第36話 チャペル
「おーい、律くーん。起きてるー?」
翌朝、ホテルのロビーで会計を済ませた綾さんが、ベンチに座る僕の顔をのぞきこんできた。
「律くんの目、まだ閉じてるよ」
「だって、綾さんがぜんぜん寝かせてくれないから」
「りっ、律くんのばかっ! こんなところでなに言い出すのっ!」
綾さんが信じられないといった真っ赤な顔で慌て出す。
そんな綾さんの可愛らしいうろたえぶりを見ていたら、すっかり目が覚めた。
ホテルの前で綾さんとのツーショットを撮り、いよいよ車に乗りこむ。
「このままずっと泊まっていたかったね」
名残惜しいのは綾さんも同じらしい。
僕は今回の旅行で、すごく大人になった気がする。
それはもう、思い出すだけで恥ずかしさがこみ上げて、頭から白い煙がもうもうと噴き出すくらいに。
「また一緒に泊まりに来たいですね」
「ねーっ。次はいつにしようか? 秋、それとも冬?」
綾さんもよほど心が満たされたのか、朝からずっとニコニコしている。こんなにご満悦な綾さんを見るのは初めてかもしれない。
濃緑の山道を下り、鴨川を抜けてさらに西に車を走らせると、まもなく左手に太平洋が見えてきた。
「今日も海が綺麗だねえ」
綾さんが爽やかな声で告げる。
陽の光にきらめく水面。突き抜けるような清々しい青空。気持ちのいい初夏の海が目の前に広がっていて、窓を開けていなくても、海からの風や波の音が伝わってくるようだ。
僕たちがこの日最初に訪れたのは、海にほど近い場所にある、クジラに特化した珍しい道の駅だった。
「わっ、すごい迫力!」
綾さんが目を丸くしたのは、シロナガスクジラの実物大の骨の標本だ。
電車の車両一つ分よりもはるかに大きいそれは、とうてい建物のなかには収まらず、屋外に飾られている。
「律くん、並んで。はい、チーズ」
ぱしゃり。ここでも綾さんと記念撮影。綾さんは自撮りした写真をさっそく眺め、満足げに目を細めている。
建物のなかに入ってみると、天井から吊るされた赤いクジラのオブジェがお出迎え。
地元の農産物やお花も売られているけれど、クジラのカレーや肉まん、コロッケなど、どうしてもクジラ関連の食べ物に目が行ってしまう。
「食べてみたいけど、まだ全然お腹が空かないですね」
「律くん、朝からよく食べていたもんね」
「だって、バイキングなんですもん。一人暮らしだと、こういう時、つい張り切っちゃうんですよね」
「どうせ普段は質素な物しか食べていないんでしょう?」
「どうしても麺類やコンビニのお弁当に偏りがちで」
「しょうがないなあ。今度またご飯を作りに行ってあげるよ」
「やった」
クジラ料理が食べられないのは残念だけど、おかげで綾さんの手料理にはありつけそうだ。『海老で鯛を釣る』ならぬ『クジラで綾さんを釣る』だ。
次の目的地を目指し、ふたたび車を走らせる。
沿道に色とりどりの花が咲き誇る道路を走り抜け、次にたどり着いたのは、中世ヨーロッパ風の建物が立ち並ぶ道の駅だ。
広々とした敷地のなかにある、コの字型の二階建ての古風な建物に入ってみる。なんでもシェークスピアの時代を再現しているのだとか。
「なんだか昔の教会って感じですね」
「シスターって実際にこういうところに住んでいたのかな?」
見学していると、ほんとうに中世ヨーロッパにタイムスリップしたような気持ちになって、ここが現代日本だということを忘れてしまいそうになる。
「お花も綺麗だし、風情もあって、すごく雰囲気のいい所だね」
実は、たまたま見つけた道の駅の紹介サイトに、『カップルにおすすめ』って書かれていたんだよね。
もちろん、綾さんには内緒だけどね。こんなことを綾さんに知られたら、また勝ち誇ったような顔でからかってくるだろうから。
「見て! あっちにチャペルがある!」
夏の青空や緑の木々に囲まれて、白いチャペルが色鮮やかによく映えている。
「律くん、あのチャペルの前で写真を撮ろうよ」
綾さんは僕の手を引き、ゆっくりと進み出す。
いつしか僕たちは互いを求めるように指をからませ、恋人つなぎをして歩いていた。
まもなくチャペルに到着し、綾さんが屋根の上の十字架をじっと見上げる。
「可愛いチャペルだね。将来、式を挙げるならこういうチャペルがいいな」
綾さんがはにかんだ笑みを輝かせる。
僕たちの左の薬指にはペアリング。
僕たちはこのまま愛しい日々を積み重ねて、やがては結婚するのかな?
