陛下、クロエに背中を流される


「……クロエ」


 湯船から上がり、洗い場用の椅子に座らせられたバルドが尋ねる。


「なんでしょうか?」


 クロエは何事もないように返事を返してきた。

 バルドは今、裸の体にタオル一枚腰に巻いただけの姿である。そんな状態で背後でクロエがメイド服の袖をまくったり、湯船のお湯を桶で救う音を聞いていれば、心臓が高鳴りもする。


「ほ、ほんとにするのか……?」

「陛下は私に従者として生きよと命じられました。ですからこうして側を離れずに仕えている次第」

「いや……余はお前にそういうことを頼むために側に置いているわけではなくてだな」

「理解しております。あくまでもこれは陛下の護衛のためお側に仕えているだけのこと。ですから『せっかくですので』と申しました」


 いまだに妃を迎えていないバルドにとって、女性経験どころか異性に体を洗ってもらうなど経験のないこと。

 しかも相手はあのクロエなのだ。普段から身の回りの世話をしてくれて、時には共に戦うこともある。そんな彼女が相手となると、少々どころではない気恥ずかしさが全身を駆け巡る。


「お嫌でしょうか?」

「いや、そんなことは……」


 さすがにそう言われては、バルドも断るわけにもいかなかった。

 なにより、下手をすれば彼女を傷つけかねない。彼女の変化を否定するようなことにもなりかねないのだ。


「はあ……」


 これも彼女の変化のうち。そう受け入れてバルドも覚悟を決めた。


「分かった……気の済むようにすればいい」

「では、かけ湯からいきます」

「ん」


 ザバァン、と豪快な音と共にバルドの肩に熱い湯が流されていく。自分でかけるのとは違う不思議な感覚だった。

 

「それでは、お背中失礼致します」


 クロエが、泡立てた手ぬぐいで背中を洗っていく。

 強くもなく、弱くもない。背中を縦にこすっていく感覚は少しこそばゆいくらいのちょうどいい力加減で、むしろ気持ちよくすらあった。

 しかし、その手が不自然に止まってしまう。


「どうした、クロエ?」

「あ、いえ……」


 彼女には珍しく、言葉に詰まっているようだった。


「なんだ、またアイスでもついているのか?」

「いえ、そうではなく……お背中に見とれてしまいました」

「余の背中に?」

「大戦時のやんちゃだった陛下のお話を聞いて、それこそ入れ墨の一つでも入っているものかと思っていたのですが……」


 ふと、クロエの小さな手が背中に触れてくる。

 お湯や泡とは違う、人肌のやんわりとした暖かさが背に伝わってきた。


「入れ墨などない、大きくたくましい――傷のない綺麗な背中だな、と」

「ああ、そうだな」


 バルドは思わず笑顔が溢れた。

 

「余も大戦の時にはいくつも傷をつけたものだが、ほとんどは魔法で直してもらってな。もっとも、余が回復系の魔法を使えなかったからなんだが」

「そうでございましたか」

「だが背中だけは違う。背中に傷を負ったことは一度としてない」

「一度も?」

 

 ああ、バルドは頷く。


「背中は、皆が守ってくれたからな」


 バルドに仕える騎士や兵士達。そして多くの民達。

 彼等が、最も先頭で戦ってきたバルドの背中を支え守ってくれた。

 傷のないこの背中は、バルドにとって最も大きな誇りである。


「だからこそ余は、誰よりも前に立ち、皆を守ってきた。それは今も変わらぬつもりだ」

「そうでございましたね」

「クロエ、お前の方はどうなんだ?」


 バルドが背中越しに尋ねると、クロエは不思議そうに返事をした。


「どう、とは?」

「先日の放火事件以来、お前も少し変わったような気がするぞ」


 少なくとも、こんなことを進んでするような子ではなかったはずだ。

 そんなクロエの返事は、いつもと変わらなかった。


「周囲の環境も日々のお役目も、なにも変わってはいないことは陛下もご存じのはずです」


 いつものように淡々と。特に変わったことなどないとも言いたげのように無愛想なまでに彼女は告げる。しかし――

 

「ですが、少しだけ……」

「?」

「そう、少しだけ……生きることと言いますか、幸せというものについて考えることが増えた……のかも、しれません」


 それはやはり、クロエらしからぬ曖昧な答えだっただろう。

 しかし、そんな答えをバルドはとても嬉しかった。


「なあクロエ」

「なんでしょうか?」

 

 今、幸せか? そう尋ねようとして、バルドはやめた。

 その聞き方では、恐らく今の彼女は困るだけだろう。そう思えたのだ。

 だから、バルドは尋ね方を変えた。


「生きていて、良かったと思うか?」


 バルドの質問に対するクロエの返答は、曖昧なものだった。


「分かりません……」


 だが、そこで彼女の言葉は途切れなかった。


「ですが………」


 辿々しくも続く言葉は、やはりクロエらしからぬ返答だった。


「そう思える日々は、きっと素晴らしいものだと思えます」


 あくまでも淡々とした口調ではあった。

 しかし――


「ああ。そうだな」


 バルドの口から微笑みを溢させるには十分なものだった。

 再び背中を洗っていくクロエの表情は、バルドには分からない。この返答も、いつものように表情を変えず言ったことには間違いないだろう。 

 しかし、その心の奥底は決して冷たいものではなく、温かな何かが生まれつつあることをバルドも背中越しに感じ取っていた。


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