1-1 風は桜を舞い上げて


「私たちは、これから始まる三年間を悔いの残らぬよう共に学び、共に励み、共に高め合っていきます」

 新入生代表で登壇した少女は高らかに宣言する。

 その姿は年下ながらに、勇ましく悠然としていて、息をするのも忘れるほどだった。

 おそらく学校側が用意した台本なのだろうが、その言葉は、説得力のある眼差しと、ハリのある声色によって、まるで大地に染みだした恵みの雨水のように、胸の奥に透き通っていった。

「新入生代表、国富飛鳥」

 綺麗なお辞儀をし、折り目正しく、檀上を後にしてゆく。

 それが練習の賜物であっても、その努力を感じさせないのは、彼女のきりりとした表情と、健康的かつ、線の細いスラリとした輪郭の美しさによる印象だろう。

 この会場にいる誰もが、彼女の勇姿に賛美の拍手を惜しみなく送った。

 

 高校の新入生代表って、たしか入試で成績がトップだったやつが選ばれるはずだ。

 勉強もできて、美少女で、大勢の人前でも堂々としていられる胆力を持っているだなんて。どう過ごしてきたら、あんなに良く出来た人になれるのだろうか。

 きっと、それらを得るだけの積み重ねや、抱えているしがらみがあるのだろう。

 俺みたいな平凡に生きてきた人間が、その背景を慮らずに、羨ましがっていいものではない。


「マキマキ、マキマキってば」

 体育館の2階部分にあたる、窓やカーテンの開け閉めのための通路にいる俺に、いつの間にか隣並んできた佐伯秋名(さえき あきな)が小声で話し掛けて来た。


「あれ、なんで?」

「なんで? って、マキマキがカメラを全く構えないからだよ。折角移動しなくてもいいように、望遠レンズ付けて、いいポジションにいるのにさ」

「あ」

 国富飛鳥に目を奪われていることにやっと気付き、俺は自分の役目のことを一切忘れて立ち尽くしてしまっていた。


「『あ』っじゃない。新入生代表挨拶なんて、絶対に撮っておかないといけないでしょうが」

 佐伯は、俺の胸を小さい握りこぶしでちょんと小突いた。


「ベストポジションにいるのに、マキマキが全く撮らないから、私がここまでコソコソとやってきたの」

 女子の中でも一際低い背丈の佐伯は、斜め上を向いて喋ってくる。


 マキマキといのは、俺、周藤真樹(すどう まき)のことで、佐伯だけが勝手にそう呼んでいる。

 俺と佐伯は同じ2年生で写真部に所属している中だ。

 部長が佐伯で、俺はいちおう副部長という扱いになっている。

というのも、昨年度の3年生が引退して以降、部員と呼べる部員は佐伯だけで、困っている佐伯のために俺は人数合わせで入部したに過ぎないからだ。

 そして、俺は今初めて実戦的な部活動の最中というわけだ。

 新入生を除いた在校生は、基本登校していないのだが、写真部や吹奏楽部等の一部生徒は入学式に参加する必要があった。


「可愛い可愛い新入生に気を取られるのはいいけど、しっかりシャッターは切ってもらわなきゃ困るからね」


 入学式の様子を撮影するという重大な役割だと言うのに、それをサボっているのを、部長に怒られている不甲斐ない副部長。先ほどの新入生と比べて、なんてザマなのだろうか。

 というか、別に、可愛いから見入っていた訳じゃないし。


「ちょっと、マキマキ聞いてる!?」

「あぁ。すまん、すまん」

「むぅ」

 頬袋に食料を貯め込んだリスみたいな顔で、佐伯が可愛く睨んでくる。

「さ。気を取り直して、パシャパシャ撮りまくるぞ~」

「誰のせいで、手を止める羽目になってると思ってんの! あと、初心者だからってテキトーにやらないでよ」

 そう言って、佐伯は持ち場に戻って行った。


「『悔いの残らないように』ねぇ」

