潜む牙 Chapter.3
「ザッと人員ファイルに目は通したけどね」
中庭のベンチへと腰掛ける夜神冴子は、
目の前に在る噴水がサワサワと涼感を奏でるものの、流れ出るのはダークエーテルに汚染された黒水であった。
(まるで墨汁のフォンデュ……)
興醒めとばかりに空を仰ぐ。
夜闇の漆黒は薄墨と
とは言え、超常たる暗黒のヴェールは、やはり生命の源を
その
旧暦には常態であった青空を恋しく想うも、嘆いたところでどうしようもない。
これが
「大人は、それほどいないのね……っていうか、あなたとマザーを含めて六人程度じゃない」
「あの? もしかして、この人員の中に〈獣〉がいる……と?」
隣に座るシスター・ジュリザは、不安と懸念に眉を潜めつつ顔を覗き込んだ。
冴子は淡白な
「知んない。かもしれないし、違うかもしれない。まずは相関図を頭に叩き込んで、あらゆる可能性を考察できるようにしただけ。ま、事前資料よね」
「私は、みなさんをよく知っています! だからこそ言えますが、みなさん〝いい人〟です!」
「だよねぇ? 料理長のオッサンなんか、毎日子供達の成長期を
「……え?」
「用務員の爺さんも、施設の修繕やら、植え込みの手入れやら……老体に鞭打って大変よね。おまけにプライベートな時間を割いて、子供達の玩具を直してやる〝オモチャ病院〟紛いの事まで……」
「……あの? もしかして、みなさんと?」
「ん?
気負わずにさらりと言ってのける。
ジュリザは行動力の早さに感嘆すると同時に、軽く温かみが胸中に芽生えもした。
この女性は〝人間〟を見ている。
人間性を見極めようとして、その上で判断を下そうとしている。
その真摯な姿勢には、少しばかり安心感を覚えた。
そしてまた、
彼女への信用に陰りを帯びていた自分自身を……。
「でしたら、もう御存知でしょう? みなさん良心的な人達です。断じて〈獣〉などでは……」
「だからぁ、あくまでも〝可能性〟だってば」
「それは分かりますが……」
「それに、必ずしも〝自我〟があるとは限らない」
「え?」
「
「呪いに……振り回された」
加害者にして被害者──その表現に、ジュリザの胸中には複雑な心境がざわつく。
シスターとして育む慈愛であった。
さりとも、
そのような情に
幼くして未来を奪われた魂が……。
そう、大罪である。
痛い
「もうひとつ厄介なのは、
「
「ま……ね」
「まるで、体験していたような……」
「…………」
返答は無い。
ただ、砕けた苦笑いに肩を
さりながら、その挙動に〝空しさ〟を感受したのは、はたしてジュリザの気のせいであろうか?
「〈
「え?」
「──いや、この件に関して無関係なのかしら?」
「……だとは思います。このようなうらぶれた場所を襲撃する理由もありませんから」
「……ごもっとも」と、またも淡い苦笑に逃げる。「仮に
「……あまり好ましい表現ではありませんね」
荒む経験から染み付いた職業病であった。
「けれど、これとて動機としては弱い。さっき言った通りに、このニューヨークの状況は〈
冴子の指摘に、ジュリザの眉が不快を噛んだ。
否定する流れに無い。
多くの〈領地〉では〈統治怪物〉の
此処ニューヨークに
相手は〈獣人〉なのだから、当然と言える。
闇暦世界の歪んだ常識であった。
「ええ。月に一度、輸送車
「
「不足分は、
「なるほど……ね」
早い話、近隣敵対領土から〝
それを〝輸入〟などと斜に構えるのだから阿呆らしい。
「ま、そういう内政状況なんだから、わざわざ此処を固執的に襲う必要は無い。
無遠慮に紡がれる
視界の隅に捉えたものの、冴子には関係無い。
それよりも、もうひとつ気になる点がある。
それを
「はぐれ……かな?」
聞き取れないほどの呟き。
見えない答えがグルグルと頭を逡巡する。
ややあって、ミントタブレットを
頭を切り換えた冴子は、別な話題へと推移した。
こちらも押さえておきたい情報だ。
「ねぇ? 実際のトコ、
「拠点は〈マンハッタン〉になります。そこには〈市長〉たる〈
「……〈ベート〉か」
あまり深入りしたくない名前を
「御存知でしたか? 市長の事を……」
「まぁね……その情報は知ってる。で、近隣勢力とは?」
