第13話 水掛け論
朝練のあと、いつものように外階段を廻って、図書室のある棟へ向かっていると、複数人の女生徒に囲まれた。その人数は一桁ではない。制服をかなり着崩して(スカートの丈は折って短く、結んでいるのはリボンではなくネクタイ、履いているのはエンブレムのないソックス)いる。野良だ。私はその人数の多さに両手をきゅっとして身構えた。彼女たちは私を取り囲んで、黙ったまま品定めするかのように私を睨みつけている。私は喉のあたりが苦しくなってきて、声を出すことができなかった。
両腕を掴まれ、図書室の向かいの、購買のあるテラスまで引っ張って連れ出された。私はそのままテラスで壁際に追いやられた。
バシャ。ペットボトルに入った水を、複数人に、放り投げるように頭からかけられた。けっこうな量の水で、上半身はずぶ濡れ。制服のスカートの裾から、水が滴り落ちた。
「いい気味」
野良の集団はクスクスと笑い出した。集団心理は怖い。集まればひとりを貶めることは容易い。
私は唖然とし、スカートの裾を握りしめた。野良の集団は、言葉を発しない私の様子を遠巻きに眺めてなおも不敵な笑みを浮かべていた。
「これですっきりした。ちょっと電話で構われたからって、調子乗らないでよね」
そう言うと、野良の集団は去っていった。
私は、ずぶ濡れだけれど、水でよかった、と思った。連れ出された時が不安のピークで、むしろ水をかけられて落ち着きを取り戻していた。
私はスカートの裾を握りしめたまま、しばらく立ち尽くしたあと、無事だった鞄の中からネクタイを取り出した。吉田先輩からもらったものだ。鞄をテラスのベンチに置いて、ネクタイをぎゅっと握りしめて、日向にでた。あたまのなかには「ハネモノ」が流れてきた。私は日向でくるりとまわり、スカートの裾をふわりと翻した。テラスの前に立つ常緑樹と、その先の青空を見上げて、小さくため息をついた。
「弥生!」
声を掛けられて振り向くと、山口くんがテラスの入り口に立っていた。朝練の時は居たのに、予鈴が鳴っても席にあらわれない私を心配して探しに来てくれたのだ。野良に取り囲まれても案外大丈夫と思い込んでいたけれど、予鈴が鳴っても気が付かない程に動揺していた。
山口くんは、私が動揺していることを察すると、聖書の先生に、保健室扱いにして授業を休ませてもらえるよう取り合ってくれた。私は山口くんに、ひとりで大丈夫だから、と言って、テラスの日向で制服を乾かすことにした。
しばらくすると、美園が女生徒をひとり連れて、私の元にやってきた。美園は、聖書の先生に、同じように保健室扱いにするから側についているようにと頼まれてきた、と言った。私は美園の顔を見て、思った以上にほっとしてしまった。
美園と一緒に私の元に来たのは、ナナさんだった。ナナさんは“藤原さんの女”という噂の女生徒で、あまり学校に姿をあらわさないため、私は同じ学年であるにも関わらず初対面だった。
ナナさんは、その場で藤原さんに電話をかけて、藤原さんのバンギャルちゃんが私にした所業を話してくれた。藤原さんは話しかけるのを遠慮し、斎藤宏介さんが代わりに謝ってくれた。私は謝られてもなんて答えたらいいのかわからなかったが、配慮が足りなかった俺たちのせいだから、と言われて、悲しくなってしまった。昨日は本当に楽しくお喋りできたのに、と呟くと、俺たちも同じ気持ちだよ、と斎藤宏介さんが優しく言ってくれた。
それから私が制服をテラスの日向で乾かすあいだ、美園とナナさんは一緒に居てくれた。私はあたまのなかに流れるSpitzの唄を時折ハミングしながらスカートの裾を翻し、美園とナナさんはそんな私の姿を眺めながら、ベンチに並んですわって、ふたりで仲良さそうにお喋りしていた。
私たち三人は、三人で居ることに、奇妙に居心地が良かった。話しが盛り上がるわけではないけれど、波長が合うのだった。理由を一生懸命考えて、ひとつの考えに辿り着いた時には、私たちは静かに目を合わせて微笑み合ってしまった。私は、相変わらず吉田先輩を想っているけれど、それ以上に草野正宗さんに恋焦がれていた。美園は聖書の先生と親密だった。ナナさんは、何よりも藤原がいちばん!と大きな声で教えてくれた。ナナさんは、操を立てるっていうのよ、と言い、これだって立派な乙女の誓いよ、と続けた。
