陛下は昔を懐かしむ

 当時のバルドは皇帝ですらなかった。

 まだ十三にも満たない皇太子で、なにより子供であったのだ。

 その幼さ故の勇ましさと勢いだけで戦場へ飛び込み、目の前に立ち塞がる魔獣達と戦う。

 人々はそんなバルドを英雄と讃え、彼の後ろに人々が続き魔獣と戦い続けていた。


「それは、ある戦いでのことだった。味方からの救援要請を受け、余は周囲の制止も聞かず単身飛び出した」


 襲われている味方を助け、魔獣と戦い倒す。

 それは戦場ではよくある出来事――そのはずだった。


「いつもと違ったのは、彼らを助けた後だった」


 味方の救援に駆けつけ、共に戦い敵を倒し尽くした。

 おかげで味方は全滅を免れたが、バルド含め誰もが心身共に疲れ果てていた。

 そんな時に現れたのだ――敵の増援が。

 それも並の数ではない。空と大地を埋め尽くす程の大軍。

 その時になって、ようやくこれが敵の罠だということにバルドも気がついた。

 見渡す限りを無数の魔獣が埋め尽くし、僅かに残った味方も体力も気力も残っていない。みな圧倒的な敵を前にして怯え、完全に戦意を失ってしまったのだ。


「そしてそれは、恥ずかしながら余もそうであったのだ」


 いかに勇猛果敢といえど、当時は十三にも満たないただのガキ。目の前に広がる光景に彼は――そう、絶望してしまったのである。

 体力も魔力ももはやほとんど残っていない。だが目の前には無数にも近い敵。


「すぐにでも逃げ出したかった。人々が慕い、付き従ってきた自分が逃げ出せばどうなるかなど理解していたが、それでも……無理だと思った」


 あの瞬間、確かに心が砕かれた。

 勢いだけで走ってきたガキの心など簡単に折れてしまったのだ。


「そう。まさにその時だったよ」


 恐怖に怯え震える体が、逃げ出そうと振り返りかけた時。

 少し離れた場所に目が留まった。

 まともな装備もなく、使い古した剣を持った初老の男性。風貌からして騎士や兵士ではない義勇兵の者。その者と目が合ったのだ。

 そう、アカネの祖父である。


「その時、なにか会話をしたわけでもない、いや、お互いに喋りもしなかった。ただ目が合っただけ。だがな……」


 その時、義勇兵の者は――微笑んだ。

 なにも言葉にせず、ただ僅かにバルドへと微笑みかけただけ。

 擦り傷と泥だらけの顔で、ここが戦場だと忘れてしまうような優しい笑顔で。

 彼は無言で伝えてきたのだ。『ここは我らにお任せください』と。


「ハッとさせられたよ」


 怖かった、逃げ出したかった。

 だがそれは自分だけではない。仲間達も同様の想いだったはず。

 それなのに自分は――皆を置いて逃げ出そうとした。


「あの時ほど、自分のしようとしたことを恥じたことはない……だが、そんな想いすらも、あの御仁は笑顔で受け止めてくれたのだ」


 何も言葉にせず、まるで許しを与える様に笑顔を向け続けてくれた。


「その微笑みを見ていたらな、自らの立場というものを思い知らされた」


 人々の前に立ち、自ら道を切り開いて光を見せてきた。

 彼らを救うために立ち上がったそんな自分が、仲間を救わず、ただ一人逃げ出して、それで胸を張れるのか? 堂々と生きていると言えるのか?

 助けるべき人々を助けるどころか、彼らを犠牲にして助かろうなどなんと恥知らずなことか。

 生き残りたい――そう願うのならならば生きてみせよ。彼等を救い、共にこの窮地を乗り越えて。

 生きた屍となり果てるよりも、死しして活き活きと胸を張れ。

 それこそが――我、バルドロメオの生き方だ!


「まるで魔法のようだった。ぽっきりと折れた心が御仁の笑顔支えられ、力と勇気を取り戻させてくれたのだ」


 力の無くした手を握り、震える足で踏ん張り、声を張り上げた。

 怯えすくむ騎士や兵達を奮い立たせ、そして壊滅寸前の味方を立ち直らせたのだ。

 体力も魔力も尽き果てた。もはや残るは気力のみ。

 バルド達は、決死の思いで戦い、戦場を駆け抜けた。

 そして――窮地を脱することが出来たのだ。


「あの時のことがなければ、今のこの平和もあったかどうか……」

「その、陛下は…………ずっと覚えていらっしゃったのですか?」


 アカネの言葉に、バルドは遠く夜空を見上げる。

 遠く光る星光は、今も昔も変わらない。星空の下、若き皇帝はしみじみ語る。


「あの微笑みを、一体誰が忘れられようか……」


 彼は騎士ではない。まして兵士でもないただの勇気を出した一般人。

 だがあの絶望的な状況のなかで、バルドですら恐怖に打ちのめされたなかで、何者にも怯えず微笑むことの出来た彼は紛れもない――真の強者であった。


「戦いの後、何度もあの御仁のことを探したが、戦いや復興の混乱で消息は掴めなくてな……それがまさかあのような場で出会うとは。思ってもいなかったよ」


 見上げていた顔を降ろし、改めてアカネと目線を合わせる。


「アカネよ」

「はっ、はは」


 そして彼女の手を取り、まるで願う様に言った。


「あの時そなたの祖父が助けてくれた礼、遅れてしまったが今こそ返させてほしい。お前達、二人に」

「陛下……」


 彼女をまっすぐに見るバルドが優しく微笑む。


「今まで、よく頑張ってきたな」


 優しく語る若き皇帝の言葉。

 その一言が、アカネの目から涙をこぼさせる。


「……ッ陛下、ありがとうございます、陛下……ッ!」


 止めどなく流れ続けていくその涙。

 バルドは、あえてそれを止めさせようとはしなかった。

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