第二話 絶影のクロエ

陛下、執務に邁進す

 執務室は早朝からせわしなかった。 

 バルドの座る大きな机には書類が山のように積まれ、そのなかに埋もれるように若き皇帝は書類整理をしている。

 バルドは決して仕事をさぼっていたわけではない、むしろいつも以上に積極的に執務に邁進しているほどだ。

 城下でのポーションの件から一ヶ月。ずっとこの調子である。


「陛下、ここのところいつも以上に政務に積極的でございますな」


 しゃがれた声の爺に尋ねられ、目線を変えず書類を整理するバルドは一言。


「そうか?」

「ここ最近の政務に勤しまれる陛下に、普段とは違う迫力を感じてメイド達から、執務室の掃除も切り出せないと申しております」

「そうであったか。これで執務室から追放されず済みそうだ」


 書類の山の中、バルドはわずかに微笑みを見せる。

 先日の偽ポーションの件を経て、バルドはより一層アリエスト帝国のために政務に力をいれていた。

 それも全ては、アカネ達のような悲しむ者を作らぬために。

 

「先日のポーション事件、被害者への対応も見事なものでございます」


 バルドはポーションの被害に遭った者の対応として、バイヤーへの借金の帳消しはもちろん、売られてしまった家族の捜索と救出。そして被害にあった病人が無償で医療を受けられるよう手配を回していた。

 もちろんその中にはアカネの祖父も含まれている。あの御仁も今は病院に入院し、容態も回復に向かっているとのことだ。


「今のところはつつがなく進んでおるのですが……」


 一見明るい話題に思えた矢先、爺の顔が険しくなっていく。

 バルドも急な変化が気になり、書類から顔を上げ爺に尋ねる。


「どうした、なにか問題があったか?」

「畏れながら。実は、予算の件がどうにも……」


 アリエスト帝国がいかに強大な国であっても、財源が無限にあるわけではない。

 突発的なことに対応するための予備予算は常に用意はあるが、それも決して潤沢とは言い難い。


「金か……」


 見過ごすことのできない問題に、バルドも悩むように唸る。


「一部の者とはいえ、医療の無償提供による国庫への負担は大きいようで……せめて無償ではなく、安価での提供に訂正されてはいかがでしょうか?」

「それはならん」


 穏やかながらも力強い声が執務室に響き、皇帝の鋭い目線が爺に向けられる。


「彼等の被害は、元をただせば役人の不正によるもの。いわば帝国の、余の失態だ。その失態の責任をなぜ被害者達に背負わせねばならぬ」

「……おっしゃる通りでございます」


 そう頷く爺であったが、皺だらけの渋い顔は晴れぬままだ。


「ご立派なお考えなのは重々承知しておりますが、しかしながら現実問題、予算が足りないのも事実。一体どうなさりますか?」

「ふむ……」


 バルドは少し思案巡らせる。

 すると、机に積まれた書類の山から数枚の報告書を取り出した。


「……再開発の件、あまり進んでいないようだな」


 アリエスト帝国のお膝元である城下は、城を中心に大きく三つの区画に別れる。

 海に面した西区は港を利用した交易と商業の中心。

 南区には一般市民の住む住宅街。

 貴族や騎士の屋敷、兵士達の宿舎や詰め所に公共機関がある東区など。

 区画分けされているといっても、各区画には商店もあれば、西区や東区に一般市民が住んでいる場所もある。この再開発計画の目的の一つは、区画をより画一させようとすることにもある。


「立ち退きに反対している住民がかなり多いようで」

「そのようだな……」


 大戦からの復興を急いだあまり、街には元難民達のスラム化した地区もある。そうした地区を新たに整備することが一番の目的なのだが、当の住民達の反対が根強いと、報告書は告げているのだ。

 それ故か、若き皇帝が悩むのは僅かな時間であった。


「それなら仕方あるまい――今回は見送るとしよう」


 復興からまだ十年。部下からの提言で許可は出したものの、バルド自身は再開発には時期尚早と思うところもあった。まして進捗がよくないともなれば、必要性に疑問も残る。となれば、予算を遊ばせておく余裕はなかった。