ナナさんは三人の中でいちばんお喋りだった。自分がどれだけ藤原さんのことを想っているのかを、飽きもせず、ずっと話していた。美園はにこにこしながら相槌を打っている。私はナナさんの話しを聞いて、思わず、
「椎名林檎みたい」
と言った。美園は不思議そうな顔をして私を見た。
「『歌舞伎町の女王』だって言うの?」
ナナさんは悲しげな声でそう言った。藤原さんのバンギャルちゃんから、いつもそう言われて馬鹿にされている、と嘆いた。確かにナナさんは、男を知っている、という風情がし、制服があまりに似合わなかった。でもナナさんは、藤原が英和の制服が大好きだから大切に着ているの、と言った。私はナナさんの制服に違和感を感じて、大切に?と思わず訊いた。ナナさんは、藤原のためにわざと金のボタンを外しているの、と自慢げに言った。私には金ボタンを外して着ることの意味することがわからなかったが、美園はそれを聞いて頷いていた。
「『ここでキスして』っていう曲知ってる?」
私は「歌舞伎町の女王」と言われて嘆く、ナナさんに訊いてみた。
「ううん、知らない」
と言われて、私は驚いて思わず、えー!と大きな声を出してしまった。ナナさんみたいな子の歌だよと言って、小さな声で、でも明るく響くように歌ってあげた。
『歌、うめえな』
電話越しの藤原さんの声だった。ナナさんが電話を繋げっぱなしにしていたのだ。
私はまだ電話が繋がっていたことに気が付かなくて、恥ずかしさに頬を上気させた。
『藤くんに褒められるなんて羨ましいな。弥生ちゃんさ、文化祭で、俺と一緒のステージに立とうか。その方が俺たちも受け入れられやすいかもしれないし、バンギャルちゃん対策になるかもしれない』
斎藤宏介さんが勢い込んで言った。
『実は野球部OBを説得するのに、いきなり講堂のアコースティックライブに外部の人間を巻きこむのはどうかって説得するのに手間取っていたんだ。弥生ちゃんが俺たち側に立ってくれたらいいのにな。どうかな?』
と斎藤宏介さんが続けて訊いた。私は何と答えたらいいのかわからなかったけれど、一曲だけ、野球部員のために歌いたいと思う歌が思い浮かんだ。
「お申し出はありがたいんですけれど、どうしたらいいのか」
と私は言った。
『とにかくこれに懲りずに俺たちの味方でいてよ』
と斎藤宏介さんが言った。私は返事ができずに小さくため息をついた。私の代わりにナナさんが
「私がなるべく様子を見ておくようにするから」
と言った。
『おまえ、「幸福論」唄ってみろ。俺の好きな歌だ』
藤原さんが言った。私は戸惑いながらも小さな声でそれを口ずさんだ。
ナナさんは、「ここでキスして」も「幸福論」も気に入ってくれたようだった。椎名林檎にもこんないい歌があるんだ、と嬉しそうだ。私は椎名林檎さんが好きなので、椎名林檎さんを好きになってくれる女の子が増えるのはとても嬉しい。美園は涙ぐんでしまった。私は、美園に何かいい歌ないかな、と一生懸命考えた。ちょっと深呼吸して青空を見上げたら、またSpitzが流れてきた。私はより一層明るく優しく響くように、口ずさんだ。
ナナさんは、私いつもキスしてって思ってる!と大きな声で感想を言ってくれた。美園は涙ぐんでしまった。私は、美園に何かいい歌ないかな、と一生懸命考えた。ちょっと深呼吸して青空を見上げたら、またSpitzが流れてきた。私はより一層明るく優しく響くように、口ずさんだ。
「君が思い出になる前に~」
美園は、ほんとに弥生は草野さんが好きだね、と笑顔を見せてくれた。私はその姿を見てほっとし、我に返った。吉田先輩のネクタイを握りしめたままだったことに気が付いた。吉田先輩のネクタイは皺が入ってしまっていた。
「着けてみたら?」
美園が微笑んでそう言った。私は頷いて自分のリボンを外し、吉田先輩のネクタイを結んだ。ちょっと照れくさかったけれど、美園に、可愛いよ、と言われて嬉しい気持ちになった。
