御伽噺
寒い季節、私は古い友人に招待されて、館に来ていた。
ちょっと変な性格の友人で、あまり気は進まなかったのだが、強引に押し切られてしまった。
古びた門を開けると、軋む音が響いた。
友人は、館の二階で待っているといったのが、あいにく私は、館の地図を持っていない。
勝手に中を徘徊するという手もあったが、さすがにそれは躊躇われた。
煌びやかだが、どこか古い感じを与える装飾を眺めていると……
私が立っている門の近くから、友人の声が聞こえた。
何かを朗読しているかのような、それでいて、優しい、不思議な口調だった。
その声に誘われるかのように、ふらふらと近くの窓へと近づいていった。
窓を覗くと、そこには友人と、一人の老婆がいた。
友人は、童話のような表紙の本を手にして、老婆の前に立っていた。
本の背表紙には、タイトルは書かれておらず、メルヘンな装飾が施されているばかり。
老婆が座る椅子の近くには机があり、透明な入れものがあった。
中に何か入っているようだが、布がかぶさっていて、よく見えない。
老婆は深く椅子に腰掛けていて、表情は伺えなかった。
ただ、目を閉じているということだけはわかった。
相当な年のようで、手は皺だらけで、髪は白髪のように見える。
不意に、友人の声が止まった。細い指先が、本のページを捲っていた。
どうやら、老婆に本を読み聞かせているようだ。
ほんの少し窓が開いているから、声が聞こえるようだ。
ぴくり、と老婆の手が動いたのは、私の気のせいだろうか。
私は、何かに憑かれたかのように、その光景を眺めていた。
ぼんやりとする頭に、友人の声が響いた。
昔、むかし。
花が咲き乱れ、穏やかな風が吹く季節のことでした。
外国の小さな国に、とある孤児院がありました。
身寄りのない子供たちが、親の代わりの保護者と一緒に暮らしていました。
そんな薄汚れた孤児院の中に、とても綺麗な少女がいました。
ふわふわとカールした、真っ白な髪。すべすべとした肌は、まるで雪のように色白でした。
くりっとした、大きな丸い瞳は、柘榴のように綺麗な赤色でした。
少女は、”先天性色素欠乏症”でした。
ほかの子供たちよりも体が弱く、常に風邪を引いているような状態でした。
そのために、少女は一日のほぼ全てを、孤児院の中で過ごしていました。
長い間日光に肌をさらすと、翌日には熱が出てしまうのです。
孤児院の一回にある、角部屋が彼女の部屋でした。
少女は皆からは疎まれていました。
外見が違うという理由で、化け物扱いされていたのです。
男の子たちが、元気に外へ駆け出していくのに、少女はいつもひとりぼっちです。
いつかはみんなと遊びたい……
綺麗な色をしている空を見てみたい……
元気な男の子たちを羨ましく思いながら、少女は部屋に閉じこもっていました。
何故なら、少女の目は見えなかったからです。
それでも、少女は窓を開けて、外に顔をだしていました。
その孤児院の近くには、小さな病院がありました。
大きな怪我や、病は治せませんが、軽いものなら治すことができました。
また、直ることのない病気を抱えた、子供たちの生活場所でもありました。
普通の子供たちの遊び場にもなっていました。
小さな病院の中には、一人ぼっちの少年がいました。
さらさらとした、金色の短い髪、青空のように澄んだ蒼い瞳。
少年は、薄暗い病室の中で、一人ぼっちでした。
何故なら、少年は不治の病にかかっていたからです。
苦痛はまったくなく、ただ、静かに体が衰えていく。
少年の病は、遅らせることはできても、回復することはできませんでした。
しかし、この少年は、体が弱いわけではありません。
少しの時間なら、外で自由に遊んでいてもいいのです。
運動することが、病の進行を遅らせることにも繋がるからです。
少年は、めったに外出しませんでした。
少年が外に出ると、他の子供たちは少年をいじめるのです。
ばい菌が、移るだろうと。
少年の病は、人から人へと感染するものではないにも、かかわらず。
だから、少年はほとんど外出しないのです。
たまに、気が向くと、ふらりと外に出てみることはありましたが。
少年は、一人孤独に病と闘っていました。
そして、少女と少年は出会いました。
少年が散歩をしていたとき、少女はいつものように、窓から顔を覗かせていたのです。
覗かせていても、少女は風の香りを感じたりしていただけですが。
少女の部屋の前を、少年が通りかかったのです。
偶然のような、素敵な出会いでした。
虐げられていたもの同士、通じ合うものがあったのでしょう。
少年と少女はすぐに親しくなりました。
少年は、一日のほとんどを、少女の部屋で過ごすようになりました。
また、少女は、少年が来るのを、胸をどきどきさせながら、待つようになりました。
他愛のない話をしたり、お互いの辛いことを話したり、簡単な遊びをしたり。
少年は、いつも少女の手をとって、導いていました。
今までのことが嘘の様に、楽しくて、しあわせな毎日が続きました。
しかし、病はゆっくり、けれど確実に少年を蝕んでいました。
窓の外を吹く風が、冷たくなった季節に、少年は言いました。
目が見えるように、なりたい?