「近隣領地とは入り乱れた小競り合いが続いていますね。現状で、
「ああ……開拓時代に白人達の間で
「ええ。とは言え、圧倒的に優勢なのは〈
「逆に牽制の睨みを効かせる立ち位置……って?」
勢力が強大か
下した〈領地〉を肥やしと吸収して、自軍の戦力や生産力といった底値を
言い替えれば、勝利を繰り返す事で〈勢力〉は
そうした側面から
これには、各区が独立的指令系統に在りながらも、結果として〈
多くは
ところが此処ニューヨークは半独立的な各区が存在しており、それらが独自に群勢を統治──その上で〈
結果として、異なる月並み勢力が結託して大勢力を形成したようなものだ。
そして、それこそが比較的短期間で急成長を
世界中の〈怪物勢力〉が覇権を巡る〈
冴子の知る限りは、イギリス・ロンドンの〈
現状況に
先の見えぬ
「此処の〈区長〉は?」
「クイーンズ区長ですか? 女性区長です。名は〝アナンダ〟と言います」
「ふ~ん? で、どんな
「さあ? そこまでは……。何せ幹部ランク本人は表立って行動しませんから。万事に配下を動かせば良いわけですし……」
「……一番欲しい情報なんだけどね」
ジュリザが立ち去った後も、冴子はベンチから動かなかった。
「女性区長……ねぇ?」
漠然とした思索を眼前の噴水へと投げ掛ける。
返っては来ない。
すぐベンチ脇に在る
弛緩したかのような緩やかな〝気〟からして、たぶん呑気に寝そべっている。
だから、自分で指針を定めるしかなかった。
「手をこまねいていても進展は無い……か」
賭けに出てみるべきか──決意に揺らぐ。
かなり強引
それだけの危険を侵しても、有益な情報を得られるとは限らない。
「おばたん?」
不意に聞こえた舌足らずが、険しい顔を現実へと連れ戻す。
ハッとなって
(出たな!
そうは思いつつも何故だか
「どうしたぁ?
「さーこおばたん ♪ 」
「アハハハハ……
一瞬、ギンッと敵意を込めるも、アントニオは御構いなしにチョコンと頭を美脚へと委ねる。
「ちょ……ちょっとぉ?」
「さーこおばたん ♪ 」
子供らしい甘え。
なつく無邪気さ。
不馴れな状況に戸惑いながらも、何故だか温かい気持ちに癒される。
だから、無垢な頭を撫でてあげていた。
母性を
「アントニオ! あなたは、また……お客さんに迷惑でしょ!」
右手の中庭入口から慌てた声がやって来る。
保護者役のアニスだ。
それを視認した冴子は、穏やかな
「アハハ★ 別にいいのよぉ~?」
社交辞令でもない。
本心だ──
さりともアニスの生真面目さは、なあなあに流す事が出来なかった。
ベンチ前まで来ると、深々と頭を下げて礼儀正しく御詫びを向ける。
「スミマセンでした! 冴子おばさん!」
笑顔がピキッと
マイペースな犬神が、大あくびに溺れる。
冴子の隣には、静と腰掛けるアニス。
どうやら
また少々延長しそうだ──そう思った〈
アントニオは美脚を枕代わりにアッチヘコロン、コッチヘコロンと
しかしながら同時に、やはり不思議と癒されている自分に気付くのであった。
思えば〈
アニスは足下の石畳を漠然と眺めつつ、やがて吐露めいた静かな
「あの〈獣〉は……恐ろしい〈怪物〉でした」
「うん?」と、初っぱなから軽い違和感。「ちょ……ちょっと待って? 見たの?」
「はい」
「驚いた……まさか、施設内に生存者がいたなんて」
「誰にも言いませんでしたから」
「ジュリザやマザーにも? 何で?」
「どうせ、私の言葉は誰にも伝わりませんから……」
寂しそうに無理矢理
その表情に、冴子は語らずとも感受した……心の奥に痛々しく刻まれた〝独りぼっちの虚無感〟を。
だから墨空を仰ぎ、気負わぬ自然体で言うのだ。
「お姉さんで良ければ、いつでも聞くよ?」
「え?」
「別に『何が好きアレが好き』でもいいし『私、
望まずとも孤独へ
それは
当人とて望んでいるわけでもない。
それでも、抜け出せない。
そういう人間も、確かに存在するのだ。
それに対して「あなたの心持ち次第だ」とか「悶々と閉ざしていないで、他人に心を開きなさい」などと無責任な綺麗事で説教する気は無い。
