第35話 初夜(♡)

 綾さんがお風呂に行っている間、僕は千葉県の旅行ガイドブックを眺めていた。


「明日はどういうルートを行けばいいんだろう?」


 勝浦から帰るには、二通りのルートがある。


 一つは、来た道を戻り、鴨川を経由して館山方面へと海沿いを走る西ルート。

 もう一つは、大多喜方面を目指して内陸部を走る北ルート。


 綾さんが行きたがっていた道の駅が多いのは西ルートだ。今日はお見舞いのために先を急いだけれど、明日ならゆっくり見て回れそうだ。


 けれども、北ルートにも、養老渓谷やいすみ鉄道といった有名な観光名所はある。大多喜はかつての城下町で古い歴史があるようだし、街並みを眺めるだけでも楽しいかもしれない。


「とはいえ、やっぱり西ルートかな」


 大自然に囲まれた養老渓谷に立ち寄り、お蕎麦や野菜の天ぷらを味わう北ルートも魅力的だけど、渓谷はきっと綾さんの足には負担だよね。

 まだ見ていない道の駅も多いし、今回は西ルートにしよう。


「それにしても、ホテルの照明って、もう少し明るくならないのかな」


 あえて光を抑えて夜のムードを演出してくれているのだろうけど、ホテルに慣れない僕には、部屋のすべての照明をつけてもまだ暗く感じてしまう。


 そうこうするうちに、綾さんが帰ってきた。


「ふう、気持ちよかった~」


 色白の肌をほの赤く染めたお風呂上がりの綾さんは、浴衣姿も相まって妙に色っぽくて、つい目が離せなくなってしまう。

 綾さんのほうでも、僕の視線に気づいたらしい。手を広げ、顔を隠そうとする。


「今すっぴんだから、そんなに見ないで」

「すっぴんの綾さんも僕は好きですよ」


 表現として適切かは分からないけれど、剥きたてのゆで卵みたいにつるんとしていて、綺麗な肌だってことは僕にも分かる。


「またそんな調子のいいことを言って」


 綾さんが気恥ずかしそうに洗面所へと消えていく。反応がなんとも初々しい。


 綾さんが「新婚旅行みたい」と言うのも分かる気がする。付き合って八か月が経つけれど、いまだに発見が多くて、驚くことばかりだ。


 もし、遠い将来、ほんとうに綾さんと結婚することになったら、さらに新鮮な発見を積み重ねて、もっともっと綾さんを好きになってしまうのかな。

 そう考えると、楽しみでもあり、ちょっと怖い気もする。これ以上綾さんを好きになってしまったら、もう片時も離れられなくなってしまうかもしれない。


 まもなく綾さんが洗面所から戻ってきた。


「ところで律くん。私がいない間、なにしてたの?」

「明日どこ行こうか考えていて。来た道を戻りながら、今日行かなかった道の駅に寄ってみようかと思っているんですけど」

「いいね。そうしよう」


 綾さんが僕のとなりに腰を下ろす。L字型の大きなソファなのに、僕たちは窮屈なほど密になる。


「…………」

「…………」


 沈黙。いつもはしぜんに会話が交わせているのに、なぜかお互い言葉が出てこない。

 僕は、いつも以上に色っぽい綾さんを意識してしまって、内心ドギマギしていた。


「そ、そろそろ寝ます?」

「えー。私、まだお風呂から出たばかりだよ?」


 僕はまたしても口をつぐんでしまう。

 普段通りにしていればいいのに、その普段通りが今の僕にはなぜか難しい。


「あ、あのさあ」


 綾さんは潤いのある長い髪の先を細い指の腹でいじりながら、もじもじと、僕の表情をうかがいながらたずねてくる。


「律くん、今日、車のなかで私になにか言ってなかったっけ?」

「僕、なにか言いましたっけ?」

「ほら、今夜、私にどうとか……」


 はて、僕はなにを言ったんだろう? 記憶をさかのぼってみても、残念ながら思い出せそうにない。

 すると、綾さんはムッとしたような恥ずかしそうな赤い顔で、さらに続けた。


「もうっ、忘れたの? 律くん、言ってたじゃん。今夜、私に強引に迫ってくれるって」


 思い出した。たしかに僕は言っていた。



――じゃあ今夜、綾さんに強引に迫ってみます?



