陛下、暴れた後に
静かだった。
つい先程までの喧噪が嘘のように、屋敷を夜の静寂が包んでいる。
「……………………」
呆然としていた。
気持ちの悪い男爵に体も心も嬲られる直前だったはず。それがどういうわけか、思いもしない人物の登場に驚かされ、そして切った張ったの大立ち回り。
ついには、先ほどまで息巻いていた男爵とバイヤー達は倒れ、そのまま動かない。
呆然としていた。それ以外、アカネに出来ることはなかったのだ。
「………………な、なにこれ……」
あまりに一瞬のことだった。
その人はまるで風のように現れ、烈火の如く剣を振るい、そして今は水面のように静かに佇んでいる。
目の前で起きたことは一言では言い表せない。
ただただ、驚かされただけ。
目の前で起きたことにも、そして――その人の正体にも。
「大丈夫か、アカネ」
彼は中庭から部屋へと上がり、アカネの前に膝を卸す。そして懐から短剣を抜くと、縛り上げていた縄を手慣れたように切っていく。
束縛から解放され自由になったからか、ただ目の前で優しく微笑みかけてくれたからか、その人の優しさに心がホッとなった。
緊張や悔しさ、その他諸々が入り交じっていた心が緩んでいく。
そして助けてくれたその恩人に、慣れ親しむようにその名を――
「ば、バルドの旦……っ!!」
言いかけて咄嗟に口をつぐんだ。
そこにいるのは、馴染みがあって頼りがいのあるただの青年などではない。
「ご、ごご、ご無礼いたしました……皇帝陛下!」
咄嗟にひれ伏し、頭を下げる。
彼の正体は貧乏騎士の三男坊などでない。この世界の英雄にして、アリエスト帝国を治める最も権威ある人物。
バルドロメオ・ヴァルドリア・アリエスト陛下――その人なのだ。
恐怖と緊張から安堵したかと思えば、そこからまたも一転。全身から冷や汗が滝のように流れ落ちていく。
(わ、ワタシは……なんてことを……ッ!)
よくよく思い返せば、なんと無礼なことをしてきたのか。
皇帝陛下とは知らず、歳にそぐわぬ風貌を茶化し。
皇帝の前で、下っ端の兵すら御せぬ大したことのない奴などと批判したり。
さらには照れ隠しとはいえ、畏れ多くも陛下の肩を叩いてしまった。
それも何回も、バシバシとかなりの強さで。
(お、終わった…………絶対、処刑台行きだ……)
これほどまでの無礼、たとえここで助けられたとしても許されるわけがない。
このまま断罪されてもおかしくない程だ。
(ゴメン、じっちゃん……)
冷や汗がダラダラと流れ続けるなか、畏れ多く上げることのできない頭上から、まさに天の如き声が降ってくる。
「アカネよ、もうよい」
「へ……?」
「そう気にせず、頭を上げてくれ」
それはまさに慈悲の言葉。
渋く真っ直ぐな声が驚くまでに優しく、アカネも心が救われる思いであった。
彼女は恐る恐るゆっくりと、下げていた顔と体を上げていく。
「へ、陛下……」
「ああ、それでい……あ、いや……」
若い皇帝は、なぜかうろたえていた。
顔を赤面させ、アカネから背を向ける。
「アカネ、さすがにそれは……余でも反応に困る」
「えっ……?」
「その…………胸は、隠してくれ」
アカネの胸元は、男爵に破られたまま。
そのたため彼女の豊満な胸は、バルドの前に見事に曝け出されていた。
「あっ、し、失礼しました!」
アカネは慌てて破れた箇所を腕で隠し、切れ端を縛り付けていく。
「お、お見苦しいものを……」
「そ、そんなことは……いや、なんでもない」
皇帝陛下のどこか初心な反応に、アカネも思わず笑いそうになってしまう。
そう、ここにいるのは確かに皇帝陛下だ。だが同時に、あの日出会った優しくて気のいいバルドの旦那でもある。
どこか嬉しくなる気持ちを抑えていると、周囲の様子が改めて目に入ってきた。
男爵やバイヤー、そしてそれに付き従っていた傭兵達がそこら中に倒れている。
(これをたった一人で……)
アカネにも多少は戦いの心得はある。それでもこれほどの数を一度に相手にした経験などない。しかも誰一人逃すことなく、その全てを倒しているのだ。
さすがは陛下。そう感服していた時だ。
「うっ……ぅぅ……」
倒れた者の中から、僅かな呻き声が聞こえた。
(えっ……死んで、ない……?)
この惨状の中生きている人間がいたことに、アカネは驚かされた。
彼だけではなかった、よく見れば倒れている者達の多くは意識はなくとも息はある。そもそもこの屋敷に血はほとんど流れていないのだ。
しかし、その理由もすぐに納得できた。
(いや、そうだ……こんな薄汚い奴らの血で、陛下の剣を汚すわけには……)
天下の大英雄たるバルドロメオ陛下の剣。その剣は迫る魔獣を倒し、この世界を守るために振るわれてきた由緒正しきもの。あの連中のような小悪党など斬るにも値しないのだ。
この世界で魔法を使えるものは少ない。そんな魔法の中には、一時的に刃をなくすことが出来る魔法もあると聞く。この世界で唯一、六つの属性を扱える皇帝陛下なら、それくらいできてもおかしくないのであろう。
(あれほどの戦いの中で、そこまで……やはり陛下はすごい御方だ!)
その時、アカネがハッと気づく。
「そうだ……じっちゃん、じっちゃんが!」
連れ去られた時の祖父を急に思い出し、アカネが慌てふためきはじめる。
そんな彼女にバルドが努めて落ち着いて話す。
「大丈夫だ。既に医者へと運んで、静かに眠っている」
「そっか……それは、よかった…………本当に、よかった……」
ホッと胸をなで下ろすアカネ。
その姿を見て、バルドからも笑みがこぼれた。
「お前達は本当に互いを大切に思っているのだな」
「え? ああ、いえ、その……」
「ここに来る前、余がアカネの家を訪ねた時もそうだった。おじいさんは自分のことよりもお前の事を案じていたよ」
「じっちゃん……」
「あの者は、変わらぬな」
どこか遠くを見つめながらバルドが呟く。
まるで懐かしいモノでも見る様なそぶりが、アカネにはなぜか気になった。
「あの、旦……いえ、陛下は祖父のことをご存じなのですか?」
思い返せば、バルドが家に来た時も祖父のことを尋ねてきた。まるであれは、以前から知っているような様子にも思えたのだ。
言葉を選びながら恐る恐る尋ねたアカネに、バルドも快く応えていく。
「ああ。あれは大戦の時の話だ――」
思い出話のようにその時のことを話し出した。
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