いい三十歳の日


 ~ 十一月三十日(火) いい三十歳の日 ~

 ※呼牛呼馬こぎゅうこば

  相手の言うのにまかせて逆らわない




 人はだれしも。

 乱れたリズムや心の揺れを取り戻す。

 自分だけの癒しを持っているものだ。


 それが音楽であったり。

 風景であったり。

 言葉であったり。


 共感を得る得ないにかかわらず。

 自分が見つけたコージー・コーナー。


 例えば。

 俺の癒しは。


 毎日のように行われる。



 これ。



「パパ! 家の前にスパイが立ってる!」

「ダメだよそんなこと大声で言っちゃ。正体がばれたらクビなんじゃないのかな、スパイ」

「なに言ってっかわかんねえけど、ほら見てみ!」

「どうしたんだい、この潜望鏡」

「凜々花の舞浜ちゃんがくれた!」

「ちょいちょい僕のオタ心をくすぐってくるよね、秋乃ちゃん。どれどれ……。うわ! スパイだ!」

「でっしゃろ?」

「日本人には変な先入観が刷り込まれてるね。黒コートにサングラスしてる人を見て、なんで彼がスパイだって認識するんだろう」

「きっとあれよ。凜々花による国家転覆計画を、かんぼーちょーかんあたりが嗅ぎつけたんよ」

「またずいぶん畑違いの人に嗅ぎ付けられたもんだね。でもどうしてあんな人がうちの前に立ってるんだろ?」

「だから凜々花の国家転覆計画がな?」

「それ、具体的には?」

「食いもん屋を、全部カレー屋にすんの」

「大好きだもんね、カレー。でも日本はインドにはならないと思うな」

「インドじゃねえよ? ヨーロッパ」

「欧風かぁ」



 ――保坂家名物。

 親父と凜々花の脱力会話。


 ダイニングテーブルでコーヒーをすすりながらこれを聞いてると。


 日本は平和だなと感じて。

 俺は幸せな生活を送っているんだなと再認識して。


 心底リラックスできる。


「ねえパパ。舞浜ちゃんは?」

「ああ、お弁当の材料を買いに行ったみたいだけど」


 そんなゆったりとした夕暮れ時に。

 波紋が一つ。


 買い物だって?

 それはまずい。


 今は黒服がいるから。

 裏口から帰ってくるようにメッセージ送っておかねえと。


「さっき、何を作ればいいか悩んでたみたいだからさ。オープンサンドを教えてあげたよ」

「おお! パパにしては外角一杯ストライク!」

「それ喜べないよ。ギリギリだったんだね」

「それなりおしゃれじゃん!」

「まあね。簡単だしね」

「でもさ、なんで舞浜ちゃんが作んの? 舞浜ちゃんのお弁当、おにいが作ってるんだよ?」

「確かにそうだよね。なんでだろ」


 親父が首をひねると。

 凜々花も肩をすくめる。


 そんな二人を見た俺は。

 一人、小さく頷いた。


 ……確かに。

 理由があるとは言ってたけど。


 なんであいつは急に弁当なんか作り始めたんだ?


 じきに帰って来るであろう、裏口の扉。

 戻ってきたら問いただそうと、意識を向ける。


 すると、間髪入れず。

 かちゃりと扉が開く音が耳に届いた。


「た、ただいま……」

「うおおおおいメッセージ読め!」

「え?」

「黒服いたろ! 見つかったんじゃねえの!?」

「い、いなかった……」


 問題ないよと言わんばかり。

 平気な顔してブーツを脱いでるこの女。


 舞浜まいはま秋乃あきの


 黒服が隠れてる可能性もあるだろうに。

 なんて危機感のなさ。


 でも、俺たちの会話をリビングの方から聞いていた凜々花は。

 違う結論に達したようで。


 未だ廊下から顔を出さない秋乃に向けてとんでもないこと言い出した。


「まさか、殺っちまった!?」

「殺っちまってないよ……」

「食材に見せかけた鈍器でスパイを撃退! スパイVSスパイ!」

「あ、あたし、スパイに勝てるような鈍器持ってないよ……」


 苦笑いを浮かべながら部屋に入って来た秋乃。

 そのエコバッグから。


 

