陛下、急いてしまう
「大丈夫か、マリーヤ」
「あ、ありがとうございます、バルドさん……」
倒れたマリーヤは幸いにも怪我らしい怪我はしていないようだ。
しかし、彼女は差し出された手を取ろうとせず立ち上がろうともしない。
肩が振るえていた。今まさに殺されかけたのだ、恐ろしさで身が竦むのは当然のことだ。
「なんでこんなところに……」
腰を降ろし目線を合わせるバルドの問いに、彼女は唇を震わせながら答える。
「ここに来れば……兄さんのこと、なにか分かるかもと思って……」
サクラ亭を飛び出してから、彼女はその足でここへとやって来たのだろう。
よく彼女を見れば、服や靴の端々には山道を登ってきた土や泥がついている。バルドであっても息を切らす急な山の道をどんな思いで登ってきたのかが伺えた気がした。
「マリーヤ、そこまでして君は――」
「どうしてなんです……?」
彼女はすがりつくように、バルドに尋ねる。
「どうしてジェダ兄さんが死ななければならなかったのですか……どうして、どうして……ッ!」
彼女が震えていたのは、突然の襲撃で命を脅かされたではなかった。
自分の命よりも、兄のことを。たとえ命が狙われようと、兄の死の真相を知りたい。そう願っていたからだ。
(先の連中、行きずりの犯行などではない。明らかにマリーヤを狙っていた……)
なぜ彼女が狙われるのか。それも、あれほどの剣捌きを見せた相当腕の立つ者達によって。手がかりがあるとするのなら、それは彼らが欲していたジェダからの手紙だろう。
「マリーヤ……お兄さんから送られてきたよいう手紙には何が書かれていたんだ?」
「ぐすっ……手紙、ですか…………いいえ、特に変わったことは」
「本当か? 普段とは違うようなことは書かれていなかったか? なにか隠しているのなら」
「バルドさん……」
涙声のマリーヤが困ったように尋ねる。
「バルドさん……どうしてそのようなことをお尋ねになるのですか?」
涙に潤む彼女の瞳を前にバルドは迷った。
(伝えるべきか、それとも……)
マリーヤは自分のこと以上に兄のことを知りたがっている。ならば少しでも彼に関することならば、伝えるべきなのではないのか。
だがこの考えはなんの根拠もないただの想像。彼女を余計に混乱させるだけかもしれない。
迷った。時間にすれば一瞬に満たない間だったろう。
それでも迷った、迷いに迷った。
バルドの頭の中で考えが目まぐるしく巡り続ける。
だが――彼女の涙には敵わなかった。
「マリーヤ……よく聞いて欲しい」
「はい……」
バルドは彼女の目を真っ直ぐ見て、バルドは話し出す。
「これはなんの確証のないことなのだが…………君の兄ジェダは――反乱に関与していた疑いがある」
「そんな……まさかっ!」
やはりと言うべきか、顔面を蒼白にして驚きを露わにするマリーヤ。
バルドはずっと考えていた。
密輸した武器を押収した第一師団。
そこに所属していたマリーヤの兄、ジェダ。
そのジェダが殺され、そして、妹であるマリーヤもジェダから受け取った手紙を理由に、謎の集団に殺されかけた。
ジェダが殺された背景には、なにかしらの陰謀が見え隠れしている。そして――
「サクラ亭に来ていたジェダという者の話なのだが……女将さん曰く、皇帝の政を批判するようなことをよく漏らしていたらしく、少々過激なことも口にしていたそうだ」
もし、女将さんの情報が確かならば、彼には帝国に反旗を翻す動機があったと言えるだろう。それを理由に、彼は消されたのではないか。
「………………」
「もちろん、今の話はなんの証拠もない。だが、君が狙われたことといい、お兄さんはなんらかの関わりが――」
瞬間、響き渡る乾いた音。
一瞬何が起きたのか。バルドにも理解ができなかった。
「……ッ」
僅かな間を置いて頬に熱さと痛みがやってくる。
そこでようやく、マリーヤの手で頬を叩かれたことに気づいた。
「いい加減にしてください! 兄さんのことも知らず、勝手なことを言わないで!?」
