獣達の挽歌 Chapter.4

 はたして、夜神冴子は──そして、闇の地に息づく者達は──気付いているのであろうか?

 闇空に鎮座する支配者が、これから起きる余興に嬉々と忌まわしき単眼を歪めている事に……。




 魔窟と続く夜闇の街路を、悠然と踏み歩む二対の女影。

 黒月こくげつが放つ淡白あわじろい輪光は、決意の勇姿を神々しくも演出した。

 血獣の悪意に招かれた晩餐ばんさんきゃく──〈怪物抹殺者モンスタースレイヤー・夜神冴子〉と〈憑霊ひょうれい獣姫じゅうき・ラリィガ〉の勇姿を。

 進み拓くは〈牙爪獣群ユニヴァルグ〉が拠点ニューヨークシティ・マンハッタン──。

 各行政区ボロウ自体は背高い防壁に囲われているので、魔気〈ダークエーテル〉の泥濘でいねいは無い。

 とはいえ、さすがに〈ニューヨーク〉そのものを囲う事までは叶わぬ。各行政区ボロウ間では〈ダークエーテル〉が蔓延まんえんし、ともすれば〈デッド〉も我が物顔で徘徊はいかいしていた。

 本番前の疲弊も馬鹿馬鹿しいので、暴走車で牽き弾いて来たが……。

 ともあれ、そうした経緯からマンハッタン内には魔気も〈デッド〉もいない。

 待っているのは〈野獣街サファリパーク〉だ。

 それも、血塗られし動物園である……。

 やがてオフィス街へと差し掛かると、きらめく文明の残り香が徐々に息吹の数を増してきた。

 蒼暗さに呑まれる人工の渓谷けいこくは、それでもそびえるビル群や街路灯が煌々こうこうと抵抗を輝かせる。時として、旧暦異物の看板ネオンもガヤに賑わすのだから酔狂なものだ。

 天空こそ〈黒月こくげつ〉支配下の闇ではあるが、下界は〈獣妃ベート〉支配の栄華であった。

 ものの見事に虚栄と閑寂が混在している。

「……面白くないわね」

 辺りの気配を盗み見て、冴子は不快を噛んだ。

 両側に連なるオフィスビルの岸壁は、威圧を強いながらも虚無的であった。

 はたして、内部が如何いかなる役割に変貌しているかは汲み取れぬ。

 いな、もしかしたら〈終末の日アンゴルモア・ハザード〉以降は放置されたままの廃墟やもしれぬ。

 だが……。

「潜んでいる」

「ああ、獣人共か?」

「ええ」

「そいつは、アタシも感じてた」

 屋内に身を潜めながらも、窓越しから奇異の視線は注がれていた。

 それも無数に……四方八方からだ。

 完全に包囲網と陣取られている。

 頭数の優勢に溺れた獣眼。

 まるでコンクリートジャングルのサファリパークだ。

 にもかかわらず──。

「──襲って来ない」

 潜む気配は底が知れない。

 どれだけの獣が襲い来るかは判らない。

 もちろん、襲われればブチ殺す!

 片っ端から!

 されど現実問題、膨大な物量ぶつりょうしに対して、どこまで抗えるかは不明だ。

 ラリィガが強力としても限界はある。

 装填用弾層マガジンにも限界はある。

 十中八九、焼石に水──潮時を見計らって退却するのが関の山だろう。

 仮に全野獣を撃ち殺したとしても、こちらの疲弊は計り知れない。

 そうなれば、その後に待ち構える〈エンパイア・ステートビル戦〉など喰われに出向くだけだ。

 そう考えれば、この不可解さは幸運と捉えるべきなのであろう。

 だからこそ、焦燥に苛立いらだつ。

 それだけの圧倒的有利を、みすみす放棄する──その裏に敷いた画策は、いったい如何いかなるものなのであろうか?

