潜む牙 Chapter.5
「待ちなさい!」
「しつこい!」
逃げ走るラリィガに、追い駆ける冴子!
大公園〈フラッシング・メドウズ・コロナ・パーク〉全体が、追走劇の舞台であった。常闇環境への順応にくすんだ緑が遠慮無く繁り、植林とはいえ森林地帯と呼んでも申し分ない。
時折、ラリィガは整備の行き届いた舗装道も活用した。確固とした地面は蹴り易く、少しは疾走への底上げが期待できたからだ。
が、やはり諦めぬ冴子のしつこさに、すぐさま
もっとも好転は無い。
現状維持の堂々巡りだ。
「こンの~……元・陸上部エースをナメんな!」
「まったく……何なんだ!
区長暗殺は失敗に終わった。
冴子の敵意対象が〝謎の獣人少女〟へと推移したせいで〝三すくみ〟のような抗戦図式が綺麗に出来上がった
その混戦の隙を突いて、クイーンズ区長は緊急警報を鳴らした。たちまち護衛の獣群が右往左往の迎撃体制だ。
湯水のような物量に対して、孤軍と
その結果、襲撃者二名は大窓から飛び逃げた。
そのまま不毛な追走劇を展開する羽目となり、現状へと至る。
ラリィガにしてみれば大誤算であった。
此処は一時撤退するしかない。
そして、冴子にしてみれば……どうでもいい些事だ。
目の前の
爬虫類は、後々に
「待てっての!」
「しつこいっての!」
ひたすらに困惑するラリィガ。
何故、自分が追われる?
何故、そこまで自分を付け狙う?
そして、何よりも……どうしてコイツは、こんなにも
あの奇妙な服装で?
はっきり言って、ラリィガは早い。
広大な大自然に生きてきた彼女は、そんじょそこらの奴等とは比較にならないほどに運動能力が卓越していた。無論、戦闘能力も。
にも関わらず何故、あんな女が自分と互角に張れる? 都会の洗礼に、野性も無くしたような女が?
『よぉ、ラリィガ?』
並走する〝見えない獣〟が声を掛ける。
「シュンカマニトゥ? 何?」
『どうして応戦しねぇ? オマエなら楽勝だろうよ? オマエがやる気なら、オレは
「……
『はぁ?』
「アタシの相手は〈
『……それだけか?』
「それだけだ」
確かに
だが、
中身が〝人間〟である事こそが〝魂の誇り〟だ。
ラリィガは、
その背中に
これが〈ラリィガ〉なのだから。
「クソッ! 撃ってやろうかしら?」
確かに脚でも射抜けば一気に捕らえられるが、あの素早さでは避けられる可能性は高い。何よりも射撃体勢に立ち構えている間に、あれよあれよと走り去るだろう。それほどの俊足だ。
と、奇策を思い付いた。
「あ、そっか。狙わなきゃいいワケね」
走りながら撃てば、照準を定めるタイムロスは無い。
無作為な射撃ならば問題は無いはずだ。
「そんじゃ、も~らい★」
片手持ちの
撃つ! 撃つ! 乱射だ!
「ヘタクソ! 当たるか!」
肩越しの
「うわっ?」
行く手を
緑の
跳び越えようにも、目と鼻の先では間に合わない!
驚き様の急ブレーキ!
そのままつんのめって、
「ぷはっ!」
埋もれる枝葉の
その瞬間、冴子はダイブするかの
「捕まえた!」
そのまま押さえ込むと、馬乗りにマウントを取る!
こういうチャンスはスピード勝負だ!
「クソッ! 放せよ!」
「往生際が悪いわよ! 観念なさい!」
女体の
「え? あなた……ネイティブ?」
「
好かぬ誤認である。
打つ手無しと
「シュンカマニトゥ!」
殺しはしない……が、こうなったからには背中を切り裂かれる程度は覚悟してもらう!
大気を舞う不可視!
その
「え?
身に覚えのある
襲い迫る
だから、彼女も叫ぶのだ!
「
刹那!
互いに巫属対象を護らんと!