少女は、ポツリと答えました。
見えるように、なりたくない、と。
どうしてなの?
少年は首を傾げながら、尋ねました。
少女は、ただ一言。
怖いから、といいました。
辛い現実を見るよりは、暗闇の中がいい。
汚れた世界を見るには、少女の瞳はあまりにも純粋すぎたのです。
でも、少女は、少年は見てみたいと言いました。
少年の声は聞こえますが、姿は見ることができなかったからです。
いったい、どんな姿なんだろうと、ずっと考えていたのです。
とても優しくて、綺麗な声をしていたから。
そんな少女に、少年は優しくいいました。
僕が死んだら、僕の瞳をあげよう。
少年は少女の目が見えるようになって欲しいと、思っていました。
世界には醜いものばかりではなく、美しい、綺麗なものがあると、知って欲しかったのです。
例えば、少女のような。
しばらく迷っているようでしたが、やがて少女は、ゆっくりと頷きました。
二人は、指きりの約束をしました。
暗闇を望む少女と、光を望む少年の……儚い約束でした。
ちらちらと、淡い粉雪が降り始めた頃。
少女の部屋には、少年が遊びに来なくなりました。
少年の声は掠れていたけれど、また来るよ、と言っていたのに。
凍えるような寒さの部屋で、少女はずっと待ち続けました。
優しい、ノックの音を。
深く雪が積もる夜、少女の部屋を誰かがノックしました。
少女は喜んで扉を開けましたが、そこにいたのは少年ではありませんでした。
聞こえてきた声は、少年のものではなく、院長のものだったからです。
院長は少女の手を引くと、小さな病院へと向かいました。
少女の頬には、冷たい雪が、吹き付けました。
病院へ着き、しばらく歩いていると、院長はいいました。
この部屋の中にいますよ、と。
院長は少女を連れて、一室の病室の中へと入りました。
少女が戸惑っていると、扉の閉まる音が聞こえました。
気がつくと、少女の手はからっぽでした。
また、院長も部屋の中にはいませんでした。
少女は、病室にひとりぼっちになったと思いました。
ひんやりと冷たい病室の中、孤独感に押しつぶされそうになった時――
懐かしくて、愛しい声が聞こえました。
こんばんわ、久しぶりだね。
少女は弾む気持ちを抑えて、返事をしました。
会いたかった、ずっと待ってたの、と。
声を頼りに少年の元へ行こうとしている、少女に少年はいいました。
遊びにいけなくて、ごめんね。
そんなことは、もういいの、と少女は立ち止まって答えました。
きっと、少年に会えたことが、よほど嬉しかったのでしょう。
少年は、少女を見て微笑みながら、掠れた声でいいました。
二人の約束を覚えている?