 

「交渉が難航すれば、立ち退き料も馬鹿になるまい。強引に事を進めても、人々に受け入れられない国策では意味がない、その余った予算を今回の件に回してくれ」

「かしこまりました。では、再開発の件は凍結ということで」


 爺の言葉をそのまま了承するかと思いきや、バルドの首は意外にも横へと振られた。


「ここで案を凍結しては文官達が委縮し、今後似たような案を提言しづらくなるだろう。そうなっては政も凝り固まり、柔軟な発想が出来なくなってしまう」

「なるほど、確かに」

「再開発の件はあくまでも規模と予算を縮小に留める。交渉もゆっくり地道に進めさせるように指示を出してくれ」

「さすがは陛下。見事な手腕でございます」


 爺の称賛を受けながらも、バルドは再び書類へと目を向け、指示を受けた文官達がせわしなく執務室を行き来していく。

 そうこうしているうちに、書類仕事も一段落。バルドもようやく一休みを挟むこととした。


「どうぞ」


 淡々とした口調で、いつもバルドの世話をしているメイドがタイミングよくお茶を運んでくる。

 ほのかな柑橘の香りは執務で疲れたバルドの脳に安らぎを与えてくれた。


「なあ、爺」

「なんでございましょう?」


 椅子に腰を預け、紅茶を口にし休憩をする若き皇帝。

 しかし、彼の考えることは変わりなかった。


「なにか、巷を騒がせるような問題はないか?」


 それを聞いた途端、爺が顔を真っ赤にして顔を荒らげる。


「まさか……また城下に行かれるおつもりですか!」

「いや、あれは散歩のようなもので……ほら、つまり気分転換だよ」

「あれほどダメだと仰ったではありませんか!」

「分かっている分かっている」


 バルドは爺の小言から逃げるように席を立ち、背丈の何倍もある窓から外の様子を眺める。


「だがな、まだこの国は完全な平穏が訪れたとは言い難い」


 窓から望む城下は今日も賑やかな様子が目に入ってくる。

 しかし、窓に映る若き皇帝の顔は決して微笑ましいものとは言えなかった。


「先日のポーションの件もそうだ。余の臣下が不正をし、人々を苦しめていたなどと……」

「…………確かに、恥ずべき事でございました」

「……………………」

「しかしながら陛下、あえて申し上げます。それは考えすぎでございます」


 バルドは、爺へと振り返る。


「人が人である以上、そういった悪がなくなることはありますまい。ましてそれを一から全て、陛下御自らが正していては、陛下といえどお体が持ちますまい」

「……………………」

「陛下がそうして悪を許さぬ姿勢を示していることこそが、この国の犯罪を防ぐ一番の抑止力となりましょう」

「ああ、そうだな……その通りだ。それは分かってはいる」

 

 分かってはいるのだが、バルドはやはり動かぬ訳にはいかなかった。


「陛下、やはり根を詰めすぎでございます」


 そんなバルドの様子を心配してか、爺が心配そうに尋ねてくる。


「そうかな……」

「ええ、そうでございます。やはりここは妃を迎え、お子を成すことが」

「その話はいい」

「左様でございますか……ならせめて、お休みでもお取りくださいませ」


 爺の一言に、バルドの頭の上でなにかが灯った。


「休み…………そうか、休みか」

「ええ」

「しかしな、余は皇帝だ。帝国を預かる身が休みなど取ってよいものか……」

「何をおっしゃいます。皇帝陛下と言えど人に変わりません。人であるならば時には休み、気分を入れ替えることも大切なことでございます」

「然り、爺の言うとおりだ」

「ありがとうございます」


 うんうんと、バルドの表情も明るくなり、爺も思わず笑顔が零れる。


「確かに休むことは――気分転換は大事だな」

「ええええ。その通りでござい…………んん?」


 爺はなにやら怪訝な表情を浮かべていた。

 まるで、なにかを忘れているかのような……。


 数時間後――


 バルドは爺の言葉を体現するように、再び城から姿を消した。

 爺の血圧が再び上がったのは、それとはまた別な話である。


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