第2話
塔をたたく雨の音だけが残った。
耳栓がどこかへ飛んでいき、木へらが鍋をかきまわす。
白いカーテンが飛び上がり、胴体に巻きつく。窓のふちに、幼竜が引っかかっている。
咆哮の音圧で破裂したのか、うろこが何枚か剥がれて、肉が見えていた。翼の皮膜がさけて、何本もの骨がとび出ている。
虫の息で、窓のふちにぶら下がっていた。
野菜を刻む音がとまった。包丁がとんできた。幼竜との距離をちぢめていく。サラスは物思いに
サラスは首を横にふった。
「いいんだ」
呟いた。包丁は方向転換して、持ち場に戻った。昔の記憶がよみがえった。まだ力が枯れていなかった頃である。
名の無い怪物が世界を席巻していた。
最後に対峙したのがサラスと若き王と、異国の騎士が数人であった。ウィルもまた、騎士の一人であった。皆、サラスが手塩にかけた弟子だ。
中でも、王は赤子の時からサラスの庇護下にあった。息子のような存在である。
名の無い怪物が、くろい砂となって風に散った。それで決着がついたと思われた。間違っていた。
王が首に
王がむくっと立ち上がる。笑っていた。名の無い怪物だとすぐに分かった。
「息子に最後のあいさつをしろ、サラス」
怪物は両の手を振った。騎士が二人、宙に弾ける。二人は黒い砂と化して爆散した。名の無い怪物は、肩に付いた黒い砂を払った。
「終わったわけではない。私は再びお前の前に現れる」
サラスは古代語で風と唱えた。見えない何かが空を切り、王の心臓を破いた。
そこで物思いからさめた。頬が濡れている。抱きあげた幼竜が吠えた。実際には、血が吹きこぼれただけであった。
老人はさび付いた頭を
医学に関するすべての知識を、洗い出さねばならぬ。薬瓶、布、医療器具のたぐいが次々と飛んできた。
翼の損傷がひどい。骨の
全ての処置がおわった。
三日過ぎようとしている。血をぬぐった布は、どす黒い三つの山となった。それらは暖炉に放り込まれた。硫黄の様なあくしゅうが立ち込めている。
やれやれと、机に突っ伏すと、そのまま眠った。
そばで丸まっていた幼竜が目を覚まして、あたりを見回す。サラスを見つけると、よたよたと近寄り、ふたたび丸くなった。
爪が床をひっかく音で、目がさめた。
紅い陽が沈もうとしている。大きなハムの原木を、幼竜がするどい歯でしっかり咥えている。枕と埃叩きが追いかける。竜は千鳥足で、器用にかわしている。
「やめんか」
一拍おいてから、枕と埃叩きが逃げていった。解放されたハムの原木は、大きく裂けた肉をぶら下げながら、よたよたとキッチンへ向かった。
サラスは、自分が怒鳴った事におどろいた。何十年ぶりの感覚だろうか。
サラスが手招きすると、竜はぎこちない仕草で近寄った。患部にぬった薬草が、赤く染まっている。薬瓶が飛んできた。白鹿の角で作った湿布のストックが入っている。
湿布を
広がった傷口は無い。
全体が紺色の鱗だった。にごった暗い青が、光沢をおびている。大きな瞳は黄色く、瞳孔はへびのように縦長だ。翼を失った竜は
大きめの猫といった所か。竜の口元に付いた食べかすを拭き取った。
「お前をパウロと呼ぼう。古代語で抗う者を意味する。その翼で抗ってみよ」
子竜は、老人の手から布を引ったくる事に夢中だ。
数日間サラスは、ろくに眠らなかった。パウロが歩き回るので、傷口が開かぬようみていたのだ。
パウロを寝かしつけようと言うのか、空ビンや調理器具が、子守唄をかなでた事があった。いたずら心を刺激して、失敗に終わった。
パウロの
ヤギが二十頭、物置きで飼育される事になった。牧草や飲み水、糞尿の入ったつぼが忙しく働いている。
パウロは幼い子どものように、しつこくサラスにつきまとった。中型犬ほども育っている。傷口が、硬くなってきている。今は赤黒い血の塊だが、いずれ鱗に生え変わるだろう。
鍛冶屋に発注しておいた金属の骨格がとどいている。山羊の皮を、竜の血に漬け込んでおいた。そうすると皮はより頑丈に、柔軟になる。
二つを、針とひもが
それでも本物の動きには及ばない。パウロはもはや野性では生きられないだろう。だが似た者同士、この塔で暮らせばよいではないか。
塔の屋上には広大な敷地がある。
成竜が住むのに丁度よい。野性の竜は塔に近づかないから、外敵の心配もない。それがサラスの思惑であった。
二週間もすると、パウロは山羊を殆ど平らげていた。体は馬ほど大きくなっている。傷口が塞がって、鱗も形成され始めていた。いい頃合いだろう。義翼の縛りひもがほどける。
パウロ目掛けて飛んでいった。背中のコブにはまった。青銅の九つのカラビナが
筋肉に連動して、動くようになっている。パウロはふいに翼を広げた。部屋の半分近くを埋めるほど、翼は大きい。家具が慣れた動きで、翼との衝突を避けていた。
パウロは翼に戸惑ったのか、サラスを見やった。サラスはにやりと
翼を畳むと、四本の足で走り出した。
窓がひとりでに開く。
どこまでも雲がつらなり、大地は遥かに遠く、下に横たわっている。
パウロは広大な空に飛び込んだ。空気を裂きながら、急降下した。十数フィート降下した所で、ようやく翼を広げる。そのまま、具合をみるように滑空した。
小さな
空気が鳴動し、サラスの身体に心地よく砕け散る。無数の光の粒子が現れて、身体にまとわった。粒子はサラスの身体を温めると、静かに消えていった。
竜の咆哮は、空気中のこまかな魔力を鳴動させる。少しの間、目に見えるほど密になるのだ。太古に栄えた竜使いは、咆哮を巧みに使ったものだ。
一秒間だけ、指先に風の渦を起こす。力を持っていた過去に思いをはせた。しかしサラスの表情は清々しいものだった。
夜になると、パウロに伝承を語ってやった。人と竜の共存と興亡の歴史だ。竜は
原初の民の没落と共に、古い竜の大半はほろびた。あるいは、長い眠りに入り、大地の骨と化した。名の無い怪物が世に産み落とされたのもこの時だ。
この時を境に、竜の知恵は衰えていった。
竜は人語を理解するものの、それを操れなくなってきている。サラスは寂しげに
パウロはそれを嗅ぎ付けて、鼻先をこすりつける。鼻息で、サラスの眼鏡がくもった。
「やめんか!わんぱくが」
本を畳むと、サラスは仕返しに鱗の溝を掻いた。パウロがくすぐったそうに身体をよじらせた。
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