御伽怪談第一集・第一話「残念と申す猫」
@KarindObata
第一話「残念と申す猫」
一
時は江戸時代の中頃のこと。番町にひとつの武家屋敷があった。
番町と言えば、
——一枚、二枚……。
お菊さんの皿屋敷で有名な、あの番町である。この町には常に怪談話がつきまとう。
番町について少し語ろう。江戸城西堀のあたりに武家屋敷が建ち並ぶ、ここが番町である。城の警備のため、あるいは、西方浄土からやって来る魔物たちから江戸城を守るため、結界のような役割も担っていた。もちろんそれが正式な役割ではなかったが……。
さてここに、番町組頭・石見殿のお屋敷があった。どこにでもありそうな普通の武家屋敷であったが、奇妙なことに、どこか不自然な印象があった。それは縁側につきものの、ある生き物がいないからであろう。もちろん猫のことである。この屋敷では猫を飼うことがなかった。嫌っている訳ではなかった。しかし、祖父の代から申し付けられたことがあり、飼わない家風が染み付いていた。屋敷を鼠が好き勝手に暴れ回わり、
主人の石見源左衛門殿はいつも申していた。
「どんなことがあっても猫だけは飼わぬ」
この時代、特に市中で猫を飼わない家は珍しかった。猫は鼠退治もするが、福を招くために飼う生き物である。一攫千金を夢見て江戸に集まって来た人々にとって、なくてはならない存在であった。
江戸に幕府が開かれて約百年が過ぎ、新天地にサムライが住むようになり、やがて、江戸を目指してたくさんの人々がやって来た。稀に見る大都会の誕生である。
猫も遅れて上方からもたらされ、まだ少なくはあるが、それなりに住み着いていた。もちろんこれは家猫の話である。それまで関東の山里で生きていた野生の山猫たちは、次第に生きる場所を失い……何と言うことか、弱々しい家猫に食べ物を奪われてしまうのである。人は、山猫から食べ物や住む場所を奪い、代わりに家猫を大切にした。その理由は、山猫は人を襲う獣だからである。そんな時代の出来事であった。
あれは、とある春の晴れた日のこと、拙者、
妹にも挨拶して赤子を愛でた後、友とふたりで縁側に座わり、お茶をすすりながら近況など語りあっていた、その時、相変わらず鼠の走る音がした。激しい足音に、桜の花びらも散り去るは感じがした。鼠は大胆な音を立てる割に、なかなか姿を見せない。そう言う卑屈な生き物なのだ。聞き耳を立てると、小鳥の鳴き声ばかりが聞こえて来た。拙者は茶碗を置いてやれやれと言った感じで顔をしかめ、つい、小言をつぶやいた。
「猫をなぜ飼わぬ。赤子の成長にも悪いであろう」
「赤子?
「昔のように一郎と呼び捨てで良いぞ」
「そう言う訳にも行かぬのぉ」
石見殿が笑った。
「いささかの訳がござって……」
そう申しただけで言葉を飲み込んでしまった。これはいつものことである。何度か問い正してはいたが、苦笑いするだけでまともに答えることはなかった。しかし今回は違っていた。やはり子供が産まれると考え方も変わるのであろう。
ニ
ふと、石見殿は庭をながめた。春の陽射しが暖かかった。庭にウグイスの歌が響くと、近所の猫か? ニャアと鳴き声がした。猫は門の外で声をあげるだけで、姿を見せることはなかった。猫には猫の仁義があるのだろう。
またもニャアとの声がすると、石見殿が口を開いた。
「広く語るも浅ましいことだと思い、今まで誰にも語らなんだが……」
その言葉に拙者は身を乗り出した。
石見殿は、静かに話しはじめた。
「すでに身内となったお主にもこの際、少し語っておこう。これは祖父が隠居する前のことでござるが……」