「何を企んでいる……〈ベート〉!」

 未だまみえぬ〝ドス黒い獣〟に、さすがの〈怪物抹殺者モンスタースレイヤー〉も不安をころすのであった。




 指定された目的地へと着いた。

 眼前にそびえる巨大ビルが放つのは、圧倒的な君臨感。

「デカいな」

 闇空につながっているかのごとき威風を仰ぎ、ラリィガは率直な感嘆をこぼした。

「此処が〈エンパイア・ステートビル〉──旧暦時代からニューヨークのシンボリックスポットとして機能していた超高層ビルよ。そもそも旧暦での存在意義は〈国外貿易センター〉だった」

「へぇ?」

「ま、このビルを特別視に格上げしたのは『モノクロ時代のゴリラ映画』だけどね」

「何だ? それ?」

 朴訥ぼくとつに向けられた罪無き無知に、冴子は肩をすくめて苦笑にがわらう。

 闇暦あんれき時代に生きる小娘が知るはずも無い。

「どちらにせよ闇暦あんれきでは〝獣の巣窟〟……さながら〝魔獣の牙〟ってトコかしら?」

「〈牙爪獣群アイツら〉には打ってつけ……か?」

 二人して直下そそりつ突先を見上げる。

「それにしても……」

「何?」

「いえ……こんな物・・・・は据えられてなかったはずだけどなぁ?」

 冴子がいだく違和感は、正面入口の上部に構えた巨大モニターである。

 知る限り──少なくとも旧暦には──存在しなかった。

「美容商品の広告でも流そうってのかしら?」

 蜂女をネタにした皮肉を浮かべた直後、周辺一帯からサーチライトの照射!

 にえたる娘達を焦点と浮かび上がらせる!

「クッ?」

 突然の露光差に目が眩むも、最悪の事態に身構えた!

「ゥオオオオオオオオォォォォォォーーーーーーッ!」

 地鳴りかと思えるほどの歓声が囲う!

 どうやら最悪の予測が的中した!

 周囲のビルから姿を見せたのは、無数の獣人達!

 窓から身を乗り出しているものもいる!

 屋上からのぞんでいるものもいる!

 そして、ゾロゾロと街路へ歩み出て来るものもいる!

「やっぱり……罠!」

 歯噛みににらえる冴子!

「さすがに数は多い……か」

 背中を預けるラリィガ!

 絶体絶命の抗戦を覚悟した直後──『鎮まれ』──件の巨大モニターから静かなる威圧が発せられた。

 途端とたん、猛りは水を打つ。

 振り返り観れば、画面に映るは、長く豊かな髪を波打たせる女性のシルエット……。

 それ・・何者・・なのか──夜神冴子は当然のように察した。

 いな、察するに充分であろう。

 その声音に秘められた絶対的な支配力に、これだけの獣共けものどもが慄然とおとなしくなるのだから!

「……〈ベート〉!」

 完全な黒に染まる妖影からは、その容姿詳細を視認する事は叶わない。

 さりながら、冴子は感受する──コイツ・・・は優越酔いに笑っている・・・・・と!

『よく臆せずに来たな……〈怪物抹殺者モンスタースレイヤー・夜神冴子〉よ』

「ハッ! 強制に呼んでおいて、よく言うわよ!」

『フフフッ……報告にあった通りにきがいい』

「……報告・・?」

 怪訝けげんが浮かぶ。

 が?

 まさか〈クイーンズ区長〉であろうか?

 だとすれば……撃ち殺しておくべきだった。

『で? そちらが〝ダコタの小娘〟か?』

「よぉ」

 相変わらず気負いも無く応えるラリィガ。

随分ずいぶんと手を焼かせてくれたものよな……原住民の小娘が』

白人ワシチュー土地・・を奪われるのは、旧暦だけで充分だからな」

『……それで?』

「オマエをブッ潰しに来た」

『フフフッ……大きく出たものよ』

「まぁな」

「ジュリザは無事なんでしょうね」

 れた冴子が割って入る。

『無論だ、夜神冴子。賞品・・は公正に与えられなければ面白くない……〈ゲーム・・・〉というものは』

「ゲーム?」

『これより、貴様達には最上階を目指してもらう。賞品ジュリザは、そこに用意・・しよう』

「最上階……って何階だよ?」

 ピンと来ないままたずねるラリィガへ、辟易へきえきとした抑揚で冴子が答えた。

「……一〇二階」

「はぁ? 何だってんだ、まどろっこしい!」

「そうよ! さっさと出て来なさい! 一対一サシで撃ち殺してあげるから!」

 緊迫の場にそぐわないかしましい挑発。

 あまりの無礼さに、一匹の外野が憤慨ふんがいを吠えた!

「貴様! 我等が〈牙爪獣群ユニヴァルグ盟主〉に何というくちを──ガハッ!」

 耳障みみざわりを無作為に撃ち殺す。

「おい、冴子? 無駄弾・・・を撃つなよ? これから決戦だってのに……」

「分かってるつーの! コッチだって貴重な弾数減らしたくないわよ!」

 囲う殺気がチリチリと伝染していく。

 一触即発!

