第31話 海里さんがゴンドラから宙吊りに

 海里さんがゴンドラから宙吊りになっている。

 しかも、海里さんの僕の手首を握っていた怪力は消え失せ、僕が必死で海里さんの全体重を受け止めているのだ。

 海里さんは、顔を上げ、僕の顔を見て一言だけ、無機質な声で機械的に喋(しゃべ)った。

「全機能停止……」

 海里さんは、顔を上げたまま瞳を閉じた。額からは一筋の血が流れている。

 とっさに出た僕の頭突きが、海里さんの額のホクロにクリーンヒットしたみたいだ。

 海里さんは、以前と同じように動かなくなっていた。

 どうするんだよ。この状態で、ゴンドラが下に降りるまでとても僕は海里さんを支えきれない。だからといって、この体勢で腕の力だけで海里さんを引きあげるのは無理だ。自身の体重も足の筋力も使うことができない。

 くそ、火事場だぞ。俺のリミッター、外れろ。海里さんぐらい、腕の力だけで引き上げてみろ! 

 しかし、腕は伸び切ったまま、海里さんを引き寄せることもできない。

 すでに腕も痺れてきていている。もうそれほど経たないうちに、腕の感覚もなくなってしまうだろう。

「くそ、くそ」 

 死んでもこの手は離さない。せめて握力だけでも鍛えていれば……。

 僕は、いつの間にか、泣いてしまっていた。涙でかすんだ視界の先で声がする。

 空耳なのか? 

「真治、もう少し我慢できるか? 」

「えっ、勇奈さんなの? 」

「ああ、今から蹴上がりで上がるから、跳ね上げた瞬間引き上げてくれ。タイミングを合わせてくれよ! 」

 そういうと、有奈さんは、体を大きく前後にスイングさせ始める。たぶん、僕1人の握力ではこの動きはとても持たなかったんだろうが、今は僕の手首を勇奈さんがしっかり握ってくれている。

 二、三度体を振ると、前方に大きく振りだし、体を折り曲げ、戻る反動を利用して、空を蹴った。

「今だ」

 僕は、全力で腕を引き上げた。

 勇奈さんの脇から上が、ゴンドラの扉からこちらに入っている。下半身は未だ宙ぶらりんの状態のはずだが、僕の顔を見て、ニヤッと笑う。

「ここまで来れば、自分で上がれる」

 そういうと、肘を使って、ほふく前進のように、僕に這い寄ってきて、今だに腹這いでいる僕のベルトを掴むと、一気に、ゴンドラによじ登ってきた。

「いくら脳力が90%が使えて、リミッターを外せると言っても、これはきつかったぞ」

 勇奈さんは呼吸を荒げ、顔を紅葉させている。それに髪の毛は金色に、瞳はエメラルドグリーンに変わっている。僕の前にはあの男らしくて可愛い勇奈さんが居る。

 僕は泣きそうになっていた。いや、泣いていたかもしれない。

「もうだめだと思いましたよ。どうして動けるようになったんですか?」

「ふふっ、真治、知りたいか? 眠れるお姫様は王子様の涙で目覚めたんだ」

「あの、勇奈さん何を言っているのかわかりません」

「真治、その話はゆっくりするとして、下ではきっと大騒ぎになっていると思うから、この騒ぎから逃げ出す算段をするぞ」

そういって、乗っていたゴンドラのドアを閉めて、隣のゴンドラに向かって何かを引く身振りをする。すると、雄奈さんが乗ったと思われたゴンドラの扉が開いて、バタバタ鳴っている。

「えっ、何をやったんですか? 」

「ああ、向こうのゴンドラは、鍵が締まっていなかったんだよ。引っ付けていたのは幽奈特製チューイングガム。唾液と混ざると、吸着力が上がる。

 そのガムを取っただけだよ」

 勇奈さんがなにかを手繰り寄せた先には、丸めたチューイングガムが付いている。

「さて、真治、俺たちは、ずーっとおとなしくしていた。そうやって、しらばっくれるぞ」

そういうと、勇奈さんは、鞄から初めてデートした時に着ていたワンピースに着替えている。もちろん、Tシャツやホットパンツの上から着ているのである。

「なんで、着替えをするんです」

「これは、真治を突き落した後の変装用に用意していたんだよ。これで、遠目だったし、ゴンドラから宙ぶらりんになった女の子が俺って分からないだろう。ほら、もうすぐプラットホームだぞ」

 勇奈さんが雄奈?さんに切り替わる。ビジュアルは普段のままに戻っている。

 すでに、プラットホームでは、扉の開いたゴンドラが滑り込んでいて大騒ぎになっている。

 そらそうだろう。扉は開いてる、中に人は乗っていないのだ。

 そして、僕たちの乗っていたゴンドラの扉を係員が開ける。雄奈?さんは、気配を完全にけし、スーッとゴンドラから降りると、レバーハンドルに取り付けた道具をさっと回収し、出口に向かっている。

 僕は、係員に誘導され、ゴンドラから降りる。きっと係員には、このゴンドラから降りたのは僕だけだと思えたことだろう。

 だからこそ、表情が混乱している。あの、ゴンドラから宙吊りになった女の子はどこに行ったんだ。という表情である。

 僕は背中から何か声を掛けられたが、完全に無視して、出口に向かっている。

 確かに、女の子と男の子が一人ずつ乗ったゴンドラがあったはず。女の子がゴンドラから落ちそうになって、それで、落ちそうになったゴンドラには男の子一人しか乗っていなくて、やっぱり一人しか乗っていなかったはずのゴンドラには女の子は乗っていない。それに、落ちそうになった女の子の着ていた服装の子もどこにもいない。

 完全に混乱した遊園地スタッフは、結局、今乗っている乗客を全員を下すと、観覧車を止め、なぜ、ゴンドラの扉が開いたのかや、消えた女の子の痕跡を調査するが、まったく原因が掴めなかったのだ。

 僕は観覧車を遠目に眺めている雄奈さんに追いつき話しかける。

「えーっと、雄奈さん、じゃないですよね。あなたは幽霊の幽を当てる幽奈さんですよね?」

「なんであたしの名前を知っているのか? 確かに気配を消す認識阻害のオーラを出せるのはあたいだけ。あたしは、優奈の八番目の人格で、幽霊の幽を当てる幽奈だよ」

「あなたが僕を殺そうとしたんですか?」

「ピンポン!。あたしは優奈の殺意から生まれた人格だ。でも、もう大丈夫だよ。優奈、全部思い出したみたいだから。もうあたしは用無し、お払い箱ってわけ。あんたがあたしの名前を叫んでくれてホントによかった。あんたを殺さずにすんでさ。今、優奈を出したいだけど、人目が多いからね。それにもう限界みたいなんだ」

 海里さんの額からは未だに血が流れている。額のホクロは無残に完全につぶれている。

 今は元気そうだが、いつ、この前のようになるかもわからない。とりあえず海里さんは鞄から、絆創膏を取り出し額に張り付けている。

「すぐに、帰った方がよさそうですね」

「うんそうだね。少し休みたい。それに、パパかママと連絡が取りたいんだけど」

 海里さんは親と電話をしている。

 眠っていたとか目覚めたとか言っている。

 そうして、電話を切ると、「すぐに、大学附属病院にこい」だって、と僕に笑顔を向ける。

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