6.霧のエンドレス
エンドレスは辺境。
当然、人が歩けるような道など整備されていない。
しかも辺りは濃い霧に包まれている。
クラーロは慎重に足下を確認しながら歩いた。その後ろを、フラッカが大人しく付いてくる。
フラッカの感覚は鋭敏だ。異変があればすぐに報せてくれる。クラーロも五感を研ぎ澄ませ、もしもの事態に備えていた。
(アレも出しておくか……)
クラーロは召喚魔術を発動した。異空間に収納を作る『ボックス召喚』だ。
異空間から取り出したのは手のひらサイズの、鮮やかな色彩の羽根が一枚。それと薬剤を詰めた小瓶。
羽根の先端を薬剤に浸す。羽根ペンと同じ要領だ。
十分に浸透したところで、クラーロは羽根の先端をぱくりとくわえた。この様子を、フラッカが奇行を見る目で見上げた。失礼な召喚獣に説明する。
「軽い気付け薬だ。この山に入ったら、いつどこで龍と遭遇するかわからないからな。お前も見ただろ、ここに来る途中に龍が飛んでいった様子。ちなみにこの羽根はれっきとした魔術具だぞ。こう、状況に合わせて薬剤が適量
「ふ」
鼻で笑いやがった。
大方、「ダッッサ」とか思ってるのだろう。やはり失礼な妹召喚獣だ。
――相変わらず周囲は静かである。
霧に包まれて、方向感覚が鈍る。見上げても、太陽の位置がつかめない。
ふーっ、とクラーロは息を吐いた。
『ボックス召喚』で、今度は一枚の丸めた羊皮紙を取り出す。結び紐をほどき、広げる。薄茶色の紙面には何も書かれていない。
だがクラーロが魔力を注ぐと、白紙だった表面に光る模様が浮かんだ。
ルサイアから預かった地図。これも魔術具だ。
もちろん、貴重な魔術具といえど完璧ではない。この地図は踏破した場所を詳細に記録してくれるが、そうでない所は子どもの落書きレベルでしかない。
これを『使える』ものにするには、自分の足で歩き回るしかない。
地図をしまう。
フラッカが手の甲に爪を立ててきた。血が出ないギリギリを狙った絶妙な責めである。
「……いつも思うが、もうちょっと穏便な注意の引き方はねえのかお前」
「むふ」
彼女は口に水筒をくわえていた。少し休めということだろう。
肩の力を抜く。確かに、無意識のうちに気を張っていたかもしれない。気付けの羽根をくわえているから、余計疲労に気づかなくなっている。
背中のリュックをいったん下ろし、それを椅子代わりにして休む。
「むふ」
フラッカがタオルをくわえて差し出す。
「むふ」
次いで携行食の焼き菓子が入った袋を差し出す。
「むふ」
「お前の世話好きは誰に似たんだろうな」
強烈な頭突きが太ももに突き刺さる。お前だと言われた気がした。
しばらく水分と栄養補給をする。その間、フラッカの頭を撫でた。召喚獣に食事は必須ではない。代わりに、主からの魔力補給が必要だ。クラーロとフラッカの場合、こうして撫でるかブラッシングするかが定番となっている。
かり、と菓子を食べながら、クラーロは自分の荷物を見た。
あの中にはサバイバルに必要な諸々――ロープ、防寒着、食糧、水、調理器具など――以外に、書籍も入っている。人間社会への適応に向けた基礎知識を教えるための、最低限の資料だ。集落の龍たちがどの程度の識字率かわからないから、絵本や図の多い資料、それと文字を教えるための本が数冊。
本当は『ボックス召喚』で異空間に全部突っ込めれば良かったのだが、あいにくクラーロの能力ではそれほど大きな空間を生み出せなかった。テントなどの大きな荷物を入れてしまうと、あとはすぐ取り出せる小物くらいしか入らない。
(これだけ苦労して来たんだから、生徒となる龍とやらには何がなんでもモノになってもらわなければ。くくく、覚悟しておけよ)
無意識に暗い笑みが浮かぶ。直後、フラッカに咬まれて笑みを引っ込めた。
菓子を食べ終わり、気付け羽根をくわえ直す。
(それにしても……静かすぎるな。虫一匹いないんじゃないか)
少し前から、クラーロはこの霧の空間に違和感を抱いていた。
あまりにも生物の気配に乏しいのだ。
背中を預けている木の表面を触る。じっとりと湿った感触だった。その割には、周囲の湿度はそれほど高くないように感じた。じっとしていても汗が噴き出ることがない。
まあいい、とクラーロは思った。どちらにしろ、目的地まですんなり進めるとは最初から考えていない。数日かけ、ゆっくりと攻略するつもりだった。
まずは最初の拠点を作ること。そこで少し荷を下ろし、身軽になったところをさらに進む。拠点ごとにそれを繰り返せば、最悪、引き返すことになっても物資がなくて力尽きる可能性が減る。無事に集落に到着し、落ち着くことができたら回収すればいい。
「そろそろ行くか、フラッカ」
「わふん」
再び荷物を背負い、歩き始める。
延々と続くかと思われた奇妙な霧空間。
だが、それは唐突に終わった。
頬を風が撫でた途端、霧が一斉に晴れていく。
腕をひさしにして目を細めていたクラーロは、次の瞬間、大きく目を見開いた。
「すっ……げぇ……」
その一言に感情が凝縮される。
平地よりも深みを増した空の青。強烈な陽光。岩と木と土の限られた色合いにもかかわらず、一カ所たりとも同じ景色がない山肌。そして何より、雲を文字通り貫く凄まじい高度の
絶景――である。
地図を開き、峰や太陽の位置から現在位置と高度を素早く割り出す。そして再び歩き出す。
その瞳は先ほどまでと違って、キラキラと輝いていた。
学園では体質ゆえに落ちこぼれの烙印を押されていたが、元々は好奇心旺盛で勉強熱心な男である。未知の環境、圧倒される光景にクラーロは興奮を隠せなかった。
ここからがエンドレスの本当の姿。
この先、一体どんな発見が待っているのか。
疲れを微塵も感じさせない足取りのクラーロ。その後ろ姿を、フラッカがジト目で見上げていた。
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