 が──『フン……次は、どいつ・・・だ? きょうごうという愚か者は?』──盟主ベートが発する静かな威圧が、またも獣達の円陣を後退にひらかせる。

 なればこそ〈怪物抹殺者モンスタースレイヤー〉もまた、忌々しく歯噛みするのであった──その絶大な支配力に!

『さて、夜神冴子よ? ビル内には、歓迎の罠を仕掛けてある。それらを攻略して昇り詰めれば、貴様の勝ち……ジュリザは、おとなしく返してやろう』

「で? クリア出来なかったら?」

『そこが貴様の墓標だ』

「ふぅん? 獣相手に『死亡遊戯』って? ……乗ってやろうじゃない!」

 不屈の負けん気が吼えた!

 それを見ればこそ〈獣妃ベート〉は喜悦をふくむのだ。

『クックックッ……それでこそ〈怪物抹殺者モンスタースレイヤー〉……殺し甲斐がある』

「……言ってろ」

 不敵に醒めて口角こうかくを上げる。

「あ、そうそう。ところで、市長・・さん?」

『何だ?』

「……教会、孤児、八人」

『…………』

「…………」

『……フッ、それで・・・?』

「……へぇ?」

 静かなひと納得なっとくはらむと、冴子は関心薄く本題へと戻す。

「エレベーターやエスカレーターは使っていいのよね? 脚、浮腫むくみたくないわ」

『好きにせよ。ビル内の設備は自由に使って構わん』

「そりゃどーも」

 肩のちからを抜いた鼻歌が、楽観の足取りに歩み出した。

 遊歩の先は、地獄門。

 潜り入るは、畜生界。

 そのかたわらへと続き、ラリィガは抑えた声に忠告する。

アイツ・・・、絶対的な自信に見下してるぜ? アタシらが相手になるなんて、露ほども思ってない感じだ」

「百も承知よ」

「……意外だな?」

「何がよ?」

「いや、思いの外に冷静だからさ……。冴子の事だから、途中でキレるかと思ってた──『ナメてんじゃないわよ!』って」

 素直な感心に、冴子の温和な微笑ほほえみがニッコリと答えた。

「とっくにキレてる・・・・★」

「……ああ、やっぱりな」

 相変わらずの大人気なさに、ラリィガは先の感心を軽く後悔するのであった。

(いざとなったら、アタシがブレーキ役か……アタシも感情的な方だけど、冴子コイツたいがい・・・・だな)

 諦めの嘆息たんそく

 しかし、冴子には冴子で〝キレるに値する理由〟がある。

(あの女、笑って・・・いやがった)

