第3話 河の神の妻とされる少女

 レンリを乗せた馬車は、ゆったりと道中を進んでいた。

 

 旅を始めてから二週間。

 あと二日もすれば任地に着くだろう。


 青河と呼ばれる大河を渡り、いよいよ帝国の北の果てへとレンリは足を踏み入れていた。

 

「だいぶ寒いなあ」


「そりゃそうですよ、お客さん。ここはもう北辺の地なんですから」


 と馬車の御者が言う。


 道中で何度か馬車を乗り継いできていて、今の御者は体格の良い青年だった。

 帝国の中央部の民衆なら、レンリのことを「進士様」と呼んでくれる。程度の差はあれ、進士といえば尊敬されるのだ。

 

 だが、この辺境の地では、官僚や進士に対する尊敬の念というのはあまりないようだ。

 帝都近くの人々は、官僚になることがどれほど難しいか、そして官僚の機嫌を損ねればどれほど面倒になるか、身にしみて知っている。


 だが、辺境の地ではどちらも知らない者も多いということだろう。


 もちろん自分が進士官僚であるということを誇示すれば別かもしれないし、種々の特権も与えられている。


 が、レンリはただの客扱いに甘んじた。

 そのほうが気楽で良いからだ。


 路銀のなかから金を出し、途中の街で綿入りの上着を買ってきてはいる。

 ただ、これで寒さをしのげるかどうか。


 もともとレンリは南方の生まれで、それほど寒さに慣れていない。


 今はまだ秋。  

 冬の北辺は厳寒の地になるという。


「お客さん。そろそろ休みますかね? あそこに村があるんでさ」


 御者の指の先に小さな集落があった。


 およそ百二十戸、千人程度の里だろう。

 レンリはざっと概算した。

 それなりの規模の村で、このあたりの郷の中心的存在に違いない。


 ただ、建物の様子や人の動きから、あまり豊かでないことも見て取れた。

 

 科挙の成績が悪かったレンリは、尚書省や翰林院のような中央の名門官庁に残れなかった。

 代わりに地方官勤務が長かったのだ。

 

 州の主簿としてそれなりに広い地域の財政を取り仕切ったこともあるし、県令として小さな県を治めたこともある。


 だから、レンリは地方政治の実状に通じていた。

 これはレンリの密かな誇りだった。

 中央で皇帝の側近として働いていた秀才たちと比べて、優れている点も皆無ではないのだ。


 集落に向かって、農夫が牛を引き連れていく。

 その牛の背が夕日に照らされていて、のどかな情景になっていた。


 ここまでの道中はそれなりの規模の街に泊まってきた。

 が、これ以降、北辺大都督府の置かれている北都まで、街らしい街はない。


 日没を考慮すれば、この村で一泊するのが正解だ。

 レンリは御者にうなずいた。


「ああ、頼むよ。この村で泊まることにしよう。なんといっても、酒もなくなってきたからね」


「ええ。酒はいいもんですからなあ」


 馬車の御者は良い笑顔でそう答えると、手綱を引いて馬を止めた。

 

 レンリは馬車を降りると、御者に礼を言い、報酬を弾んだ。

 相場よりもだいぶ高い額だ。 


「こんなにもらってもいいんで?」


「かまわないさ。長い道中付き合わせて悪いからね。その代わり、明日もよろしく」


 レンリの気前が良かったのは、もともとの性格もあるが、現在の状況も関係していた。

 ここで御者に逃げられれば、困ったことになるのはレンリだ。


 この辺境では、代わりの馬車とまともな御者を探すのも難儀するだろう。


 里の村人たちの表情はあまり明るくなかった。

 今年の収穫が思わしくなかったのだろうか。


 通りがかると、彼らは物珍しげにレンリを眺めた。


 とりあえず、レンリは里の取りまとめ役である里正を会うことにした。


 近くにいた村人を捕まえて事情を説明すると、すぐに里正の老人はやってきた。

 

 里正は里の代表者であり、人々のなかから有力な者が選ばれる。

 そして、彼らは郷の会合に出て自治を行い、また県の官吏との交渉を担当していた。

 

 だからレンリの緑服を見て、里正の老人は腰を抜かすほど驚いたようだった。

 里正が日常的に接する役人は、胥吏と呼ばれる下働きの事務員だ。

 

 彼らは帝国から官位を直接受けていず、流外の官と呼ばれる。

 一方のレンリは八品官、セレカが五品官というふうに進士や貴族たちは位階を授けられている、。

 

 レンリは正規の官僚のなかでこそ下っ端だが、役人社会全体で言えば高等官僚なのである。

 それもこれも科挙に合格できたおかげだった。


 さすがに辺境の地といっても、里正は他の村人たちと違って役人社会を熟知している。


 里正は合掌し、深々と頭を下げた。


「進士様がこのような辺鄙な村にどのような御用がございますのでしょう?」


「任地である大都督府へ向かう途中でね。急な話ですまないが、宿を借りたいが良いかな?」


「もちろんでございます。しかしながら、あいにく、この里にはあるのはあばら家ばかりでございます。進士様のお気に召すかどうか……」


「簡素なものでかまわないよ」


 そもそもレンリは貧民出身であり、馬小屋で寝て、泥水をすすって暮らしていたことがある。

 寝る場所にはそれほどこだわりはなかった。


 里正はあばら家ばかりだと言ったが、少なくとも里正の家はかなり豪勢なものに見える。

 もちろん帝都の水準からすれば大したことはないが、この寒村には不似合いだ。


 不審に思ったが、今は宿の確保を優先すべきだ。


 里正は自らの屋敷にレンリと御者を泊めることを申し出て、レンリもそれを受け入れた。


 任地への赴任は公務の一環である。

 帝国の行政の末端を担う里正が宿を提供することに不思議はない。


 彼はレンリのために屋敷の広間に宴席を設け、下にも置かぬ待遇をした。


 この地の官僚となるレンリと親しくしておけば、あとあと便宜を図ってもらえるという魂胆だろう。

 