私が水を掛けられた事件は、職員室で問題になっていた。藤原さんのバンギャルちゃんの所業だと広く知れ渡ってしまった。藤原さんの出禁を解いて文化祭を乗っ取るという秘密組織の野望は、白紙に撤回されてしまった。
その日の午前中は、そうしてテラスで3人で過ごした。こんなに授業を休んでしまったのははじめてだった。
昼休み、場所を移してひとりで重みの残るスカートの裾を乾かしていると、翔之介がやってきた。翔之介はいきなり私の胸元のリボンを外すと、私に自分のネクタイを結んだ。私はちょっと驚いて目を丸くして翔之介を見つけた。頬がほんのり上気していくのがわかった。
「翔之介・・・ふふ」
私は思わず笑ってしまった。凄く、心配してくれてたのが伝わってきた。
私に笑われてしまった翔之介は、階段に座り込んで頭を抱えた。
「野良に、狙い撃ちにされたって聞いて、生きた心地がしなかったぜ」
翔之介がわざと、わざとらしい言い方をして、照れ隠しをした。
「ずっと着けててよ」
翔之介はぶっきらぼうに呟いた。私は翔之介の隣にそっと腰をおろして、ありがとう、と小さく言った。
翔之介が頭を抱えて恥ずかしがっているあいだ、私は誰もいないグラウンドを眺めた。ふたりでしばらくそうしていた。
「翔之介、ネクタイ、ほどいてもいい?」
私は、思い付いて、翔之介に訊いた。
「いや、ほどかないで」
翔之介がため息まじりの声を出した。
「シュシュにできるかもしれない」
翔之介はやっと顔をあげてこっちを見てくれた。
せっかく翔之介が自分のネクタイを結んでくれたのは嬉しかったけれど、私は制服を着崩すのはためらわれた。でも、ネクタイを結んでくれた翔之介の気持ちを大切にしたかった。ネクタイをほどいて、シュシュに縫い直してしまえば、いつでも身に着けていられる。この分量の生地ならば、フリルたっぷりのシュシュに仕上げることができるだろう。翔之介は、シュシュってなにさ、と不満げな声を出したので、私は鞄から、美園にあげたのと同じ、紺色のリボン付きのシュシュを取り出して、翔之介の左腕に着けてあげた。
「これかあ」
翔之介が可笑しそうに言った。
「翔之介には吉田先輩のネクタイをあげるね。今日も私の側に居てくれたお守りだよ」
私は、鞄から吉田先輩のネクタイを取り出して、翔之介に結んであげた。翔之介は、エースのピッチャーのか、俺も登板すっかと、笑顔を見せてくれた。
「ネクタイからできんの?」
「もちろん、針仕事は任せて!」
私たちは揃って機嫌よく顔を綻ばせた。朝の憂鬱は、爽やかな風に溶けて消えた。
午後は、教室に戻った。私は授業そっちのけで、ネクタイをほどいてシュシュにする、という手仕事に励んだ。ネクタイの生地は、さすがにしっかりとした生地で、針を通すのに苦労したけれど、その分、ひと針ひと針丁寧に縫い上げることができた。シュシュを作った残りの余った生地で小さなリボンを作り、髪ゴムに縫い付けた。完成したシュシュとリボンゴムは腕時計と一緒に左腕にはめた。
部活の前に、セミナーハウスに寄り、翔之介に見せると、それ本当にネクタイ?と言って大袈裟に驚かれた。これならネクタイしなくてもいつでも一緒だよ、と言うと、翔之介は照れた顔をして、私のあたまをぽん、として撫でた。
私が水を掛けられた事件は、職員室で問題になっていた。当事者の野良たちが藤原さんのバンギャルちゃんだということが広く知れ渡ってしまった。聖書の先生はゆるすには時間がかかると言って、文化祭ライブ全面禁止令を発令した。これにはバンギャルちゃんたちは驚き、反省と反対の声があがった。しかし、聖書の先生の決意は固く、一年間の懺悔を要求し、来年の文化祭で誠意をみせるようにバンギャルちゃんたちに説いて聞かせた。
せっかく藤原さんの出禁を解いて、文化祭を乗っ取るという秘密組織の野望と、アコースティックライブを講堂でという野球部のアコースティック隊の希望は、職員室事情によって、白紙に撤回されてしまった。
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