 沸々とした怒りを噛み殺す。

 定番の謎掛なぞかけに〈ベート〉は「それで・・・?」と答えた──「それが・・・?」ではない。

 その差は〝質問の意味を承知している可能性〟を示唆している。

 無論、可能性の域ではあるが……。

 しんば、予想ドンピシャとしても〈盟主〉ともあろう者が野良のらまがいの軽率な行動を取るとは思えない。

 が、少なくとも事態・・把握していた・・・・・・

 その上で黙視看過していた。

 るに充分だ。

「せいぜい待っていなさい……眉間をブチ抜かれる瞬間を」

 硝子ガラスしの正面ロビーをにらえる。

 その瞳にたぎらせるのは、はたして正義感か……。

 あるいは、憎悪か…………。

 アニス──。

 アントニオ──。

 八人の子供達────。

 決意に刻むひとりではない。




 一階フロアは寂寥せきりょうとしていた。

 安っぽい不安の演出に照明が消灯されている。

 光源は淡くす月光のみだ。

 その薄暗さは、電飾がにぎわせた外界との対比に淋しい。

 かと言って、退廃したすさみには無い。

 抗菌的なタイルが足下に広がり、数本ものたくましい支柱が要所要所で階層フロアを支える。

 入口いりぐちかたわらには受付用カウンターが無意味に据えられ、少し進めば静かな駆動を息吹くエスカレーター。奥の壁には三基の大型エレベーターが組み込まれていた。

 こうした機能美的な整然は、矍鑠かくしゃくたる厳格さを誇示する。

 要するに使われている・・・・・・というあかしだ。

「さて、と……とりあえず、どうする?」

 辺りを見渡しつつ、気負わぬラリィガが指針を求めた。

 索敵に気配は感じられない。

「昇るわよ」

「それは、そうだけどさ……で? いっそエレベーターで一挙に昇るか?」

させる・・・と思う?」

「……させない・・・・な」

「一番有利な手段だからこそ、一番スルーすべき呼び水……そこ・・には、ありったけの悪意を注いだ罠が潜む」

「エスカレーターは?」

「同じ。楽な手段は甘いえさ。エレベーターほどじゃないにせよ……ね」

「階段……」

「階段は立ち回るに足場が悪いし、登れば登るほど体力消耗が激しい」

「んじゃ、どうすんだよ! アレもダメ、コレもダメって!」

「だよねー★」

 あっけらかんと緊迫感をぐニッコリ笑顔。

 見ている分には飽きないが、命運を共にするには疲れるヤツだ──と、ラリィガは苦虫を噛んだ。

 その時、エレベーターがチンと到着音を鳴らす。

「あら? 来客?」

 皮肉めいておどけるも、冴子に動揺は無い。

 障害は撃ち殺すだけだ。

 重い駆動に扉が開く。

 箱内の鮨詰すしづめ状態から解放されたのは……多数の死人達であった!

「デッド?」

 ゆらりと歩み出て来る喰人屍しかばねむれ

 その動作は愚鈍ながらも、捕食本能は確実に獲物・・へと足取りを定める。

 その数、目算で一〇体弱!

 やがて間合いが詰まれば俊敏に襲い来る!

「チッ! やってくれるわね!」

 腹立たしさを噛み、冴子は〈ルナコート〉を身構えた!

 連携に臨戦体勢を構えたラリィガが吠える!

「何で〈デッド〉が領域内にいるんだよ! 入れさせないための防壁だろう!」

持ち込んだ・・・・・のよ」

「はぁ? 何のために?」

「こっちの疲弊・・ために……」狡猾さを睨み据える。「ベートだって、こんな物・・・・仕止しとめられるなんて思ってやしない。だけど、一山ひとやまいくらの雑魚ザコとはいえ〝捨て石〟として充分使える」

「質より量の消耗戦……って? められたもんだな! アタシ達も!」

「とは言え、厄介な策を張ってくれるわよ……」

 完全に裏をかかれた。

 〈デッド・・・防壁外にいる・・・・・・という先入観に!

 正直、敵ではない……が、残弾は浪費する。

 では〈戌守いぬもりさま〉は?

 いな、出来れば温存したい。

 間違いなく〈獣妃ベート〉は観ている・・・・

 こんな序盤で〝切り札〟をさらしたくはない。

 しかし──(背に腹は代えられない……か)──チャキリと照準を額に定める!

「カァァァーーーーッ!」

 死体のスイッチが入った!

 発砲!

 噴き咲いた血花ちばな脳脂のうしが合図となった!

「クァァァ!」

「ギァァァ!」

 押し寄せる喰屍しょくしの黒潮!

 次々と眠っていた狂暴性が覚醒する!

「シュンカマニトゥ!」

 見えぬ獣が地を蹴った!

 不可視の爪が切り裂き、その勢いに足止めのラグを刻んでいく!

 それでも侵攻の勢いが止まる事は無い!

 もとより痛覚も恐怖も欠落した雑兵だ!

 単に物理的ダメージによる衝撃が圧した結果に過ぎない!

 充分だ。

 詰まらぬ間合いに銀弾が穿うがつ!

 百発百中!

 夜神冴子の腕をもってすれば、緩慢な愚鈍を狙い撃つは造作もない。

我に繋がる総てのものよミタクエ・オヤシン!」

 悪夢の芋洗いへと躍り飛び込む憑霊獣化ラリィガ

 鋭き爪の演武が、周囲の首を無選別にはねた!

 頭部を栓と赤きシャンパンが噴き、果てた肉塊が崩れていく!

 次々と死体と還る屍達!

 くして、ようやく茶番の終演が見え始めた……と、新たなエレベーターが到着する!

 またぞろ〈デッド〉が追加された!

「増援?」

 動揺を浮かべながらも、新たな波状攻撃へ備えて装填用弾層マガジンを入れ換える!

 続く第三波の到着──さらに増えた!

「数が多過ぎる!」

「ベートのヤツ……いったい、どんだけの〈デッド〉を持って来やがったんだ!」

 エレベーターは上がる。

 そして、また下る。

 増える。

 劣勢を確定していく悪循環が繰り返された!

(このままじゃジリ貧!)

 焦りを生む。

 確かに〈デッド〉など敵では無い……が、この状況では話は別だ。

 やがては弾数も尽き、疲労に喘ぎ、そして呑まれ裂かれる!