 飛び出すフランスパン。



「うはははははははははははは!!!」


 親父と凜々花も大爆笑。

 でも俺は。

 改めて黒服の行方を考える。


「……お前、玄関から帰って来たけど。ほんとにいなかった?」

「い、いなかったよ?」

「ほんと?」

「多分……」

「まさか、それで叩いてねえよな」

「それって、どれ?」

「この鈍器」


 俺は、エコバッグからこれでもかと飛び出したフランスパンを取り出して。


 秋乃の前で、ブンブン振ってみせると。


 その軌道を華麗に避けつつ飛び込んで来た凜々花が。

 秋乃にしがみついて。



 バカでかい声で。

 禁句を口にした。



「おかえり! 舞浜ちゃん!」

「フランス革命アタック!」

「ごひん!」


 ちょうど持っていた鈍器で。

 凜々花の頭をぽかり。


 何度言っても分からねえ奴には。

 いうこと聞くまで体罰だ。


「また呼びやがったな?」

「あ! そうか! 呼んじゃいけなかったんだ、まいはもがっ!」

「バスティーユディフェンス!」


 フランスパンによる突きを口で受けて。

 目を白黒させるおバカさん。


 お前の声、向かいでレジ叩いてる朱里にも聞こえるほどでかいんだから。


 いつか黒服にバレちまうだろが。


「秋乃の名前を呼ぶんじゃないよ」

「ほんが、まんへほめまいーほ?」

「理解できちまう俺は天才だな。舞浜、あるいは秋乃以外ならなんでもいい」

「がりっ! もぐもぐ……。じゃあ、舞浜ちゃんはなんて呼ばれたい?」

「な、なんて呼ばれたいだろ……。一緒に考えてくれる?」

「うーん…………。立哉?」

「や、ややこしい……」

「じゃあ、保坂」

「対象が増えた……」

「えー!? じゃあもう、舞浜ちゃんが決めてよ!」

「……ねえおまえさん」

「きゃはははははははは!!!」

「なぜ旦那気取り」


 そのまま二人して、食材を冷蔵庫へ突っ込みながら。

 くだらん呼び名を思いついては大笑いしてるけど。


 それにしても。

 おまえさんって。


 江戸か。


 ……そして、ふと考える。

 結婚したら、相手のことを名前で呼ばなくなるものなのかな。


 もともとは、舞浜って呼んでたのが。

 秋乃に変わったように。


 でも、そんなこと考えても意味ねえか。

 そもそも結婚なんて三十歳越えてからだろうし。


 しかも相手がこいつなんてこと。

 絶対ないだろうし。



 ……でも、もし。

 相手が秋乃だったなら。



 俺は、なんて呼ぶようになるんだろう。



 そんなことを、ぼーっと考えていたら。

 無意識のうちに、秋乃のことを眺めていたらしい。


「な、なあに? 立哉君……」


 気付いた時には、困り顔の秋乃が。

 視界の中で、もじもじてれてれ身をよじっていたから。


 慌てて目を逸らして言い訳を始めた。


「い、いや!? 何でもねえよ!?」

「で、でも……。あたしのこと見てた……」

「いやそんな事ねえし!」

「じゃあ、あたしの呼び方考えてた?」

「う……。い、いやまさかそんな……」

「いいよ? 呼んでも」

「呼ばねえよ!? ……てか、なんて呼べって?」

「ねえおまえさん」

「うはははははははははははは!!!」


 だからなんで旦那なんだよ!

 意味分からん!


 でも、妙な空気が吹っ飛んでよかった。

 こっそり胸をなでおろしたところで。

 凜々花が何か思いついたようだ。 


「凜々花、良い呼び方思い付いた!」

「どっち? おもしろの方? 真面目な方?」

「大真面目! お姉ちゃんって呼ぶ!」

「お、おね……っ!?」

「なぜぶり返す!」


 わたわた慌てる秋乃と俺。

 そんな姿を見ても意味を理解できてない様子の凜々花にひとまず確認だ。


「お姉ちゃんって。……『義』の字は入ってねえだろうな?」

「魏? しょかつきん?」

「それは呉」

「お姉ちゃんじゃだめ?」

「う……。ま、まあ、いいんじゃねえの?」


 一般的だし。

 深い意味はねえし。


 だから俺は許可したんだ。

 それだけだ。


 ……だから。


「お前はいつまでもてれてれしてるんじゃねえ!」

「ぎゃふん!」


 ああそうだ。

 これはただのてれかくし。


 俺は秋乃に。

 シャンゼリゼスプラッシュをお見舞いしてやった。



 …………うん。

 これ、鈍器として成り立ってるぞ?


 ほんとに殺ってないよな、おまえさん?

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