それは自分自身を安全圏に構えたからこそ言える独善だ。偽善と要約してもいい。
だから、冴子に出来る事は「聞くよ」だけである。
自己陶酔の救済使命感に浮かされて「私が救ってあげるから!」とも言わない。そこまで
それでも〝話し相手〟ぐらいはいた方がいい。
そして、
だが、それはそれとして、冴子は「で?」と先を
ようやく貴重な生感想を聞ける。
横目に盗み見た少女の表情は、心無しか蒼白を染めつつあったが……。
「真っ暗でした。数メートル先の暗がりで、血のように真っ赤な目が見つめていました。悪魔みたいに吊り上がった目です。粗く熱い息遣いが離れてても聞こえるようでした。それに見つめられると、恐怖で動けませんでした。足がすくみ、少しでも動きを見せれば即座に襲われそうで……」
カタカタと小刻みに震えていた。
察した冴子は、無言のまま肩を抱いて引き寄せる。
互いの身を寄せて、確かな体温の
恐怖に打ち勝つには、
臆しない
その気丈は鼓舞と伝染する。
「場所は?」
噴水を眺めたまま
まるで、対面していない〝恐怖の権化〟を
「礼拝堂です」
「
「数日前、やはり〈獣〉に襲われて亡くなった子供がいました。その子を想うと哀れで……少しでも祈りを捧げたくなって…………」
犠牲者は八人。
それは把握している。
と、不意に軽い違和感を覚えた。
まるで、
(
懸命に巡らせるが、思い出そうとしても思い出せない。
情報の潮流へと呑み込まれるかのような感覚が、冴子の思考を不安定に
「時間は──」続けるアニスの声に呼び戻される。「──時間帯は、夜。いいえ、夜に差し掛かっていた時です。夕飯前に〈モロゥズ様〉への祈りを捧げようと……」
「夜の礼拝堂……ねぇ?」
よもや〈
それにしても、使えぬ〈獣神〉である。
子供
まだ〈月の女神・アルテミス〉でも崇めていた方がマシというものだ。
「そいつ、どんな感じだった? どんな毛が生えてたとか、唸り声を聞いたとか……何でもいい」
「恐怖で混乱して、よくは見ませんでした。けれど、アレは〝狼〟だったと思います。毛むくじゃらで……四足歩行で……」
「
「そこまで巨大ではありませんでした。最初は大型犬程度でしたが、立ち上がると人間の男性程度の背丈で」
「立ち上がった?」
「はい」
「じゃあ、純粋な〝狼〟じゃないわね」
さりげない有益情報に思考を巡らせる。
「やはり
確信は無いが予感はしていた。
獣人の中で
加えて言うならば、この〈
史実のみならず〈
「他には?」
「ごめんなさい……これで、知っている事は
申し訳なさそうに沈む少女。
その心中を察したからこそ、冴子は優しい
「手、出して」
「え?」
戸惑いながらも従う。
華奢な
「最後に、もうひとついいかな?」
「はい」
「何で
淡い
「冴子さんは〈
「信用してくれてる?」
「きっと
「ううん? 嬉しいよ?」
「え?」
あまりにも楽観的に受け入れられ、少女は軽く驚いた。
正直、アニス自身にしても
「どんどん頼っていいよ? ま、心配要らないから。こう見えても、冴子
あっけらかんと
「……冴子さん」
眼鏡の下で瞳が潤む。
嬉しくて……温かくて……泣きそうになった。
それをグッと
根底的に芯は強い。
それは、この子が優しいからだ。
人並み以上に優しいからだ。
が、それは裏を返せば〝自分を殺してしまう性格〟という事でもある。
他人を気遣うあまり「自分さえ
どこまでも……どこまでも…………自分が壊れそうになる限界まで。
「……
「ぅ……ふぇぇぇ……」
思わず洩らした冴子の言葉に、張り詰めていた琴線が雫と零れた。
優しさと自己犠牲は、表裏一体だ。
そうした魂を、もう
彼女が〈
ふと気付けば、太腿に掛かる重みがおとなしく鎮まっていた。改めて見ればスヤスヤと寝息を立てている。
この無垢さも、また〝守りたいもの〟のひとつ。
「さーこおばたん……もんたーすれた…………」
小さな寝言に後押しされた。
(……やってみるか)
寝付く髪を細指で撫でつつ〈
それを見定めると〈犬神〉もまた、のそりと身を起こした。
そして、その決意を共有する──
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