(屋内ってのも裏目に出ているわね……)

 この頭数は屋外・・でこそさばける規模だ。制約が無いために縦横無尽に立ち回れ、尚且なおかつ臨機応変な選択肢も多い──撤退をふくめ。

 だかしかし、屋内という閉鎖空間で無制限に増産されては流されるまま消耗の一途を辿るしかない。

 状況も悪化する。

 事実、ほふった死体は無造作に転がり重なって足場を侵食していた。

 そこに加えて黒波は押し寄せる。

(まるで〝水責め〟ならぬ〝死体責め〟ね……)

 周囲に視線を滑らせて好転のたねを探す。

 正面エレベーターからは勢い止まらぬデッドの増産……。

 エスカレーターは、そのすぐ右手だ。

 辿り着くには突っ込み横切らねばならない。

 賭けとしてはが悪い。

(となると……)

 目に留まるのは、その先──エスカレーターをはさんで更に右へと奥まった位置に据えられた幅広い階段だ。

(大きく右手へ迂回に走れば辿り着ける……か)

 捕食本能の荒波は追ってくるだろう……が、考えようによっては〝逃走〟と〝誘導〟を兼ねる事となる。

 悪くはない。

 双方の足の早さを考慮すれば、いたずらに軌道を描けば距離を引き離せる。

 彼等に〝挟み撃ち〟という発想が無ければ……本能任せの偶発にせよ。

「ラリィガ!」

 アイコンタクトで伝える。

 わずかな一顧いっこで伝わった。

 すぐさま駆ける!

 同時に!

 予想狂わず黒潮は流動を見せた!

 駆ける!

 駆ける!

 駆ける!

 追い付かれはしない!

 が、苦悶めいてうめく背後からの存在圧は、決して気分のいいものではない。

(まるで〈黄泉平坂よもつひらざか〉の再現だわね)

 ふと『日本神話』を想起そうきして、冴子は自虐を口角こうかくに刻んだ。

 冴子もラリィガも俊足である。

 それも、その出自から常人離れした運動神経だ。

 如何いかに俊敏な餓獣と化したとはいえ、根本的に緩慢愚鈍な〈デッド〉が追い付けるはずもない。

 くして、目的の手前まで辿り着く!

「よし!」

 軽い安堵の確信を漏らす冴子。

 後は一目散に駆け登ればいい。

 当然、追っては来るだろうが、死体ヤツらのフラつく体幹では段差も足止めに機能する。

 そう計算した次の瞬間、さすがの冴子もゾッとした!

 階上から投棄に落ちてくるかたまり

 踊り場に転げ落ちたそれ・・は、ユラリと起き上がると盲目的に獲物を求め始めた!

「デッド?」

 一体だけではない!

 それを皮切りに、上の階から次々と転げ落ちて来る!

 あれよあれよと眼前に生まれる屍牙しがうごめき!

 ベートだ!

 こちらの動向を観察し、急遽、階上からの雑兵を配置したに違いない!

 まんまと予期せぬ挟撃きょうげき陣形の真っ只中へとおとしいれられてしまった!

「どうあっても〝疲弊〟と両天秤で狙うつもりらしいわね……こちらが〝手の内〟を披露するのを!」

「どうすんだ! 冴子!」

「クッ! 上等よ……乗ってやろうじゃない!」

 腹をくくった──その直後、突然、頭上からはずれ落ちてくる天井タイル!

 天井裏に張り巡る通気ダクトからのようだ!

 ポッカリと開いた穴から、太く束ねた白綱しろつならされる。

「何コレ? 糸?」

「おい、コッチだ! さっさとつかまれ!」

 見知らぬ男の声が急いた!

 咄嗟とっさに言われるがまましたがう。

 敵か味方かは判らない……が、現状突破になるなら、それでいい!

 仮に罠なら撃ち抜くだけだ!

 スルスルと引き上がる糸束は、そのまま二人を通気ダクトへと呑み込んでいく。

 脚下でわめ耳障みみざわりな狂騒──。

 さながら〝蜘蛛の糸〟に取り残された亡者のごとく────。




 身体さえ伸ばせぬ狭い暗闇で、冴子とラリィガはアドレナリンの高揚を鎮める。

 次第に目が慣れてきた。

「イヒヒ……間一髪だったな?」

 救いの主が気配を浮かび上がらせる。

 スー族伝承の蜘蛛男〈イクトミ〉であった。

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