 レンリは酒は好きだが、好きなのは一人酒である。

 宴席の場はあまり好きではない。


 が、断るのは角が立つので、やむなくレンリも盃を手にとった。

 

 盃を片手にしながら里正が言う。


「それにしても進士様はよい季節にお越しなさった」


「いまは豊年祭の時期か」


「そのとおりでございます」


 どこの里でも、秋の収穫が終われば、毎年の豊穣に感謝して豊年祭を行う。

 村の社は酒に満ち、それぞれの地域で信じられている神を祭り、歌舞が行われる。


 帝国の公式見解である学問「聖学」では、人格のある神の存在を認めていない。

 ただ、万物を自然法則に従って運行する「天」のみが崇敬の対象となる。


 そうはいっても、人々は自らを守護する神々の存在を信じ、崇めている。

 こうした土着の信仰はまとめて「神教」と呼ばれ、皇族や進士、貴族たちすら程度の差はあれ、神教を信じている。


 そのとき、広間の障子戸が開き、一人の少女が現れた。

 年齢は十二か十三ぐらいだろうか。

 少女は静かに進み出ると、レンリの前に跪いた。


 里正が言う。


「この者はアイカと言いましてな。私の養女です」


 アイカは幼いながらに美しい少女だった。

 黄金色の髪を長く伸ばしていて、同じく金色の瞳がレンリを見つめている。

 南方や中原では珍しい容姿だ。

 

「……お注ぎいたします」


「ありがとう」


 アイカは白い絹の服をまとっており、レンリの盃に酒をつぐと、その袖が軽くレンリの腕に触れた。

 ただ、アイカの表情に憔悴したような色が浮かんでいるのにレンリは気づいた。


 単に見知らぬレンリに怯えている、というのとも少し違うように見える。

 この屋敷に来る途中に来た村人たちの顔色が明るくなかったのも思い出される。


 豊年祭は里における最大の娯楽行事でもあり、農作業を休み、数日間のあいだは酒と踊りと歌舞にひたる非日常が繰り広げられる。


 しかし、それなのに村人たちの表情が暗いのはどういうことなのか。


「豊年祭は明日からです。今日はごゆっくり休まれ、明日は祭りをご覧になっていってはいかがですかな?」


 里正の眼が一瞬、するどく光った。

 言葉とは裏腹に、彼はレンリのこと警戒している。

 祭になにか隠し事があるのかもしれない。


 レンリは言葉を選んだ。

 

「いや、せっかくの誘いだが遠慮しておくよ。一日も早く任地に趣き、帝国のために働きたいからね」


 別に任地に早く行きたいだなんて、そんなことはレンリはまったく思っていない。

 申し出を断る口実だった。

 里正は「残念でございます」と言ったが、その顔に安堵の色が浮かんだのをレンリは見逃さなかった。


 屋敷のなかでも豪勢な客向けの部屋を与えられ、レンリは上等な綿布団にくるまった。

 レンリの好物は酒だが、次に好きなのはおいしい料理であり、そして、その次が睡眠だった。


(さっさと寝てしまうことにしよう……)


 連日の旅はレンリから気力と体力を奪っていた。

 明日も早くから旅立たなければならない。


 けれど、天井を見つめ、レンリはぼんやりと考えてしまう。

 今も同期のセレカは翰林院で皇帝の詔勅の起草を担当している。


 自分は辺境で何ができるのか。

 そんなことを考えていると、眼が冴えてくる。


 急に部屋の戸が開く音がし、薄い明かりが部屋を照らす。

 レンリは跳ね起きて、愛用の剣を手にとった。レンリが進士になるはるか昔から使っている剣だ。


 罪を得て遠流に処された官僚が不審死を遂げるのは珍しくない。

 つまり、暗殺されるということで、可能性は低いもののありえなくはない。

 

 レンリが剣を抜き放つ。

 相手は燭台を手に下げており、びくっと震えた。


 人影はレンリよりも遥かに年下の少女だった。


「君は……」


「あっ、あのっ……わたしは……」


 里正の養女のアイカが部屋の入り口に立っていた。

 その金色の瞳は潤み、頬を赤くしてレンリを見つめている。

 身にまとっているのは、就寝用の薄い布一枚のみだ。


「わたしを……進士様の、め、妾にしていただきたいのです」


 アイカは恥ずかしそうに小声で言った。


 (里正の差し金か……。それにしてもこんな小さな子を……)


 しかし、次のアイカの一言はレンリの想像とは異なった。


「そうでないと、わたしは殺されてしまうんです」


「へ?」


「この郷の豊年祭では……郷で一番の美しい娘を青河の神の妻として奉納するんです。つまり……」


「君が生贄として青河に沈められるということかな」


 レンリの言葉に、アイカは小さくうなずいた。

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