1-1  風は桜を舞い上げて ③


 その日の夜、俺は夢を見た。

 夢の内容を正確には覚えていないけれど、雪村響子か、似た人物なのか、俺の方を見て悲しんでいるような、怒っているような、とにかく辛そうな表情で、涙を流している情景だけが、ぼんやりと浮かんでいた。

 その夢を一度どこかで見た気がする、そんなデジャブを感じた。


「おはよう」

 声を掛けたのは、俺からだった。

「――。おはよう」

 面食らった顔をして、雪村は淑やかな声で朝の挨拶を返した。

 それ以外は何もない朝だった。


 昨日、めちゃくちゃ悩みまくった結果、結局自分から声を掛けるという答えに辿り着くこととなった。

 見た夢のせいと、「おはよう」を言う決意をしたことによる動揺で十分な睡眠をとることができなかった俺は、クラスメイトの誰よりも早く登校した。

 自分の席に座り、落ち着かないまま雪村が教室に入って来るのを待ち続けていた。

 どんな顔をしていたとか、不自然じゃなかったかとか、挨拶を交わした後も、心臓のバクバクが収まることはなく、今日もまた一限目の授業が身に入ることはなかった。


 動向を常に目で追っていたわけでもなく、情報を嗅ぎまわっていたわけでもないのだが、あくまでただ単に隣の席であるが故に、俺は雪村響子という人物のことが日に日に分かり始めていた。

 雪村響子は、クラスの中に仲の良い友達はいないみたいだ。小休憩や昼休憩で誰かと一緒にいるところを見たことがない。大抵は席に座って、単行本を開いている。いつも同じブックカバーが掛かっているため、どんな内容のものを読んでいるかは分からない。

 部活動をやっている気配はない。その代わり、委員会活動に励んでいるらしく、一年生の頃から、図書委員をしているそうだ。このクラスの委員決めの際には率先して立候補していた。きっと読書家なのであろう。如何にも、成績が良い人って感じだ。

 席の近い女子生徒とは、たまに言葉を交わしているのを耳にする。授業の話題や、課題のこと、クラス全体に関わる連絡事項についての不明点を、尋ねられている場面が多く、優等生という印象を抱き、周りから一目置かれているように見受けられた。

 どことなく、触れにくい雰囲気を醸し出しているのは、俺の目からも明らかだった。

 ある程度の進学校だとは言え、今を生きる花の高校生、周囲は流行りのアーティストや、ファッション、トレンドに声を上げて騒いだり、色恋沙汰に一喜一憂したりする生徒が半数を占める教室内で、群れることなく凛と佇む彼女は、ある種の特異点と化しているようにも窺える。本人の意思はどうあれ、雪村響子は相対的に言ってしまえば、クラスでは浮いた存在だ。