そして、次のような物語を語るのであった。
「
「茂兵爺……」
「あぁ、どことなく、へのへのもへじのごとき顔をした祖父でござった」
「ほほっ、お爺様の物語でござるか?」
「その茂兵爺が若い時分のことであると申すから、神君家康公が江戸に幕府を開いてから、かれこれ数十年ほど経ったある日の出来事だと思ってござれ……」
当時、一匹の三毛猫を屋敷で飼っていた。名をミケと言う。いつの頃からいるのか誰も知らなかった。また、どう言う経緯で飼うことになったのかも、茂兵爺は話してくれなんだ。しかし、彼にとっては大切な家族であると言う。
先祖の功績だけが、この世で唯一の守るべきものであった茂兵爺にとって、ネコごときを家族と考えるのは、かなり珍しい出来事だと思った。一生、
ある春の朝、まだ早い時刻であり、肌寒かった。茂兵爺は縁側に座り、小さな火鉢を使いながら、愛猫のミケを眺めていた。ミケはあくびをして、背中を丸めて眠っていた。屋敷の庭は今とは違い、ずいぶんと殺風景だったと言う。それは茂兵爺の無頓着な性格によるものだろう。おおよそ草木らしきものはなかった。だからと申して枯山水などの趣きもない。ただ土ぼこりの立ち込める庭でしかなかった。前日の雨が溜まりジメジメしているところに、アメンボがスイスイと泳ぎ、幸いにして梅の木が一本、今でも同じ場所に生えている。
さて、縁側の端で、雀が数羽、チュンチュンと餌をついばんでいたと思ってごされ。ミケは雀を見つけると、しっかりと見つめながら目を閉じて耳をそばだて、大きなアクビをした。何もない素振りで背中を伸ばすと、突然、パッと飛びかかったのである。しかし、雀もさるもので、バタバタ羽ばたくと、ミケの顔をしこたま叩いて飛び去ってしまった。ミケはせっかくの獲物を逃してしまい、しかも顔まで叩かれた。その時、悔しそうな顔をして子供のような声で、
「ザンネン……」
と、つぶやいた。
「えっ? まさか猫が?」
聞いていた拙者は思わず口をはさんでしまった。石見殿の話が、自分の常識とあまりにかけ離れていたからである。
石見殿は、残念と言わんばかりの顔をして、
「茂兵爺は……確かに耳にしたそうでござる」
ふたりの間に気不味く
三
茂兵爺は、とっさにミケを取り押さえたが、今この瞬間に、ミケが得体の知れない化け物に変わってゆくのを感じ、すっかり魂消てしまった。
その時、
——猫の声が、人の言葉に聞こえただけかも知れない……。
と強く思いたかったそうである。
だが、錯覚にしろ、そうでなかったにしろ、見過ごす訳にはいかなかった。今の出来事を確かめる必要がある。
幕府は錯覚であっても化け物の存在を許さなかった。もともと江戸は穢れた土地である。得体の知れぬ魑魅魍魎の住む里として知られていた。そこを平定するのは武士としての務めであり、新政府の役割であった。しかし、茂兵爺自体は、化け物がいるなど、夢にも信じてなかったと言う。だから当時は、いつも口癖のように申していたそうである。
「まさか化け物がいるなと、まったく馬鹿馬鹿しい限りでござる」
それを聞いた同僚たちは、
「だが、幕府の正式なご指示でござるぞ」
その言葉には二の句がつげない茂兵爺であった。
拙者は、ふと、感想をもらした。
「そんなものでござるか?」
で、あろうな。話はそれたが……茂兵爺は、あれこれ考えるより先に、とっさにミケに飛び掛かり、力を込めて取り押さえていたそうである。
ミケの体は、意外なほど長く、しなやかだった。某は猫のことは分からぬが、そんな感じがするだろう。
その時、
——これではまるでヘビではないか?