 静粛にしないといけないのに、独り言が思わず口から零れていたことに気付き、言葉尻は風船の空気が抜けていくように萎んでいった。


 学生だろうが、社会人だろうが、病床に臥せていようが、自由に走り回っていようが、老若男女誰しもが大なり小なり後悔を抱えて生きているはずだ。

 いや、俺がただ単に、そう思いたいだけで、現実はそうでもないかもしれない。

 何か大きな失態を犯したとか、受験に失敗したとか、後悔と呼べるほどの後悔をしてきたわけではないが、心の奥の方が締め付けられた気がした。


 春の日差しに生命たちが湧き立つ頃、青春という名の風は吹き始めるらしい。

 その風は誰にでも等しく吹いている。しかし、上を向いている者にしか感じることのできないものらしい。

 恋をするにも夢を追うにも、その風は背中を押し続けてくれる。

 桜の花びらを連れて、今、風が吹き始めた。

 

 新入生が退場していった後、俺と佐伯は教師陣らと共に会場の後片付けを手伝わされていた。

「いやぁ。1年生はフレッシュでいいねぇ。そう思わないかい? マキマキ」

 パイプ椅子を並んで運びながら、佐伯がおっさん臭いことを言い出した。

「何キャラだよ?」

 気にするような質じゃないのは分かっているが、敢えてその指摘はしなかった。

「えー。代表挨拶の子に見惚れてたくせに」

 佐伯がニタニタとウザい笑顔を向けてくる。

「そういうんじゃない」

「じゃあ、知ってる子?」

「知らん。眠たくてボーっとしてたんだ」

 面倒なので、適当な嘘を吐く。

「あら、そう」


「そう言えば、去年の代表って誰か覚えてるか?」

 これ以上からかわれるのも尺なので、話題を変えてしまう。

「去年?」

「そう。俺たちが入学した時」

「誰だったかなぁ。確か女の子だったのは覚えてるんだけど」

「俺もそんな気がする。でも、ピンと来ないよな。同学年って言っても、6クラスもあれば分かんないわ」

「そうそう。というか、入学したての頃なんて、右も左も分かってなかったと言うか、目の前のことに精一杯だったと言うかで、何も覚えてないよね」

「分かる」


 佐伯の言う通りだと思った。

 小学校から中学校に上がるのと比べて、中学から高校に上がるのは、大人に近付いたせいか、顔見知りが少ないせいか、身が引き締まるような思いだった気がする。


「あ、思い出した」

「いや、思い出せたのかよ。すげぇな。」

「私、去年一緒のクラスだった」

「佐伯と同じクラスってことは、3組?」

「そう」

「じゃあ、俺知らないわ」

「名前は雪村さん。下の名前までは覚えてないけど」

「え、もしかして、雪村響子?」

「そうそう! ていうか、なんで知ってるの?」

「同じクラスにいるから」

「今4組なんだ? って、まさかクラスメイトの名前全員覚えてるの!?」

「いやいや。その雪村っての、隣の席なんだわ」

「あぁ、なるほどね。ストーカーかと思った」

「なんで、そうなるんだよ」

「いや、なんとなく。マキマキならありえそうな話だと」

「お前、ふざけるなよ」

 目を細めて、佐伯を見下ろした。

「あはは。冗談、冗談」

 佐伯は、俺をからかって楽しそうに微笑んだ。




 入学式が明けた次の日。

 俺は、隣の席にいる雪村響子が気になっていた。

 佐伯との他愛もない会話に出てきた、数いる同級生の中の一人。

 そのたった一人が偶然隣の席に座っている。

 運命的なものを感じた――。なんて、思っているつもりはない。

 そんなちょっとしたことで運命を感じられるほど、俺の頭は空っぽじゃない。


 それにしても、雪村ってけっこう可愛いんじゃないか?


