テスト

得道小路

第1話

 湯船の中からゆっくりと手を伸ばす。  

 左手の縁から水滴が滑り落ちて、手のひらから湯の中へと落ちた。 ポチャンという音が浴室に小さく響く。

「はあ……」

 青桐美月(あおぎりみづき)はため息をついた。伸ばした腕は華奢ではあるが、無駄な肉はついていない。小学生から大学生までバレエに熱中していたおかげだろう。大学を卒業してもうすぐ三年になる。

 大学生の間もずっとバレエ漬けだったわけではない。勉強やサークル活動にも精を出した。

 バレエをやるうちに人前で演技することに目覚めた。しかしコロナの流行で演劇などの舞台芸術が公演できなくなった。舞台で演技する夢は今は遠のいてはいるものの、いつか舞台の上で演技したいと思っている。

 今は声優のたまごとして芸能の場に立っている。意外にも声の演技でも充実した毎日を送れているが、仕事が充実していても多少は悩みがある。

 そのひとつがこの体である。

 美月は自分の体をまじまじと見つめる。

 胸は大きくもなく小さくもない。ただ、全体的にほっそりとした体型だ。

 手足は長くすらりとしているのだが、筋肉がないせいか少し細すぎるように感じる。肌の色つやや張りなどは申し分ないと思うのだが、どうも自分の容姿に対して自信を持てなかった。

 もちろんスタイルの良さで勝負するモデルのような女性もいるわけだし、それを否定するつもりはない。

 しかし、自分が目指すものはそうではないと思っている。

 もっとこう……セクシーさというものが欲しいと願うようになっていた。

 特に男性の目を引くような何かが……。

(まぁ、こんなこと考えててもしょうがないんだけどね)