少女は頷いて、ふらふらと歩き出しました。
大好きな少年の声が導く方へと。
ベッドへと辿り着くと、少年は少女の手に触れました。
少年の手は、細くて、ごつごつとしていました。
そのまま少年は、少女の手を、自分の目元まで導きました。
少女が指を動かすと、少年の瞼に触れました。
少年はいいました。
僕の瞳を、君の瞳と交換するんだ。
そうすれば、きっと見えるようになるよ。
細い指が、少女の指を瞼に当て、押し上げました。
指が引っ張られる感覚が終わると、少女は指を少年の瞳に入れました。
少しの抵抗のあと、指はするりと入って、暖かい濡れた感触が指を包みました。
そのまま指を曲げて、落とさないように瞳を取り出しました。
少年の体は、小刻みに震えていました。
同じようにして、少女はもう一つの瞳も取り出しました。
少年の体は、びくびくと跳ねていました。
そして少女は、今度は自分の瞳に指を突き入れました。
激しい痛みと共に血が流れ出しましたが、歯を食いしばって我慢しました。
少女の赤い瞳が、ひとつふたつ。床に転がって、小さなコロンという音を立てました。
少女は潰さないように持っていた、少年の瞳を自分の瞳の場所へ押し入れました。
そして、少し、瞬きをしました。
すると、ゆらゆらと揺れるような、人影が見えました。
人の形がしている、というくらいにしか見えませんでした。
少女が必死に瞬きをしていると、少年は囁くように言いました。
さようなら
少女は、瞬きを繰り返していました。
しばらくすると、ようやく少年の姿が見えました。
ぱさぱさに痛んでしまった金色の髪。
真っ赤な穴が二つ開いた、顔。
やせ細り、骸骨みたいになってしまった体。
少女は喜んで、少年の手を取りました。
けれど、少年の手は、だらりと垂れ下がってしまいました。
少女は、少年がいなくなってしまったことを、理解しました。
少女は、少年から、少し離れました。
さようなら、と呟きながら。
少女が初めて見た少年の姿は―― 眼窩が真っ赤な、少年の死体。
それから少女は、こっそりと孤児院へ帰りました。
扉の外には、院長はいなかったからです。
後で迎えに来るつもりだったのでしょうか。
初めて見る景色の中、懐かしい雰囲気の孤児院を探して。
少女は自分の部屋の中に閉じこもりました。
大切な、タイセツな。少年の瞳を誰にも奪われてしまわないように。
少女は、窓から世界を見ていました。
辺り一面真っ白な、白銀の世界。
吹き付ける雪は冷たく、少女の頬を赤く染めました。
少女は、少年のいっていたことを思い出しました。
綺麗な花や、太陽が暖かくて、眩しいんだ
少年が見た景色を、少女は見てみたいと思いました。
けれど、まだ冬は始まったばかり。
春が、とても待ちどおしくなりました。
雪を眺めていた少女は、二輪の花を見つけました。
埋もれながらも、空を目指している、蒼い花。
何故か、少年のようだと思いました。
その隣には、ふらふらと揺れる、真っ白な花。
まるで、少女は自分のようだと思いました。
少女は、少年の瞳が空と同じ色だとは知りません。
吸い込まれるように、透明感に溢れた、蒼色。
なぜなら、少女は決して鏡を見ようとはしなかったからです。
少女は、凍えながらも、眠りにつきました。
少女は、美しいものをたくさん見ました。
野原に咲き誇る、色とりどりの、可憐な花。
何処まで高く透き通った、綺麗な青空。
ひらひらとはためく、蝶の翅。
小さくて、暖かい、小動物。
空を見上げるといつもそこにある、大きな眩しい太陽。
けれど、醜いものもたくさん見ました。
枯れて地に落ちた花。
ばらばらの、蝶の死骸。
意地汚くて欲深い、大人。
動物をいじめる、子供。
鋭い稲光の光る、曇り空。
赤い、紅い――真っ赤な流れる血。
美しいものと醜いものは、同じくらい世界には存在していて。
少女は世界が好きになると同時に、嫌いになりました。
そして、本当に好きなのは、少年だけだったのだと、気づきました。
世界を知ってから、二度目の寒い季節のことでした。
少女は浅い眠りから目覚めました。
起き上がろうとして、少女は首を傾げました。
辺りが、暗闇に包まれていたからです。
何度か瞬きしていても、変わりませんでした。
