第4話 聖学と神
レンリはため息をついた。
迷信がはびこり、人々がその犠牲となるのはどこの土地でも同じことだ。
レンリの出身地である南陽でもほとんど同じようなことがあった。
河の神の怒りを怖れ、水害を起こさないために神に生贄を捧げるという儀式だ。
そして、その犠牲の一人になったのがレンリの幼馴染の少女だった。
そのときのレンリはすでに学問を身につけ、それが迷信であるということは知っていた。
けれど、そのときのレンリはただの科挙受験生で、儀式を止める力はなかった。
今は違う。
レンリは進士であり、官僚だ。
生贄となる運命のアイカがレンリを上目遣いに見つめる。
「わたしが青河の神の妻として死ぬのは、もう決まったことなんです。でも……中央からやってきた進士様に見初められれば……」
「里正はもちろん、郷の長老たちだって納得するかもしれないな」
だからといって、少女のアイカにとって、見も知らぬ男の妻妾となると言い出すのは勇気のいることだっただろう。
「君の年齢はいくつ?」
「えっと……十七歳です」
くすっとレンリは笑った。
どう考えても、十七にしては幼すぎる。
本当の年齢を言えば、レンリが妾として娶ってくれる可能性は低くなるからだと思う。
それだけアイカは必死なのだ。
レンリは優しく言った。
「嘘をついてはいけないよ」
あっけなく嘘を見抜かれ、アイカはうろたえていた。
金色の目を伏せ、服の胸元をぎゅっと握りしめている。、
「本当は十二歳……ぐらいだと思います」
「ぐらい?」
「いつどこで生まれたか、わたしはわからないんです。物心つく前に孤児になって、行商人だったお父さんに拾われて……でも……」
その養父も旅先で死んだ。
それがこの村だったのだとアイカはいう。
そして、里正に養女として引き取られた。
ただ、その待遇は必ずしも良いものではなかったらしい。
もし里正が多少でもアイカを大切に思っているのであれば、河の神の生贄にすることを止めようとしただろう。
けれど、里正はアイカが生贄に選ばれると聞いて喜んだという。
自身の娘が河の神の妻となれば、郷のなかの地位も上がる。
そして、儀式のために集められる莫大な金銭の分前に預かれるのだ。
郷の長老や巫女たちは、県の役人と結託し、この儀式を名目としてかなりの税を課したのだという。
それは通常の税とは別にかけられるもので、あまりの重たさにそれぞれの里の人々は生活が困窮する有様だった。
アイカはひざまずいてレンリをすがるように見つめた。
「わたし……なんでもします! だから進士様の側にお仕えさせてください。お料理も、洗濯も……字だって書けます。こんなところで死にたくないんです!」
「俺が善人である保証はどこにもない。君を奴隷のように扱い、闇商人に売り払うかもしれないよ」
「本当に悪い人なら、そんなふうに忠告なんてしてくれないです。それに……里正様はもともと、わたしのことを遊里にでも売るつもりだったんだと思います」
なかなか聡明な子だな、とレンリは思った。
年齢を考えると、立ち居振る舞いもしっかりしているし、言葉遣いも上品だ。
字もかける、というのも辺境の里では貴重だ。
レンリは頭を回転させた。
こんな幼い少女を妾というのは論外だが、しかし使用人として雇うというのは良い案かもしれない。
もともとレンリに仕えていた従者たちは、みな左遷にあたって召し上げられてしまっている。
だから、たしかに使用人は必要なのだ。
それでこの少女の命を救えるということであれば、これは善行であり、聖賢シレンの教えにもかなうことになる。
しかし、問題も多い。
第一に、この河の神のための儀式には、県の役人も関わっているらしいことだ。
しかも、これだけ大規模に行っているのであれば、県令や主簿といった県の上層部の人間が認めていて、彼らが上前をはねている可能性がある。
そうだとすれば、儀式によそ者のレンリが横車を入れれば政治問題になりかねない。
第二に、里正を納得させるだけの金品の支払いができないことだ。
里正はアイカを河の神の妻として売り、不正に集めた金銭の一部を手に入れる予定なわけだ。
だから、レンリがアイカを手に入れようとすれば、それ以上の金を里正に払わなければ納得させられないだろう。
けれど、レンリは罪を得て財産を没収されたため、大した金を持っていない。
そして、最も重要な問題がある。
「もし君が生贄から逃れたとして、儀式は中止になるかな」
アイカははっとした顔をした。
そして、弱々しく言う。
「ならないと思います。みな河の神の怒りを怖れていますし、長老たちはお金を欲しがっていますから……。だから、わたしの後には別の子が犠牲になるんです。進士様はそれを心配しているんですよね?」
「そのとおり」
やはりこの少女は賢い。
アイカにとっては自らが助かることが大事なのはもっともだが、レンリの立場からすれば違う。
アイカを救ったところで、別の少女が死ぬのであれば、これは偽善、自己満足に過ぎなくなる。
「君を妾とするのはなしだな」
レンリがそうつぶやくと、アイカの表情が固まり、やがて絶望に染まった。
金色の瞳から涙があふれる。
レンリは慌てた。
そんな顔をさせるつもりはなかった。
もしセレカに見られていたら、怒られていたところだ。
「君を見捨てるつもりはないよ」
「……どういうことですか?」
アイカが泣きじゃくるのを止め、尋ねる。
レンリは優しい口調でその疑問に答えた。
「俺は進士。聖賢シレンの教えに従う者なんだよ」
「ええと?」
「超常の力はない。神はいない。それが、シレンの聖学の教えだ」
「『怪力乱神を語らず』、ですね。『聖論』の言葉……」
「よく知ってるね」
アイカが聖学の古典の言葉を引用したのを聞き、レンリは微笑んだ。
「商人だったお父さんが好きだったんです」
商人は読み書きと教養が求められるから、科挙試験の落第者が転身する事例も多い。
もしかしたら、アイカの昔の養父もそうした人間だったのかもしれない。
「聖学は、民の心が安らぐのであれば。神々への信仰も容認する。が、もし人々を惑わし、苦しめるような神々であれば、それを許す理由はない」
その言葉を聞いて、アイカは驚き、それからレンリに期待するような熱い眼差しを向けた。
レンリはアイカの瞳の金色の輝きに答えた。
「この愚かな儀式そのものを潰してしまおう」
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