「でも、あれは冗談で。それに、綾さんだって言ってたじゃないですか、事前に言っちゃダメだって」

「それはそうなんだけど、するなとは言ってない。むしろ、してください」


 綾さんは僕の腕をつかみ、眉を吊り上げ、赤い顔で僕に強く要求してくる。


「えっ、ほんとにするんですか?」

「私、さっきお風呂で一人になって、ゆっくり考えたの。で、やっぱり、やるなら今夜しかないなって」

「やるって、なにを?」

「分かるでしょう? 私、もうホテルについてからずっとドキドキしっぱなしなのに、どんなに誘いかけてもとことんスルーされるし、焦らされてばかりで、もう爆発寸前なんだからね!」

「もしかして、怒ってます?」

「怒ってるよ! こんなにいい女がOKサイン出しているのに手を出さないなんて、律くんはそれでも男なのか! って、読者の皆さんだってきっと怒ってくれてると思う」

「あの、なんの話です?」

「律くんは、ほんとうに私のことが好きなんだよね?」

「それはもう」

「だったら……好きな男女が夜に二人きりでいるんだよ? 求め合うのが自然でしょう?」


 綾さんが目を固く閉じ、顎を軽く上げ、唇をツンとわずかに突き出して僕を待つ。

 どうしよう。綾さんの甘いキスの誘惑に、目がくるくると回ってきた。


 綾さんが僕に求めていることって――つまり、最後までしよう、ってことだよね? 

 そう考えたら、尋常じゃなく身体が熱くなって、心臓がバクバクしはじめた。


「で、でも、ここで綾さんに手を出して、お母さんの信頼を裏切るわけには」

「律くんは、私とママのどっちが大事なの? 私がしたいって言っているんだよ?」

「後でばれて、ホテル代とディナー代を請求されたりして」

「そんなのパパに払わせておけばいいんだよ」

「お父さんが聞いたら泣いちゃうと思う」


 綾さんはぷりぷり怒って見せたかと思うと、急に色っぽい表情へと変化し、僕に怪しく迫ってきた。


「私ってそんなに魅力ない? こんな私じゃ抱けない?」


 お風呂上がりの火照った身体でむぎゅっと抱きついてくる綾さん。

 二つの膨らみの柔らかい弾力が、薄い浴衣越しに伝わってきて……こんなの反則すぎですっ!


「私、もう我慢できないよ」


 ……って、これじゃ強引に迫っているのは綾さんのほうじゃないか! 言っていることとやっていることが、あべこべだ!


 でも、綾さんの表情はすごく真剣で、どこか切迫しているようにも感じられた。


「お願い、律くん。今夜、しよ。私の身体が丈夫なうちに」


 その一言で、僕は綾さんの気持ちのすべてを察した。

 やっぱり、綾さんにも自覚があるんだ。

 足が今まで以上に動きにくくなっている自覚が。


 それは、病が今もなお少しずつ進行している証かもしれなくて。

 綾さんが最も恐れている、記憶力の低下にもつながりかねない事態なんだ。


 綾さんが潤んだ瞳で切に訴える。


「律くん。今夜、私に絶対に忘れられない記憶をちょうだい……。律くんにずっと愛されていたっていう、永遠に消えない記憶を」

「綾さん……」


 僕は綾さんが大好きで。

 綾さんも、こんなにも僕を愛し、求めてくれている。

 この先どんなに時間が経ったって、どんな事件が起こったって、僕たちが互いを想い合っていた記憶だけは絶対に消せはしない。

 僕が消させるもんか!


「……分かりました」


 ついに僕たちは唇を重ねた。たちまち全身が燃えるように熱くなる。

 綾さんの頬からひと筋の涙が伝う。


「あれ? どうしてだろう……嬉しいはずなのに……涙が溢れてきちゃう」


 綾さんが僕の腕の中で顔を伏せ、声を震わせる。

 綾さんの震える背中をそっとなぞる。綾さんは涙を拭き、顔を見上げる。

 僕たちの視線が間近に交わり合う。


「僕は、綾さんのことを世界で一番愛しています」

「私もだよ。自分でもどうなっちゃうか分からないくらい、律くんのことを愛してる」


 綾さんの美しい瞳から、いっそう涙がこぼれ落ちる。


 それから、僕たちは互いの気持ちを確かめ合うように、強く抱き合った。


 怒ったり、恥じらったり、泣き出したり、余裕がなさそうだったり、切なげだったり、嬉しそうに笑ったり――。

 綾さんのどんな表情も僕にはまぶしくて、永遠に僕のそばにいてほしい、と願わずにはいられない。


 夜はしんしんと更けていく。


 僕は今夜ほど綾さんを愛おしいと思ったことはない。

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