 そう思いながらもう一度大きくため息をつく。

 シャワーの温度を下げ、頭から浴びることにした。

 冷たい水を浴びると気持ちが落ち着く。

 今日一日の出来事を思い浮かべているうちに、ふとあることに気がついた。

 今朝方見た夢のことである。

 内容はよく覚えていなかったが、なんとも不思議な感覚だけが残っていた。

 どこか懐かしい感じの夢だったが、それがどこなのか思い出せない。

 そもそもなぜあんな夢を見たのか? 答えのない疑問ばかりが頭の中に浮かび上がってくる。

 しばらく考え込んでいたが、やがて考えるだけ無駄だと思いなおした。

 それよりも明日の仕事のことを考えることにする。

 スケジュール帳を開き、仕事の確認を始めた。

 翌日、午前十時三十分。

 青桐美月は所属する芸能事務所の社長室で二人の女性と向かい合っていた。

 一人は四十代半ばの女性。名前は小鳥遊彩花(たかなしあやか)。

 芸能事務所の社長を務める傍ら、自らもモデルとして活躍している人物だ。

 年齢は五十歳に近いはずだが、年齢を感じさせない若々しい外見をしている。

 若い頃は読者モデルの経験もあり、雑誌の表紙を飾ったこともあるらしい。

 現在は女優業がメインとなっているが、今でも時々ファッション雑誌に登場することがあるようだ。

 そしてもう一人が二十代の若い女性。

名前を天音優希(あまねゆうき)という。

 身長一七〇センチを超える長身の持ち主で、長い黒髪を後ろで束ねポニーテールにしている。

 切れ長の目と高い鼻梁を持つ顔立ちは非常に整っており、一見するとモデルのように見えるほどだ。

 しかし、彼女の本業はモデルではない。

 彼女の本業は声優なのだ。

 アニメやゲームなどの声を当てたり、ナレーションを担当したりするのが主な仕事内容となる。

 また、最近では歌手としての活動も行っているそうだ。

 彼女もまた事務所の看板タレントの一人である。

 ちなみに社長とは子役時代からの付き合いらしい。

 そんな二人の間には微妙な空気が流れており、互いに視線を合わせようとしない。

二人とも決して仲が悪いわけではなく、むしろ良好な関係を築いていると聞いている。

 ただ、今回の件に関してはお互い思うところがあるようで、なかなか本題を切り出せずにいた。

 最初に口を開いたのは小鳥遊の方だった。

 彼女は軽く咳払いをした後、ゆっくりと話し始めた。

 その内容は昨日行われたオーディションの結果についてである。

 美月に不合格を言い渡すためにここを訪れたのだ。

 だが、いざ口にしようとするとその言葉が出てこなかった。

 それは目の前にいる少女の顔を見てしまったからかもしれない。

 その表情はまるで死刑宣告を待つ囚人のように思えた。

 いや、実際にそうなのだろう。

 この場に呼ばれた時点で結果は決まっているようなものだ。

 それでも最後まで足掻こうとする姿勢は賞賛に値する。

 しかし、現実は非情であった。「残念だけど今回は……」

「分かってます」

 小鳥遊の言葉にかぶせるようにして、美月は言った。

 その口調は意外にも落ち着いており、覚悟を決めた者のそれだ。

「……合格よ。あなたには来月からレギュラーでラジオ番組を担当してもらいたいと思ってるわ。詳しい話は後で連絡するから待っててちょうだい」

「えっ?」

 思わず耳を疑った。不合格を言い渡されると思っていたからだ。

 しかし、どうやら聞き間違いではなかったようである。

 しかも、その話が本当なら願ってもないことだ。

 この業界に入って三年になるが、ようやく自分の居場所を見つけた気がする。

 美月は喜びを隠しきれず、満面の笑みを浮かべた。

 そんな美月を見て、小鳥遊も嬉しそうに微笑む。

 しかし、すぐに真剣な眼差しで見つめてきた。

 何か大事なことを言い出す前触れだと直感的に悟る。

 一体何を言われるのか。

 心臓が高鳴っていく。

 そして、ついにその時が来た。

「ところで、あなたのマネージャーから聞いたんだけど、最近ストーカー被害に遭ってるそうじゃない。大丈夫? 何か困っていることはないかしら?」

 一瞬、何のことを言われているのか分からなかった。

 数秒経って、やっと理解が追いつく。

 そういえば、以前マネージャーにそのような話をしたことがあった。

 確か、あれは先週のことだったか。あの時は軽い気持ちで相談したのだが、まさかこんなことになるなんて……。

 美月は自分の迂闊さを呪ったが、今さら後悔しても遅い。

 とりあえず、事実確認だけはしておくことにした。

 もしかすると勘違いということもありえる。最悪の事態を想定しつつ、恐るおそる聞いてみた。

 小鳥遊は少し考える素振りを見せたが、やがて小さく首を振った。

 やはり、私の思い過ごしではないようだ。

 最悪だ。

 よりによって、一番知られたくない人に知られるとは。

 いや、まだそうと決まったわけではない。

 美月は必死になって否定した。

 だが、小鳥遊は構わず続ける。

 もう、美月には彼女の言葉を遮る気力すら残っていなかった。

 小鳥遊は淡々と告げていく。

 美月にとって最も残酷な一言を。

「実はね、さっき警察に行ってきたの。それで、犯人らしき人物の特徴を聞いたんだけど、なんとびっくり。あなたがよく一緒にいる男の子だったらしいのよね。なんでも、その子はあなたの彼氏だっていう噂もあるみたいだし、これはどういうことなのかしらね。まあ、私としては別にどちらでも構わないのだけど。ただ、あまりこういうことは言いたくはないけど、今後はもう少し言動に注意した方がいいと思うわ。特に男関係に関してはね。じゃ、私はこれで失礼するわね。これからよろしく頼むわよ、新人声優さん」

 そう言って、小鳥遊は社長室を出て行った。

 一人残された美月は何も言うことができずにいた。

 頭の中は真っ白になり、思考は完全に停止している。

 しばらくの間、そのままの状態でいたが、ふと我に返ると慌ててスマホを取り出し、電話をかけ始めた。

 相手はもちろん悠斗である。

 三コール目で電話に出た彼は、いつも通りの声色だった。

『もしもし、美月?』

 その声を聞くだけで安心感を覚えた。

 同時に、涙腺が崩壊しそうになる。

 だが、泣いている場合ではない。

 一刻も早く、誤解を解かないと。

 美月は震える声で話し始めた。

「ゆ、ゆう君。大変なの。小鳥遊社長にバレちゃって……」

『えっ、マジで!?』

「うん、ごめんなさい。私が迂闊なこと言っちゃったせいで、こんなことに……本当にどうしよう。このままだと、事務所を辞めさせられちゃうかもしれない……」

 美月は泣きながら、これまでの経緯を説明した。

 もちろん、自分がストーカー被害を受けていることは伏せてある。

 悠斗は黙って美月の話を聞いてくれたが、途中から明らかに様子がおかしくなった。

 最初は相槌を打っていただけなのだが、徐々に口数が少なくなり、ついには何も言わなくなってしまった。

「……ゆ、ゆう君?」

 不安になった美月は、恐るおそる名前を呼んだ。

だが、返事がない。

「ねえ、どうしたの?」

 再び問いかけたが、やはり反応はなかった。

「……もし、もしもし?」

 美月は受話器に向かって話しかけ続けた。

 しかし、それでも何も聞こえてこない。

 そこで、ようやく気づいた。

 どうやら、通話は切れてしまったようだ。

 おそらく、何か不都合があって、途中で切ったに違いない。

 きっとそうだ。

 美月は自分にそう言い聞かせた。そして、次にかけた時はちゃんと話してくれるだろうと思い、今度はマネージャーに電話をかけることにした。

 しかし、結果は同じであった。

マネージャーも、先ほどの小鳥遊と同じように一方的に話を終わらせ、すぐに切ってしまったのだ。その後、何度かけても結果は同じ。

 2人とも、最後まで美月の言葉に耳を傾けようとしなかった。

 まるで、最初から相手にする価値などないと決めつけているかのように。

 そのことが、余計に恐怖心を煽る。

 自分は何か悪いことをしてしまったのだろうか。

 確かに、今までの行いは決して褒められたものではないが、だからといって、ここまでされるほどのことをしてきたつもりもない。

 美月の目から、またもや大粒の涙が流れ落ちた。

 すると、突然、部屋のドアが激しくノックされた。

 美月はビクッと身体を震わせる。

 恐るおそる振り返り、ゆっくりと立ち上がった。

 そして、息を殺し、気配

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