第2話 すべてを持っている女官僚セレカ
天は雲ひとつない快晴だ。
旅立ちには悪くない。
もう馬車の手配ができたのだ。
レンリは大きく伸びをした。
そして、帝都の隅にあった自分の屋敷を振り返る。
この屋敷も家財も使用人も没収された。
レンリの手にあるのは、護身用の剣と、酒瓶、それと一冊の古びた書物だけだった。
その本は、古の聖賢シレンの教えをまとめた古典で、『聖論』と呼ばれている。
科挙の試験内容は、シレンとその後継者たちの学問「聖学」の基礎知識と応用を問うものだ。
だから、『聖論』は科挙受験生必携の一冊だった。
実際、レンリの手にあるのは受験生時代から使ってボロボロになったものだった。
レンリにとっては思い出の本なのだ。
何の財産もないけれど、身にまとう緑服は官僚の証である。
ふうっ、とレンリはため息をつき、それから馬車の御者の中年男性に声をかけた。
「そろそろ出発できそうかい?」
「いいですぜ、進士の旦那」
「ありがとう。長旅になるな」
「北辺は遠いですからなあ。見送りは一人もいないんで?」
レンリは苦笑して肩をすくめた。
失脚して追放される下級官僚なんて、誰も近寄りたくないに違いない。
友人たちも災いを怖れてレンリに会いには来ないだろう。
迷惑をかけないよう、レンリの側からも声をかけていなかった。
「我が友はこの濁り酒。退屈な道中を紛らわせてくれるさ」
レンリが酒瓶を手でひょいと上げて、おどけてみせると、御者は笑った。
「進士様が酒びたりじゃあ、格好が悪いじゃありませんか」
「いやいや、酒は結構なものだよ。昔の偉大な詩人ハクリも言っている。『天、もし酒を愛さずんば、酒星は天に在らず。地、もし酒を愛さずんば、地に酒泉無かるべし』と」
「進士の旦那たちは、そういう引用が好きですなあ。あっしには意味がよくわかりませんが」
「天も地も酒を愛しているのだから、人間である俺が酒を好んでも、罰は当たらないってことさ」
「何でも良いですから、とりあえず馬車に乗ってくださいな」
と言われてレンリはおとなしく馬車に乗った。
振り返ると、宮城の壮麗な建物が遠くにそびえ立っていた。
近くには市場が立っていて、大勢の人が行き交うのが目に入る。
そのすぐとなりは歓楽街であって、夜には多くの遊女と客で華やかな世界が繰り広げられていた。
帝都は人口およそ百万人を誇る大都市だ。
レンリは科挙の受験のときに、はじめて帝都に来た。
そのときの驚きは今でも忘れられない。
おそらく地の果てまで探しても、これ以上に大規模な街は存在しないだろう。
いままでの地方官勤務と違って、今回はもう二度と帝都に戻ることはできないかもしれない。
名残惜しいが、いつまでも旅立たないわけにはいかない。
馬車を出してくれ、と言いかけて、レンリは思いとどまった。
向こうから一人の若い女性がこちらに駆け寄ってくるのに気づいたからだ。
レンリは慌てて身なりを整えた。
そして、馬車を降りる。
女性はレンリの前まで走ってきて立ち止まり、息を切らせた様子で、白い頬を紅潮させていた。
「よかった……。間に合った……!」
そして、茶色の長い髪をかきあげ、榛色の美しい瞳でレンリを睨む。
女性は緋色のゆったりとした服を着ていて、レンリよりも上位の官僚であることを示していた。
レンリは戸惑って、曖昧な笑みを浮かべる。
「
「誰のせいだと思っているの!?」
「あー、セレカはもしかして見送りに来てくれたのかな?」
その女性官僚は不機嫌そうにうなずいた。
この女性は、名をセレカという。
レンリよりも五つ年下の二十二歳だが、レンリと同じ年に科挙に及第した同期でもある。
しかも、彼女は首席で合格した。
科挙の合格席次はその後の出世に影響する。
特に「第一甲」と呼ばれる上位三名に入ることができれば、一位からそれぞれ
セレカはわずか十三歳で最優秀の状元として及第したわけで、当時は天才現れるとして騒がれたものだった。
しかもセレカは誰の目から見ても美しい少女だった。
いまやセレカは五品官の
レンリよりもはるかに高位の官職を得ている。
さらにセレカは八柱国と呼ばれる名門貴族の娘でもある。
黙っていても、親の身分を受け継いで官僚となれたはずだったのだ。
にもかかわらず、どうして科挙を受けたのか。
レンリがそう尋ねると、少女時代のセレカは「だって、自分の力で偉くならないと意味がないじゃない」と答えた。
それを聞いて、さすが貴族というのは考えることが違う、と感心したものだった。
貧民出身のレンリは底辺すれすれで科挙に合格。
かたや名門貴族のセレカは最優秀の状元として及第した。
なにもかもが正反対の二人だが、同期のなかでは意外と気が合った。
しかも、どちらかといえば、セレカのほうから積極的にレンリに関わろうとすることが多かったのだ。
レンリからしてみると、どうしてセレカが自分に関心を持つのか最初はよくわからなかった。
けれど、やがておぼろげに理由がわかるようになった。
セレカは何でも持っている。
血筋も富も名誉も美貌も明晰な頭脳も、他の誰にも負けていなかった。
(だからこそ、何も持っていない俺に興味を持ったんだろうな……)
人はいつでも自分にないものを探している。