 現国教師が「山月記」の朗読をしている中、俺は教科書を覗きこみつつ、隣の席に座る雪村に視線を向けた。

 教科書に目を落としている雪村の横顔は、黒髪ロングのストレートに隠れてよく見えずにいた。

 窓から入り込んだ日射しを受けて艶めく黒髪は、素人目で見ても、大事に手入れをしているのが分かる。

 こと学校においては、髪型や髪色の制限がある以上、同じ条件下に晒されてしまい、髪の手入れ一つとっても、比較対象となり得る。気を使っているか否かなどは、見ようとしなくても、見え透いてしまうのだ。

 生まれ持った特性という部分も関与しているとは思うが、雪村響子の髪艶はクラスメイトや同級生と比べてとても美しく見えた。

 まぁ、ただ単に色眼鏡なのかも。

 俺はきっと、雪村を「女の子」として初めて意識してしまったのだ。


 それに追い打ちをかけるように、雪村響子は、男が好きな女性の仕草ランキング№1(俺が勝手に思っているだけ)であるアレをしたのだ。

 そう、髪を耳にかける仕草だ。

 あぁ。やばい。その仕草は俺に効く。


 髪をかき上げることによって、白い素肌と、形の良い小さな耳が露となり、やや丸みを帯びた小顔が文字通り、顔を出した。

 横顔美人なんて言葉があるが、その言葉は彼女を見て作られたのではないかと思うほどに、綺麗だった。

 長い黒髪が邪魔をしているというと聞こえは悪いけれど、隠しているのは勿体ないと感じてしまった。

 いや、逆に考えるんだ。その美しい横顔を、今俺だけが見ることができている。つまりは、雪村の横顔を独り占めしているという状況。これは俺だけに許された「特権」というヤツだ。

 ならば、存分に堪能させて頂くことにしよう。

 いや別に、めちゃくちゃ見たいってわけじゃないけど、席が隣なんだから、(嫌じゃないけど)嫌でも視界に入ってしまうんだから、仕方ないよな。うん。

 これは俺の意志じゃない、不可抗力っていうヤツだ。そういうことにしよう。

 

 この後、何度も視線を奪われてしまって、今日一日の授業は全く身に入って来なかった。

 それからの毎日、学校に行く楽しみが隣の席の雪村響子という存在になったのは、言うまでもないだろう。

 


「おはよう」


 一限が始まるまでの間、教室内で何度も飛び交う挨拶。

 今まで、一度も返事を返したことはなかった。というか、自分にその言葉を掛けられたことがないのだから、返しようもない。

 一年間で形勢されたコミュニティの枠の中で、挨拶を交わしあっている以上、俺が「おはよう」と返すことはない。

 ただ、今日だけは違った。

 英語の予習課題に手をつけようと、机に教科書とノートを広げようとした時だった。

「おはよう」

 言うが早いが、肩をポンポンと叩かれた。


「ふぁ?」

 思わず変な声が出た。

 見上げるとそこには、女の子が立っていた。

「おはよう」

 笑顔というか、むしろ硬い表情で俺を見ていたのは、雪村響子だった。

「おはよう」

 唖然としている俺を見かねたのか、もう一度雪村は言った。

「お、はよう」

 圧倒されてしまった俺は、おそらくノミの心音ほどの小さな声で挨拶を返したと思う。

 雪村はそのまま何も言わず、席に着いてしまった。

 何が起きたのか理解できないまま、固まっていると、始業のチャイムが鳴った。


 あの、雪村響子が俺に声を掛けてきただと!?

 隣の席と言えど、同じクラスになって一週間、全く言葉を交わしたことがないというのに一体何故だ!?

 意味が分からない。

 何か意図があるのだろうか。肩を叩くことでわざわざ注意を惹いてまで、俺に挨拶をしてきたんだぞ。

 いや、そんなことよりも、最低過ぎる。周藤真樹、お前最低過ぎるぞ。

 もっと、愛想良くできないのか? ただ返事するだけで終わらずに、気の利いた言葉ではなくでも、何か上乗せして会話を続ける気概を見せろよ。

 相手側がこちらに歩み寄ってくれたのに対して、お前はなんて不敬なんだ。

 

 雪村が声を掛けてきた瞬間、あまりにもイレギュラーな出来事過ぎて、脳のキャパシティを越えた結果、思考回路がショートしてしまったのだ。

 開き直りかもしれないが、逆にあの場面で冷静に言葉を交わすことなんて誰ができるんだ!?

 少なくとも俺はそうじゃない。

 サンプルが自分だけしかないことには目を瞑って、とりあえず自分を責めることはやめにしよう。

 折り合いをつけたところで、一限の授業がまともに頭に入って来ることはなかった。

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