マリーヤの丁寧な口調ながら荒らげた声が、静かな山間に響き渡る。
「兄は、魔獣との大戦を終結させ、人々を導いてきた皇帝陛下のことをいつも尊敬していました。いつかあの御方のためにと、この力を尽くす。それが兄の口癖だったんです」
「………………」
「ジェダ兄さんが帝国に、皇帝陛下に反乱を起こすなんてあり得ません、絶対に! 女将さんの話を聞いて確信しました……兄は、兄は……ッ!!」
彼女は一人で立ち上がり、再び駆け出す。
一人走り去るマリーヤをバルドは止めることが出来なかった。ただ彼女の背を眺め見送ることしかできない。
いまだ痛みを訴える頬を抑えながら、バルドはボソッと呟く。
「………………急いたかな」
「残念ながら」
バルドの傍にクロエが音もなく現れていた。
逃げ出した謎の集団を追っていたようだが、どうやら見失ったらしい。
「私もバルド様と考えは同じです。そのジェダという兵士、事件となんらかの関与があることはまず間違いないことでしょう。ですが……」
「ああ……そうだな」
必ずしも真実が人を救うとは限らない。時にそれは人を傷つける刃にもなる。
そもそも、ジェダが反乱を企てていたのかもまだ分かっていないのだ。
バルドの完全な勇み足であった。
「だがな……あんなにも兄のことを知りたがる姿を見ているとな……」
「そう思うのであればなおのこと。事実を明らかにするべきかと」
「そうだな」
バルドは考えを改め、再び立ち上がる。
頬の痛みを噛みしめながら、再び手をかざし《シャドウ・トレース》を発動。
手の平から広がった魔力のドームの中で、再び影が生まれようとする。
しかし――
「……おかしい。痕跡がない……?」
ドーム状に広がった範囲の中で、先程のバルド達の戦闘以外に影が浮かび上がってこない。
先程山を登っていた一団の影も無ければ、報告書にあった激しい乱戦の様子も出て来ない。
クロエの報告通りとはいえ、あまりに奇妙だった。
「…………小屋の中にもない」
改めて小屋の中を見てみても、やはり戦闘の形跡はなかった。
いや、それどころか賊達が生活していた様子すらも浮かび上がらない。
さすがにこれは不自然である。
「やはり、ここで戦闘は行われなかった……? いや報告書の内容そのものが偽りということか? だとするのなら、山道で見たあの一団は一体……」
「バルド様」
振り返ると、クロエが小屋の外を指差していた。
そこは《シャドウ・トレース》の範囲ギリギリにある林。そこに痕跡の影が浮かび上がっているのが、僅かに見えたのだ。
「行ってみよう」
二人は小屋から、その影の下へと駆け寄っていく。
「ん? ここは……」
その時バルドが気づいた。
そこは先程、足を止めた討伐部隊から別れた一人が、山道から外れた林へと登っていった先なのだ。
なぜか嫌な予感がした。
バルドは、木々と斜面に足を取られぬようゆっくりと足を進めていく。
そして、僅かに開けた場所に出た時――それは現れた。
「ッ!?」
「これは……バルド様!?」
目撃したその光景に、二人は驚きを隠せなかった。
そこでは珍しく、影がハッキリと姿を作り出していたのだ。
十人近い男達。彼等は各々手に武器を取り、円となっている。山道を進んでいた隊列の者達だ。
その円の中心には、一人の人物がいた。山道から外れ林に入っていった者だ。
彼は他の者達と大きく違う点がある。
「………………」
無言の男の影は、その場で膝をついていた。
全身には無数の刺し傷と切り傷、そして致命傷と分かる大量の血が足元に血だまりを作っている。
背丈は膝をついてクロエと同等。立ち上がればバルドよりも背は高く、さっぱりとしていた短髪の髪は土と泥にまみれ、無残な装いだ。
「この者だ……」
そしてなにより、物言わぬその影の彫像がその目で訴えていた――無念を語る儚さを。
「この者が、ジェダだ……」
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