セレカは自分に足りないなにかを求めて、レンリに近づいたのだと思う。
そして、今、目の前にいるセレカは、びしっと白い指をレンリの額につきつけた。
「どうして私に一言もなく帝都からいなくなっちゃおうとしたわけ!?」
「俺は罪を得て左遷される身だよ。俺と関われば、君にも迷惑がおよぶかもしれない」
「だから私に何も言わなかったっていうの?」
レンリはセレカと距離を置くつもりだった。
ただでさえ、セレカの立場は微妙なのだ。
若くしてかなりの昇進を果たしているものの、それゆえにやっかむ敵も多い。
しかも貴族であると同時に進士でもあるから、貴族派と進士派の両勢力から警戒されている。
レンリは貴族派排除の陰謀に加担した嫌疑をかけられている。
セレカにとって、レンリと親しくするのは無用な疑いを招きかねない。
レンリはそう説明した。
「君のことを心配したんだよ。だから、あー、殴るのをやめてほしいな。……痛いから」
セレカはうつむいて、レンリの胸を叩いている。
そして、セレカの榛色の瞳から水滴がこぼれて、レンリの緑服を濡らした。
「な、なにも泣かなくても……。これが今生の別れというわけでもないし」
「泣いてなんかいない!」
完璧なセレカにたった一つだけ欠点があるとすれば、それはわがままなことだった。
レンリの前でだけ、セレカはとてもわがままになるのだった。
どうしたものかとレンリは困り、それから微笑んで、セレカの涙を指で軽く拭った。
セレカはびくっと震え、そして小声でつぶやいた。
「北辺の地はかなり危険だって聞いているの。
北の蛮族である翼人の問題は、帝国にとって悩みの種だった。
翼人は草原を馬で駆け、牧畜を主な生業とする。
そして、その騎兵集団で帝国領に侵入し、たびたび略奪を働いていた。
これに対して帝国は打つ手がない。
蛮族を慰撫するという名目のもと、金品を差し出して襲撃を免れることすらあるという。
だから、セレカはレンリが死ぬことを心配しているのだろう。
「大丈夫。俺は死なないよ」
「一緒にこの国を変えようっていう約束、覚えている?」
現王朝が腐敗しきっているのは、誰の目にも明らかだった。
皇帝は自らの快楽のみにしか興味がなく、巨額の税を徴収し、さらに地方の人民を酷使して大規模な庭園を作っている。
貴族は古くからの地位にあぐらをかいて傲慢な振る舞いをする者が多い。進士も権力闘争と不正による蓄財に熱中している。
こうして苦しめられた民衆たちの反乱は続発しており、帝国が苦戦することもあった。
が、結局のところ反乱は鎮圧され、参加者は妻子も含めて皆殺しにされている。
だから、レンリとセレカは一つの約束をした。
高官になって、この国の政治を変える。古の聖賢シレンの言うような理想の政治を実現するのだ。
その約束をしたのは、まだ科挙に受かったばかりの頃。
レンリが十八歳、セレカが十三歳のときのことだ。
あの頃のレンリはまだ、理想を実現することが可能だと信じていた。
でも、今は違う。
それでもレンリはうなずいた。
「もちろん約束のことは覚えているよ。セレカなら、きっとこの帝国の大丞相となれる」
「私だけが偉くなっても意味がないでしょう? あなたはどうなのよ?」
「俺は辺境に武官として飛ばされる身だよ。出世なんてとてもとても……いてて」
セレカにぎゅっと頬をつねられて、レンリは顔をしかめた。
「約束して。必ず帝都に戻ってくると誓いなさい」
「そうできればいいんだけど」
「レ、ン、リ?」
「……わかったよ。必ず俺はここに戻ってくる。そしてセレカの力になるよ」
「最初から素直にそう言えばいいのに」
セレカはレンリを上目遣いに見つめ、そしてようやく柔らかく微笑んだ。
「私もあなたが帝都に戻ってこられるように、できるかぎりの手を打つから」
「無理は禁物だよ。俺のせいでセレカまで失脚なんてのは勘弁してほしいからね」
「心配してくれてるんだ? でも、あなたと一緒なら、辺境に行くのも悪くないかもね」
「そんな事態にならないことを祈ってるよ。君は俺たちの希望なんだから」
セレカは優秀だ。
貴族と進士の両勢力を探してみても、彼女ほど優れた人材はほとんどいないだろう。
だが、そのセレカをもってしても、おそらくこの帝国の退勢を覆すことは不可能だ。
決して口にはできないけれど、レンリは密かにこう思っていた、。
現王朝の天命は尽きたのではないか。
この帝国は建国以来、幾度となく王朝が交代して、戦乱に見舞われた。
皇帝は天の命を受けて政治を行うが、もし皇帝にふさわしい徳を失えば、やがて新たな血筋の皇帝が現れるであろう。
それは古代の聖賢シレン以来の考え方であり、
まさに革命のときは迫っているのではないか。
セレカが大臣になるのを待っていては遅すぎるし、そもそもセレカ一人の力でどうにかできる問題でもない。
セレカもわかっているはずだ。
それでも、レンリやレンリの友人たちにとって、セレカは希望の星だった。
「安心して。私がへまなんてするはずないでしょう?」
そう言って、セレカは片目をつぶってみせた。
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