純白のウエディングドレス姿の綾さんを想像するだけで、鼓動が早くなってしまう。
けれども、そんな夢色のまぶしい未来を手に入れたければ、僕はもっと頑張らなくちゃいけない。
綾さんについてまだ知らないことが多すぎる、と僕は今回の旅行で思い知った。薬の事情や入浴の苦労なんて、想像さえできなかった。
――私と生活するの、律くんが想像しているよりずっと大変だよ?
以前、綾さんに言われた言葉を思い出す。あの時は大丈夫、と高をくくっていたけれど、一晩一緒に過ごしてみて、綾さんの言葉の重みが実感できた。
こんな僕が綾さんと結婚して共同生活を営むなんて、はたしてできるのだろうか?
「綾さん。僕たち、結婚したら上手くやっていけますかね?」
「あら、心配?」
「だって、僕、まだまだ綾さんのことを知らないから」
「いいんじゃない? 結婚してから知ることだってたくさんあるだろうし」
「ほんとうに、それでいいんですかね」
「私は嬉しいけどね。律くんが、そうやって私を理解しようとしてくれて」
綾さんは手を解き、僕と対峙する。
「律くんの愛がいつも私に向いているの、ちゃんと伝わっているよ。その気持ちさえあれば、たとえ結婚したってきっと上手くいくよ」
綾さんは満たされたような笑みをこぼし、僕に問いかける。
「松本律くん。あなたはここにいる遠山綾を将来妻として愛し、敬い、慈しむことを誓いますか?」
「誓います」
「たとえ病気でも?」
綾さんは茶目っ気たっぷりに、けれども真剣な目で僕に問う。綾さんが密かに抱える心の闇がかいま見えた気がした。
けれども、僕の心ならとっくに決まっている。
「病める時も、健やかなる時も、富める時も貧しき時も、片時も綾さんを離さないことを誓います」
「貧しき時は嫌だなあ」
「ですよね。頑張ります」
僕たちは顔を見合わせ、くすくすと笑い合う。綾さんの瞳からは、涙が溢れていた。
「やだ……私、この旅行で何回泣いているんだろう……」
僕は綾さんを優しく抱き寄せ、ぽんぽん、と頭を撫でてやる。綾さんはさらに僕に身を寄せると、顔を伏せ、静かに泣き続けた。
落ち着いた頃を見計らって、今度は僕のほうから問いかける。
「遠山綾さん。あなたは」
「誓います」
「まだなにも言ってませんよ」
「どうせ私と同じこと聞くんでしょう? 誓うに決まってるじゃん」
「せっかちだなあ」
綾さんが楽しそうに笑う。きっと綾さんなりの涙の照れ隠しなんだろうな。
そんな綾さんのいじらしさが愛おしすぎて、綾さんを抱きしめる腕にもしぜんと力がこもってしまう。
「ちょっと、律くん」
「すみません。綾さんがあまりに可愛くて」
「まあ、そういうことなら仕方ないんだけどさ」
綾さんもまんざらでもない顔で、むぎゅっ、と僕を抱き返す。
二人の顔はこれ以上ないくらいに近づいている。これはもう、キスする流れでいいんだよね?
「でも、律くん、気づいてる?」
「なにをです?」
「私たち、なんかすっごく見られてるんだけど」
「え?」
ハッとして顔を上げ、周囲を見わたしてみる。
さすがは道の駅。小さいお子さんからご年配の方々まで、たくさんの人たちが足を止め、温かい眼差しで僕たちの動向を見守っていた。
「そ、そろそろ行こっか」
「そ、そうですね」
僕たちはチャペルの前で写真を撮り、そそくさとその場を後にした。
綾さんのスマートフォンには、赤い顔で幸せそうに微笑む二人が鮮明に映し出されていた。
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