ミケが不気味に舌なめづりをすると、尾の先が獲物を狙うかのように揺れた。
いつの間にか握った火箸の先が、ドクンドクンと小刻みに震えるのを目にして、茂兵爺は覚悟を決め、ゴクリと生唾を飲み込んだ。
「おっ、おのれ……畜類でありながら、人の言葉を発するなど、言語道断」
口から飛び散る唾のしずくが、あたりを濡らしてゆく。
茂兵爺はその時、あることを思ったと申されていた。
――もし、化け猫だとしたら、やがて当家に厄をなすであろう。化け物屋敷と噂されただけで、武家にとっては恥であるのだから……。
先祖の功績も、化け猫を飼う不吉な家柄と噂されただけで、すべて失うかも知れなかった。あるいは猫が人の言葉を話したなどと
――聞き違いであって欲しい。
そう願いながら、茂兵爺はミケとの思い出をかみしめ、目から涙が流れた。様々な思い出が心の中を行き来した。だが、感傷に浸ってばかりもいられない。やがて覚悟を決め……火箸を構え、ゴクリと生唾を飲んだ。
覚悟が伝わったものか、その時、ミケがまた声を出した。
「オ助ケヲ、物ヲ申スナドゴザンセン……」
これはまったくの人の言葉であった。一言一言がハッキリと聞き取れたそうである。猫が人を真似た鳴き声や、あるいは聞き違えるような曖昧なものなどではなかった。
この時、茂兵爺もミケも、そのままアッと叫んで互いに顔を見合わせた。しばらく互いに動けなかった。
四
人も、そうではないものも、あまりに非常識な体験をすると、体が固まるものか、動くことを忘れると言う。茂兵爺も、ましてやこの猫も、例外ではなかった。ふたり……と申すなら……とも動けなかった。
化け物が目の前に現れた時、人は驚き過ぎて動けなくなるものである。これは化け物の方にも言えることで、向こうは向こうで、やはり動けないと言う。もしかすると化け物とは、人の心の動きを写したものでしかないのかも知れない。人の心が動かなければ、化け物自体も自由を失う。
しばらく茂兵爺は動けなかった。そして、どのくらいの時間が過ぎたであろう? ふと、庭から遠く富士山が見えた。美しかった。茂兵爺は、思わずふうっとため息をついた。
その瞬間のことである。
にわかに茂兵爺の手がゆるんだ。ミケの野生の感覚はそれを逃さなかった。飛び上がって逃げ出すと、二度と屋敷に帰って来なかったと言う。
このことがあってからと言うもの、茂兵爺が、
「当家では、今後、猫を飼うことを禁ずと言い伝え、それが家風となった……」
石見殿が話を終えてお茶をすすると、少し照れくさそうな顔をした。庭から見る富士山やはりが美しかった。
石見殿が井戸を見つめながらつぶやいた。
「それから
拙者は深くため息をついた。まさか、飼っていた大切な猫が〈化け物〉だったなどとは思いもよらなかったのである。
だが、ふと心の中で、
——ここは番町、この町になら、あるかも知れない。
と思い、皿屋敷の台詞を思い出していた。ちょうどその時、井戸の端が目に止まった。使ってもいないのに少し濡れた井戸を見ると……まさか、ここではないにしろ、いかにも幽霊でも出そうな雰囲気を感じ……背筋に寒いものが走った。
その時、石見殿がつぶやいた。
「やれやれ、いないと思っていた化け物を、屋敷に飼っていたとはな……とため息をつく茂兵爺の目が、とても悲しげだったのを、今でもハッキリと覚えてござる」『耳嚢』より。
本来、言葉を話す猫は生き物ではなく妖魔の一種である。人に紛れて野良猫として暮らすと言う。
江戸では、上方から流れついた家ネコの中に紛れ込んで暮らしている。
彼ら妖魔の猫たちは、人が見る夢の世界で生まれ、現実世界に移動して、本物の猫に憑依するとも言われている。ここでは妖魔と書いたが、取り立てて危険な魔物ではない。むしろ関東に元々いた猫鬼の方が、厄介で危険な存在である。猫鬼は、人に害をなす。だから駆逐されたのかも知れない。
妖魔としての猫は、別名〈夢の監視人〉と呼ばれている。人が夢の世界に関わろうとする時、監視すると言う。
播磨陰陽道では夢の世界を潜在意識の世界と捉えている。潜在意識は心の奥底で霊的な世界と繋がっている。だから夢の世界の奥底に霊界があると考えている。いわゆる幽霊や化け物も、この夢の世界から人の心を介して現実世界にやって来る。また、この世の霊的なものたちも、人の心を介して霊界へおもむく。それらを監視するのも猫の役割のひとつである。さて、この〈化け猫〉と言う言葉は関西の方言だとも聞く。〈了〉
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