 隣の席からの視点で知り得た情報を以てしても、彼女が俺に声を掛けてきた真意に迫ることはできず、小さなもやもやは頭の中に居座り続けた。


「おはよう」

「おはよう」

 進級してから3週間経った頃。俺と雪村響子の関係は、毎日挨拶を交わす程度の関係になっていた。

 とは言っても、雪村は俺以外の席が隣接しているクラスメイト皆に朝の挨拶を交わしているのだが。

 その事実に気付いたのは、初めて言葉を交わした日から陽が3度沈み、月が3度昇った頃だった。


「な~んだ。それじゃあ、雪村さんがマキマキに脈があるって可能性はゼロじゃん」

 その事実を佐伯に伝えると、嬉々としてそんなことを言ってきた。

「待て待て。なんで雪村が俺に気があるかどうかの話になるんだ」

「え? 最初からそういう話だったでしょ?」

「そうだっけ? あんまり覚えてないわ」

 とぼけたわけではなく、雪村のことを話したことは覚えているが、どんな風に説明したかはまるで意識していなかった。


 雪村が周囲との距離を縮めているという事実はあれど、俺と雪村は朝の挨拶だけでなく、二日に一回程度言葉を交わすようにもなっていた。

 気があるかどうかっていう物差しが消えることがないのは、男の性だとしても、俺の心は以前よりも平静を保っていた。


「周藤くん、次の移動教室ってどこだったかしら」

「あぁ、生物だろ? 北棟の一階にあるよ」

「ありがとう」


 当たり障りのない会話。同じクラスメイトなら、全くもって不自然ではない。

 俺から声を掛けることはなく、常に雪村から声を掛けてくる。回数を重ねるごとに当たり前と感じるせいか、何かを疑うことはもうなくなった。

 俺と雪村響子は同じクラスで席が隣同士なだけの関係。お互いにお互いが単なるクラスメイトであるだけだ。

 そう、あの事件が起きるまでは――。



 進級してから、三週間が経った月曜日の朝。

「おはよう」

 今朝は俺から挨拶をした。

 そして、雪村が「おはよう」と返す。

 たったそれだけの軽い会話。

 両手ではもう数え切れなくなってきたいつものやりとりが、今日だけは、いや、今日からは少し違っていた。


「今日、放課後話したいことがあるの、少し残っててくれないかな?」

 雪村は、小さな頬を白桃のように、ほんのり朱に染めて囁くように言った。

 今まで挨拶を交わすだけで終わっていた会話の、まさかその先があるなんてつゆにも思わず、俺は目を見開いた。


「え。あぁ、俺部活に1時間くらい顔出さなくちゃいけなくてさ」

 しかもその内容が予想だにしなかったもので、言葉を繕うこともせず、反射的にそのまま思ったことを口にしてしまった。

 佐伯には悪いが、部活動を後手に回してでも、ここは余計なことを添えずに、「YES」で良かったじゃないか。


 雪村の表情に少しだけ翳りが見えたのも束の間、「私も、少し用事があるから、放課後1時間経ったらこの教室に集合しましょ」と、微笑んでみせた。

「あぁ、おーけー」

 雪村が提示して来た時間の都合が良かったため、わざわざさっきの言葉を否定することはしなかった。

 正直危なかった。部活が~なんて言ったら、「じゃあ、いいや」ってなり兼ねない。


「何も問題ないよ。キラッ☆」

 小学生が読む少女マンガみたいな笑顔で、目尻から星が出るくらいに清々しい返事するべきだったか。

 いや、俺はどちらかと言えばクールなタイプだ。ならば、こうだ。

「仕方ねぇ。待っててやるよ」

 ヤンキーマンガの一匹狼みらいにぶっきらぼうな返事するべきだったかもしれない。

 そんな馬鹿なことを考えていたが、放課後が近付くにつれ、緊張している自分を如実に感じていた。


 話したいことがある――。なんていう台詞で連想せざるを得ないのは、何と言っても、愛の告白だろう。

 しかし、恋愛経験が希薄な俺でも分かる。この誘いは絶対にそんな良質な代物じゃない。席が隣同士の俺と雪村の物理的な距離は近くても、精神的な距離ではむしろ窓際の一番後方の席と廊下側の最前列の席ほどの隔たりがあるはずだ。

 では、何の呼び出しなのだろうか、全く身に覚えがない。それが逆に怖いのだ。

 何か心当たりがあれば、それに対してどういう反応を取るべきか、どんな言葉を返すべきなのか、防具を揃え、装備を整え、作戦を練り、迎撃準備ができるからだ。

 逆説的に言えば、俺は無策なうえ、丸腰で応戦する必要があるということだ。

 歴戦の勇者ならば朝飯前で軽くいなしてしまうのかもしれないが、人生というRPG歴16年恋愛ステータスレベル1の俺にとっては、最初で最後の天王山になるかもしれない。

 期待しているつもりなんて微塵もないけれど、小さな願望を払拭し切ることもできないまま、終業のチャイムが鳴った。

 

 例によって、写真部に顔を出し、約束の時間が来るのを待った。

 今日に限って新入生が体験入部に来るというわけもなく、佐伯とダラダラ喋りながら、時計の針が刻む音を数える。

 定刻になったのを確認し、用事があるとか、急ぐからとか、余計な枕詞は添えずに努めて自然体を装って部室を後にした。

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