第19話 破局の始まり
レンリの友人であるミランは、宦官だった。
宦官とは、皇帝とその妃たちの身の回りをする人々である。
最も高貴な者たちに奉仕する彼らは、しかし、帝国で最も蔑まれている者でもあった。
宦官は去勢され、つまり男性器を切り落とされている。
皇帝の後宮に仕えるため、妃や宮女たちと万一にも関係を持たないようにしているのである。
また、子孫を残せない宦官は、世襲で権力を受け継ぐ恐れもないし、皇帝のすぐ近くにいる存在として信頼を得ていった。
後宮では二千人にも及ぶ宦官たちが結託して、政治に介入し、多額の賄賂をとり、権力をほしいままにした。
当然、宦官に批判的な貴族や進士官僚との激しい対立が巻きおこり、しばしば官僚が宦官の讒言により失脚し、皇帝の命令で拷問にかけられ、処刑された。
二代前の皇帝も宦官を重用していたが、不老不死を目当てに怪しげな薬に溺れ、精神に異常をきたして宦官を理由なく虐殺するようになる。
その皇帝はついに宦官によって毒殺された。
その次に即位した皇子ラトは当初より宦官に擁立され、その言いなりとなっていた。
現皇帝からみて先帝にあたるラトは、しかし心の内では宦官を憎み、密かに信頼できる貴族や官僚に軍権を与え、決起させて数千人の宦官を皆殺しにした。
「こうして、悪者の宦官たちはみんな殺されて、残った宦官も宮廷でただの雑用係となった。皇帝陛下も貴族の方々も進士も、幸せな生活を送れるようになりましたとさ」
ミランは皮肉っぽく、アイカへの説明をしめくくった。
宦官たちが失脚して、本来のただの後宮の使用人に戻ったのは本当だ。
そして、彼らは蔑まれ、憎まれるだけの無力な存在になった。
だが、ミランの言葉の後半は事実と異なる。
宦官と貴族・官僚による派閥争いはなくなったものの、今度は貴族と進士が互いに党派を作って愚かな権力闘争を開始した。
先帝リトは「もし天が命じるのであれば、帝国中の大河の流れを止めることはできるかもしれない。しかし、役人たちの争いをなくすことはどうやっても不可能だ」と嘆いたと伝えられている。
ミランは言う。
「ボクがほとんど女性みたいな見た目なのは、去勢をされたのが小さな子どもの頃だったからだよ。だから声も高いままだし、体つきも華奢なわけさ」
そういうミランの顔はにやにやしていた。
ミランの容姿は輝くように美しかった
おそらく後宮のすべての美女と比べても、劣らないだろう。
だからこそ、現皇帝に寵愛を受け、宦官としては珍しく正式の官位を受けているのだ。
しかし、ミランは容姿が美しいだけの人物ではなく、セレカの同志として改革派の一人でもあった。
「キミの名前は?」
「アイカです」
「いい名前だ。それにレンリくんに従者になれるなんて、幸せだな」
「はい。言葉にすると恥ずかしいですけど……とっても幸せです」
アイカは頬を染めてうなずいた。ミランと違って、本当に恥ずかしそうな顔をしていた。
「ボクも南方の戦災で孤児になったクチでね。もしボクが幼い頃に、今のレンリくんみたいな良い人に出会えていたら、去勢されて宮中に売り飛ばされることはなかったかもしれない」
ミランは遠い目をした。
その目は、平原の向こうにあるはずの帝都を見ようとしているようだった。
「アイカはボクのことが怖くないかい?」
アイカは首をかしげた。
「こんな綺麗で優しげに話す人が、怖いわけないと思います」
「でも、ボクはかつて皇帝を殺し、多くの人を罪なく虐げ、身体に傷を負った醜い宦官の一人だよ?」
「でも、レンリ様のご友人なのでしょう? それでしたら、悪い人のはずがありませんから」
アイカはためらいなく言い切ると、ミランは目を見張り、そして嬉しそうにうなずいた。
「聡明な子だね」
「ああ。アイカは賢いよ」
レンリが認めると、アイカがますます恥ずかしそうに目を伏せた。
ぽんぽんとミランは手を叩いた。
本題に入ろう、という合図だ。
レンリはアイカに「宿舎に戻って、ミランをもてなすための酒を用意してほしいな」、と頼んだ。
アイカはうなずくと、宿舎に駆けていった。
そして、レンリはミランに目を戻した。
「さて、監軍ミラン殿の持つ最新情報を伺いたいところだな」
レンリは冗談めかして言うと、ミランもにやりとしてそれに応じた。
「これはレンリくんも知っていると思うけれど、柱国大将軍にして尚書令の我らがトーラン閣下は、なお北夏の王都を攻め落とせていない。十五万の軍を率いるにも関わらず、だ」
「衰えたといっても、さすがは武人の国。北夏を制圧するのは簡単じゃないわけだ」
「そう。だから、ついにトーラン閣下は王都攻略を翼人に任せることにした」
レンリはぎょっとした。
それでは尚書令トーランの事前の計画と異なる。
北夏征服のかなりの部分を翼人が行うことになる。
そうなれば、事前の翼人との取り決め通りにならない。
王都以南の北夏の土地を帝国のものとできるかはわからなくなる。
確実に、翼人は成果に応じてより大きな報酬を要求してくるだろう。
「けれど、この作戦はうまく行き、北夏王都の陥落は時間の問題らしい」
「こちらはゴワン討伐もまだ終わらず、北夏の南部の主要拠点もわずかしか落とせていないのに?」
「そうだね。だから、帝国側の立場は良くない。ただ、これは極秘の情報なのだけれど、トーラン閣下は軍事力以外の方法で今回の問題を解決するつもりらしい」
「北夏に内通者でも作るのかな」
「半分当たりだ。内通者を作るのは、翼人のなかに、だ」
「え?」
「翼人の王カラルク=ワンヤンには、ムリゲルという弟がいる。このムリゲルはなかなかの実力者で、政治にも武勇にも秀でているらしいのだけど、兄と仲が良くない。そこでこのムリゲルを帝国の力で王とする。代わりに帝国に有利な条件で戦後処理を行うんだ」
「それは……」
背信行為ではないか、とレンリは言いかけた。
もともとトーランら帝国軍と翼人の王カラルク=ワンヤンは協力して、北夏を攻めてきた。
しかし、帝国軍側はほとんどこの遠征に貢献できず、逆にカラルク=ワンヤンは約束どおり着々と北夏の征服を進めている。
にもかかわらず、トーランはそのカラルク=ワンヤンを裏切り、王の地位から引きずり下ろすつもりらしい。
「レンリくん。ボクはトーラン閣下の思い通りに事が運ぶのであれば、それでもいいと思っている。ムリゲルが王につけば、財貨の支払いも免じてくれるらしい」
「翼人へ銀の支払いを続けなくて良いということなら、民に重税を課す必要もなくなるな」
「そのとおり。いくら卑怯でも、それが最後に帝国と民のためになるなら、トーラン閣下の計画も忠臣の行いと言えなくもない。けれど……」
「そううまく行くかはわからないね」
レンリの言葉に、ミランはうなずいた。
もし、トーランの計画が失敗し、カラルク=ワンヤンが聞けば、激怒することだろう。
そうなれば、カラルク=ワンヤンは土地を引き渡さないどころか、北夏攻撃の軍勢をそのまま帝国攻撃に転じてもおかしくない。
そして、レンリの怖れる事態は現実のものとなった。
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