少女がベッドの上を手探りしていると、何かぬるりとしたものに触れました。
ぬるぬると冷たくて、丸い形をしていました。
このとき、少女は気づきました。
この丸いものは、瞳なのだと。
少女が少年からもらった、大事なダイジな瞳は、腐り落ちてしまったのです。
腐って、少年の瞳は零れ落ちてしまいました。
滑らかな指が手探りで瞳を掴み、元に戻そうとしました。
何度も眼窩に押し込みましたが、すぐに転がり落ちてしまいます。
何度も繰り返すうちに、ぐちゃり、という感覚が、少女の手の平に伝わりました。
力を入れすぎたせいで、少年の瞳は、あっけなく潰れてしまいました。
暗闇しか見えない世界が、少女を包み込みました。
その中で、少女は絶望しました。
少年からもらったものが、壊れてしまったからです。
代わりがきかないこと、直せないことを、少女は理解していました。
だからこそ、ずっと嘆き続けました。
少女の瞳は、二度と見えることはありませんでした。
暗黒の中、血の涙を流し続ける少女は、ふと気づきました。
もともと少女は、暗闇を望んでいたことに。
それなのに、どうしてこんなにも、胸が張り裂けそうなのかと。
始めと何も変わっていないのだと。そう無理矢理思い込もうとしました。
すると、不思議に心が落ち着いてきました。
少年の願いは消えて、少女の願いは叶った。
ただ、それだけなのでした。
少女は、必死で少年のことを忘れようとしました。
少年など、最初からいなかったのだと。
綺麗で、儚い、夢を見ていただけなのだと。
けれど、少女の瞼からは、ある映像が焼きついて離れませんでした。
少年の微かな微笑みと、真っ赤な死体が。
数日後、少女は窓の外に顔を出していました。
とても寒いので、どうやら雪が降っているようです。
春なのに、雪が降るなんて、少女はおかしいなと思いました。
季節はずれの雪は、綺麗なのかな、とも。
少女は、あの二輪の花のことを思い出していました。
記憶を頼りに、花のある方へと顔を向けました。
そして、瞼の中に、花を思い浮かべていました。
綺麗な青い花と、可憐な白い花。
その時、部屋の扉をノックする音が聞こえました。
少女は、一瞬淡い期待を抱いた後、首を横に振りました。
悲しいことは、忘れてしまおうと。
扉を開けて入ってきたのは、院長でした。
少女が変わらずに窓の外を眺めていると、院長は近寄ってきました。
窓の外のを見ながら、院長はいいました。
綺麗な花が咲いているわね
少女は尋ねました。本当に咲いているの? と。
院長は、微笑みながら答えました。
ええ――綺麗な、蒼い花と紅い花が咲いていますよ
友人が本を閉じる音で、私は我に返った。
今のは――何かの御伽噺なのだろうか。
とても美しくて、とても悲しくて、とても残酷な話。
何ともいえない、妙な気分になっていた。
私の胸の中は、悲しい気持ちで満たされていた。
まるで、お話の中の、少女になってしまったかのように。
くだらない幻想だ、と首を左右に振る。
さて、どうしようか……と考えつつも、まだ窓を見ている私がいた。
ここから、友人に声を掛けたほうがいいのだろうか。
それとも、やはり中に入ってから、呼んだ方がいいのだろうか。
私が悶々と考えていると、不意に、くるりと友人がこちらを向いた。
友人は、ぽけっとした後に、にこにこ微笑んだ。
そして、声にはださずに、唇でこういった。
ああ、見ていたね?
――まずい。変な所を見られてしまった。
まさか、盗み聞きしていたなんて、いえないだろう。
でも、事実はそうだ。嗚呼、どうやって言い訳をすればいいのだろう。
嫌な汗をかきはじめて、動けない私の視界で、老婆の手が少し動いた。
その間にも、友人は窓の方へと近づいてきていた。
その時、気づいた。
老婆の手が引っかかったのだろうか、入れ物の上にあった、布が床に落ちていた。
自然に私の視線は、入れ物の中身に釘付けになった。
ああ――なんてことだろうか。
私の頭は、真っ白になった。
透明な入れ物の中には、ふたつ入っていた。
干からびた、紅い瞳と、蒼い瞳が。
友人が窓を開けて、囁いた。
新しい約束を交わそうか
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