虚空に拮抗する闘いは、使役する両者も鋭敏に感じ取っていた。
「まさか〈
ラリィガが驚嘆するのも無理はない。
スー族にとって〝狼の精霊〟は〈シュンカマニトゥ・タンカ/偉大なる精霊の犬〉と呼ばれる存在であり、彼女が使役する〈シュンカマニトゥ〉──
そんな高位獣精を、スー族どころか〈インディアン〉ですらない
「な……何者だ? オマエ? 何で、オマエも〈
「……〈妖怪〉だっつーの」
円周約三十六メートルもの巨球は、間近で見るに威圧感を誘発した。半壊している地球というモチーフは、
ともあれ夜神冴子とラリィガは、公園中央に位置するシンボリックオブジェ〈ユニスフィア〉の台座へと腰掛け、互いの素性を明かし合う流れとなった。
そもそもラリィガに敵意は無かったが、冴子にしてもどうやら的外れな印象を受けたからだ。
何よりも、
ともすれば、目当ての〈獣〉とは思えなかった。
何故なら、この娘の獣化は〈使役〉の
という事は〝理性〟を欠くという事は
「で? ラリィガ……だっけ? あなた〈ネイティブ〉よね?」
「だ~か~ら~! 〈アメリカン・インディアン〉って呼べってば! さっきも言ったろ!」
「……同じじゃん」
「同じじゃないよ! その〈ネイティブアメリカン〉ってのは、
そもそも〈インディアン〉は誤認定着した呼称である。
発端となったのは
とは言えども当人達は、この呼称に愛着と民族的誇りを持っていた。
対して、冴子が言った〈ネイティブアメリカン〉は、比較的後年──旧暦後期ではあるが──に、白人達が誤認払拭の
確かに〈インド人〉ではないのだから〈インディアン〉と呼ぶのは
だから〈
その裏には『
つまり〈インディアン〉という呼称を死語化する事で、その〝存在〟への認識すらも史実の彼方へと忘却させ、不名誉な植民戦争での不正を社会認識から埋没化させる
だから、当の〈アメリカン・インディアン〉達は〝民族の誇り〟と〝歴史の真実〟を
「ま、どっちでもいいけど」
「良くない!」
関心薄く投げ遣りな冴子へ、ラリィガはムキになって抗議を向ける。
「ところで、ラリィガ?」
「何だよ!」
「……教会、孤児、八人」
「は? 何だよ? それ?」
抜き打ち的な鎌掛けに確信を
「やっぱり……また〝ハズレ〟か」
「誰が〝ハズレ〟だーーっ!」
反射的に
言葉の意味は解らぬが、とりあえず自分が軽視された……とだけは思えた。
計らずも吹き抜けとなった大窓から、夜闇の息吹く涼風が鋤いた。
何とか愛用の椅子へと腰掛けたクイーンズ市長は、疼く傷痕に苦悶を洩らす。
「くぅ!」
脂汗ながらに眉根が曇った。
人間形態へと戻ったのは、治癒能力を高める
意外に思われるかもしれないが、この場合は正しい選択であった。
並大抵の攻撃ならば獣人形態の方が治りが早い。だいたいは、ものの
先の戦闘で〈犬神〉の爪痕に対して高速治癒を発揮したのも、そうした強靭な生命力の立証と言える。
この超常的
しかしながら、件の銀弾による
「容赦無く撃ち込んでくれたわね……
右肩……右腕……左腕……両腿の四発…………
夜神冴子は言っていた──「古来より〈銀〉は、月の女神〈アルテミス〉の属性金属。そして〈アルテミス〉は、あらゆる動物に絶対的な
成程、だとすれば回復せぬも道理だ。
夜神冴子の言う通り、あの銀銃は〈神聖〉を帯びているという証拠だ。
ならば、どうするか?
ひとまず〝人間形態〟へと戻り、その支配神聖から除外されれば良い。
しかし、それでも、この傷痕の治癒には、まだまだ掛かるであろう。
根本的に〈獣人〉と〝人間〟では治癒能力に雲泥の差がある。
そして、もうひとつの難点は……痛覚の過敏性も大きく異なるという事だ。蝕む激痛は〈獣化形態〉の比ではない。
「まったく……
淡く伏せた
遠き時間の果てに、元凶たる怨恨を噛み殺す。
最初に殺めた犠牲者を
民俗学者であった父親を……。
「なるほどね……事情は分かった」
謎のインディアン少女から経緯を聞き、冴子はとりあえず納得に至る。
少なくとも〝敵〟ではない。
かといって〝味方〟でもない。
単に〝ターゲット〟ではないと判明しただけだ。
平たく言えば〝部外者〟だ。
どうでもいい……邪魔にさえならなければ。
「アンタは、その〈獣〉っていうのを追ってるのか?」
「まぁね」
ラリィガの質問に、関心薄く答える冴子。
意識逃しに
謀らずも彼方上空の
黄色く淀む単眼と目が合うと、何故だか笑えた。
「それが〝依頼〟だから?」
「まぁね」
覇気無く流す返事。
「ビジネス?」
「まぁね」
右から左。
「……本当は〝子供達を守る
「まぁね」
何か
「そっか。じゃあ今日からオマエ、アタシの〝友達〟な」
「まぁ……んんっ?」
聞き捨てならない親しさに、
「ちょちょちょ……ちょっとォ? いきなり何を言い出した!」
「だって、オマエ〝いいヤツ〟じゃん?」
「はぁ?」
「うん、オマエは〝いいヤツ〟だ。だから、アタシは〝友達〟になる!」
「バカ言わないで! あなた、
「冴子だろ?」
「じゃなくて!」
苦虫顔に詰め寄れば、相手の表情は他意を
その事実を感じ取ると、冴子は深い
