えよう」

 ユーギャスはイーケンの前に椅子を引っ張って来て腰を下ろす。

「良いこと、ですか」

「少年、君はいずれ天竜旗を賜った誉れある神王国海軍士官として、この広い海を駆け巡ることになる。そうなれば君の価値は実績が決めるのだ。どんなに珍しい目の色であろうと、日に焼けにくい肌であろうとな」

 その言葉に素直に頷くことはできない。ためらっていると、ユーギャスは一番近くにいた部下を呼び、彼の上着を脱がせる。さらに下に着ていた服もまくらせた。すると、その男の腕の上着で隠れていた部分は真っ白だった。イーケンは驚いて目を見開く。彼の首筋や上着から出ていた手は日に焼けているが、他はそうではないのだ。自分では晴らせなかった霧が消えていくような気持ちだった。

「この者は私の部下の一人だ。これまでに多くの戦果をあげてきている。人格も素晴らしい。彼は元が色白だが、非常に優秀な軍人として艦隊長の覚えもめでたい。分かったかね? 軍人の優劣に容姿は全く関係無いのだよ」

 重みのある言葉がすんなりと胸に落ち、ただ頷くことしかできない。誰のどんな言葉よりも、今この瞬間のそれが効いている。

「君は非常に成績が優秀だと先ほど教官方から伺った。だが学年上位の成績は、決して君の容姿に起因したものではないだろう」

 ユーギャスはイーケンの右手を見て淡々と続ける。

「実技では剣術に秀でているそうだが、理由はその手を見れば分かる。訓練用の剣を一日何時間も握り続けた手だ。そして机に向かって学ぶことも怠らなかった。君は勤勉な人間だ。そうあることのできた己を、君は堂々と誇りなさい」

 ユーギャスの手が軽く肩を叩く。

「繰り返しになるが、そこに君の容姿は関係ない。全ては君の力で、同時に全ては君の力次第だ」

 あの日のあの言葉に少年の時分のイーケンは大いに救われた。生みの親でもなく両親を失ってから引き取ってくれた叔父でもない、会ったばかりの海軍少将の言葉に。その言葉は救いになると同時に羅針盤となった。全ては己の力次第という言葉を胸に過ごした士官学校の日々は、忘れがたいものとなっている。

 その二年後に士官学校を三席の成績で卒業したイーケンは、本部第三艦隊へと配属された。着任式のときにユーギャスと再会した。中将として壇上で祝辞を述べた彼と一瞬目が合い、彼はわずかに表情を緩めた。まさか覚えられているとは思わず、あのときは驚いたものだ。


(よりにもよって、あの方が協力者とは……)

 深くうなだれたイーケンは信じたくない気持ちを押さえつけ、冷たい床に横たわる。

(それでも国に害をなす以上は告発せねばならない。特殊憲兵隊に嗅ぎつけられることだけは避けたい)

 フラッゼ神王国の憲兵は陸軍と海軍とは完全に独立した存在だ。一般市民にはあまり知られていないが、街中や関所の警備だけではなく他国の間諜や内通者を炙り出すための特殊憲兵隊もある。イーケンは真偽は知らないが、一度特殊憲兵隊に拘束されれば二度と姿を見られなくなるという噂がまことしやかに囁かれているのだ。

(最後がどうあれ、これまで国に尽くしてきたあの方が特殊憲兵隊に拘束されて霧のように消えていいはずがない。せめて、俺が片をつけたい)

 そう思いながら、イーケンは眠りに落ちていった。

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