ややあって凄むは、一転して攻撃的な低い抑揚。
「後悔するわよ? 私は〈
「何だ? それ? 都会で
「──ぅおい!」
ちょっとだけ
当のインディアン娘はキョトンとしている。
(……考えてみたら、当然か)
聞けば、ラリィガは荒野で
つまりは〝個人〟である。
弱小勢力ですらない。
情報網どころか世界情勢に興味すら持たないはぐれ者が、対立均衡に介入する暗殺者を知るはずもない。
早い話が……この娘は〝田舎者〟だ。
「まったく」こめかみを押さえる。「ともかく! 私は御免
「何でさ? 目的は一緒だろ?」
「一緒じゃない! 私の
「でも、襲ったじゃん? 区長?」
「それは〝揺さぶり〟よ! あの〈獣〉が〈
「同じだよ。結果として喧嘩売ってる。これから追われるよ」
「そん時は、そん時! 仮に襲われても『降りかかる火の粉』程度なら、どうとでも出来る!」
「自信あるんだ?」
「でなきゃ〈
とは
結果はどうあれ、喧嘩を売った以上は固執的に目を付けられる。
誇示した通りに〈刺客〉程度なら返り討ちにする自信はある……が、勢力そのものから敵視に構えられるのは厄介だ。気が休まらない。
その反面、今更ひとつやふたつ〈敵〉が増えても〈
それでも、余計なリスクを負う事は極力
その葛藤に悩んでいた。
決意に後押しをしたのは、か弱くも未熟な涙──。
安い報酬だ。
だから、悔いは無い。
「で、どうだった?」
軽い好奇心が追求してくる。
冴子は「うっ」と、言葉に詰まり、気まずく視線を逃がした。
「……無かった」
「あはははは! 無駄足だったんだ?」
「ううううっさいわね! さっき言ったけど、目的は
負け惜しみではない。
実際には冴子自身も、
とは言え、他者から指摘されると、どうにも
そんな冴子の
「でも、
「はぁ?」
腰掛けていたオブジェ台座から「よっ!」と跳ね下りると、スー族の娘は星光が喘ぐ重い墨空を仰視した。
その横顔は、薫風のような爽やかさを帯びている。
「ニューヨークは
「他の
「まぁ、個人……つまり〝はぐれ〟の可能性もあるけどさ? だけど〈組織〉を徹底的に洗ったワケでもない。組織内の何処かに潜んでる可能性もある」
「可能性は低い……限りなくね」
「何で言える?」
「メリットが少ない。わざわざ境界区を越えるだけのメリットがね。だったら、自分が属する区内で
「でも、そうした奇行の可能性もゼロじゃない」
「ゼロなんて無いわよ。
「なら、洗い潰す価値はあるだろ? 可能性がゼロじゃないなら」
「そ……それは……」
極めて真っ直ぐな正論を前に〈
インディアン娘が示す理屈は〝合理的に真理を導き出す〟という行程に
永らく失念していた教示が心底から呼び起こされる──「足を棒にして探れよ」と。
ともすれば、身を投じる価値はある。骨は折れるが……。
そして〝夜神冴子〟持ち前の
「そこまでして目先の利己を追う──保身的な計算や理性が欠落している? ともすれば、より〝野性〟に帰属している……つまりは、並の〈獣人〉よりも〈獣〉としての性質が強い……仮に一過的だとしても」
「……へぇ?」
黙々と熟考へ溺れる冴子を、ラリィガは興味津々に観察した。
思考の大海原を漕ぐ
それも瞬時にして……だ。
切り換えが早い。
ちょっと面白いヤツだな──そう思った。
「……目的は?」
冴子の呟きが自問自答か意見を求めているのかは判らぬが、ラリィガは軽く助け船を出した。
「シンプル。喰う事。捕食本能。それ自体」
「格好の〝餌場〟を見付けた……ってトコか」
醒めた皮肉に嫌悪を噛み締める冴子。
肩に震えた幼い苦しみ──それが彼女に怒りの炎を
静かに──。
強く────。
「どちらにせよ組織の意向とは無縁な個人的嗜好……。でなきゃ、単独暗躍なんてしない。仮に組織の意向なら、部隊でも送り込んで
「そこは間違いないね。今回の殺戮事件と〈
淡い
思いの外に思慮深い一面を見せ付けられ、冴子は素直な感嘆を自虐に
「……あなた〝刑事〟?」
「向いてる?」
苦笑が交わる。
と、風のざわめきが予感を
それに
「ま、いろいろと煮詰めたいところはあるけどさ。とりあえず──」
「そうね、とりあえず──」
「「──まずは〈
背中合わせに臨戦意識を身構える!
その意思に同調するかの
冴子達を取り囲むように現れたのは、有象無象の〈獣人〉達!
狼──虎──ライオン──熊──豹────雑多な〈獣人〉が、繁みや物陰から姿を現した!
いつの間にか陣形されていた野獣の包囲網!
クイーンズ区役所からの追手であった!
痛みを誤魔化す
酔えはしない。
「まったく」
アナンダは深く
「あんま酒は御勧めしないけどなぁ? 止血に影響するわよ?」
「──ッ!」
不意に聞こえた声に、ゾッと身構える!
先刻の悪夢を
忍び込んでいた!
残骸と瓦礫が無惨な跡形と
深い影の中から、銀銃が鈍い
「夜神……冴子!」
戦慄に腰が浮く!
そして、進み出た〈
「出戻り娘でぇ~す ♪ 」
明るく穏和な
処刑人からの死刑執行証であった。
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