第34話 フルコース

「律くん、起きて。そろそろレストランに行く時間だよ」


 綾さんに揺り起こされ、まぶたを開く。


「あれ? いつの間に寝ちゃったんだろう」


 ホテルのベッドの寝心地があまりに良くて、睡魔に少しもあらがえなかった。


「もう、ぐっすりだったよ。ほんとうに寝ちゃうだもんなあ」

「ごめんなさい、思った以上に疲れていたみたいで。まだ怒ってます?」

「ううん。それより、私にいかに魅力がないかを思い知りました」

「綾さんほど魅力的な人はいませんよ」

「そう思うなら、態度で示せ」

「やっぱり怒ってるじゃないですか」

「怒ってないって。ただ悔しいだけ」


 綾さんは頬をぷっくり膨らませ、スマートフォンを僕にかざす。


「あんまり悔しかったんで、律くんの寝顔をたくさん撮っちゃいました」

「ええ……。寝顔を撮るのはマナー違反だと思うんですけど」

「彼女はいいの」

「じゃあ、僕も綾さんの寝顔を撮りますね」

「それはマナー違反だよ」

「えっ?」

「だから、私の寝顔はマナー違反」

「つまり、彼女には許されて、彼氏には許されないってことですか?」

「そういうこと」


 綾さんはさも当然と言いたげに腕を組む。

 不平等だとは思うけれど、綾さんの言うことは絶対だ。

 仕方ない。綾さんの可愛い寝顔は、僕の瞳に焼きつけることにしよう。


「とにかく、行こう。ディナーの時間に遅れちゃう」


 綾さんの声に従い、僕たちは二階にあるレストランへと向かった。

 赤い絨毯の廊下を綾さんと並んで歩く。


「そういえば、綾さんこそ、午後、疲れてませんでした?」

「うん? どうして?」

「病院に向かう時、いつもより歩きにくそうにしていたから」


 一人で病院へと入っていく綾さんの後ろ姿を思い出す。

 あの時、綾さんはたしかに普段よりも身体を左右に揺らしながら歩いていた。


「そうかな? 特に疲れてはいないけど」

「ならいいんですけど。ちょっと違和感があったので」

「律くんの勘ちがいじゃない? 気にしすぎだって」

「そうですかね?」

「そうだって。私はこの通り丈夫だよ。さあ、美味しいものを食べに行こう! そんで夜には温泉に入って、その後は……ムフフ♡」

「なんです、その意味深な笑いは」

「なんでもなーい」


 綾さんの満面の笑みが怖い。いったい、どんな妄想をくり広げているのやら。




 綾さんと一緒にレストランにやって来る。

 ディナーは、僕の想像の遥か上をいく豪華なフルコースだった。


「美味しい~っ」


 綾さんが和牛ステーキを頬張り、うっとりと目を細める。


 開放的な一面ガラス張りのレストランからは夕闇に沈む勝浦の自然の風景が見下ろせ、さらに中庭のプールやヤシの木が美しくライトアップされ、ロマンチックな大人の雰囲気を見事に演出している。


 ……って、僕には場ちがいな所すぎるのですが。


「ほんとうに、こんなところに僕たちがいてもいいんですかね?」


 周りに目を向ければ、ゴルフを楽しんできたと思われる恰幅のいいおじ様方や、慎み深い老齢のご夫婦などが上品に食事を楽しんでいらっしゃる。

 もちろん若いファミリーも利用してはいるけれど、僕たち大学生二人組のような若輩者の姿はどこにもない。


「いいに決まってるじゃん。ちゃんとお金払っているんだし」

「そうなんですけど、よくご両親が出してくれましたね」

「たまには律くんにも美味しい物を食べさせてあげたいんだよ、ママも」


 娘に彼氏ができると、母親もやっぱり嬉しいものなのかな? 僕には分からない。

 けれども、お母さんが僕を気に入ってくれているのなら、すごくありがたいことだと思う。


「でも、いくらなんでもやりすぎじゃありません?」


 冷製スープに前菜、お刺身、ステーキ、その上デザートまでつくなんて。

 たとえごちそうになるにしたって、こんな豪華なフルコースでなく、名物の勝浦タンタンメンくらいでも僕は十分嬉しいのですが。


「あ、でも後でパパから律くんに請求書が届くって」

「えっ……?」


 たちまち、僕の顔からサーッと血の気が引き、全身が震え出す。

 綾さんがお腹を抱えて笑い出した。


「あはは、冗談だって。パパはそんな意地悪しないよ」

「もう、からかわないでください。もしそんなことになったら、当分は綾さんの元でタダ働きしなくちゃいけないじゃないですか」

「フフッ。しっかり勤めたまえよ、律くん」

「すっかりその気になってるし」


 優雅で楽しいフルコースはあっという間に終わり、最後にデザートを堪能すると、僕たちはレストランを後にした。


「はあ~、食べたあ~」

「豪勢すぎて、まだ胃が落ち着きません」

「ねっ。私についてきてよかったでしょう?」

「これからも一生ついていきます」

「うむ、そうしたまえ」


 綾さんは満足げに微笑み、さらにたずねる。


「で、この後はどうする? お風呂行く?」

「そうですね。綾さんは?」

「行きたいけど、お風呂に手すりは付いているかな?」

「手すり、ですか?」

「付いてなかったら部屋のお風呂でもいいんだけど」


 なるほど。階段が苦手な綾さんは、お風呂に入るにも手すりがないと厳しいらしい。


 僕の前ではいつも明るくふるまっているから気づかないけれど、日常生活において、やっぱり綾さんには健常者とは異なる苦労がたくさんあるのだ。


 そういう点に気づけたという意味でも、このお泊り旅行は、僕にとって、とても有意義なものなのだった。


「悪いんだけどさ。律くん、先に大浴場に行って様子を見てきてくれる? 律くんが戻って来てから、私も行くか、部屋で済ませるか決めるよ」

「分かりました」


 こうして、僕は部屋に戻ると綾さんと別れ、先に大浴場へとやって来た。


 明るく落ち着いた雰囲気の大浴場。外はすっかり暗くなったけれど、目を凝らすと、遠くに太平洋が見える。明るい時間に来たら、きっと見晴らしがいいんだろうな。

 幸い、大きな湯船には手すりがちゃんと付いていた。しかも、左右の手で持てるよう、親切にも二つある。これなら綾さんでも大丈夫かな。


 入浴を終え、部屋に戻る。


 綾さんは浴衣にすっかり着がえ、静かに本を読んでいた。

 明るすぎないホテルの一室にたたずむ綾さんの浴衣姿は雰囲気がありすぎて、目にした途端、ドキッと心臓が跳ねた。


「えっ、もう帰ってきたの!?」


 一方、綾さんのほうでも驚いたのか、大きな目をくりくりっと丸くしている。


「大丈夫? ちゃんと温まってきた? ドライヤーで乾かした? 風邪引かない?」

「そんな矢継ぎ早に聞かれても。それより、ちゃんと手すりは付いていましたよ。あれなら綾さんでも入れそうです」

「よかった。それなら、後で行ってこようかな」

「今なら空いていますよ」

「ううん。薬を服用してからすぐには入れないから。一時間くらい経ってから行ってくるよ」


 知らなかった。薬って、入浴の時間にまで影響を与えるんだ。


「薬と言えば、あの冷蔵庫に入れた小瓶、あれも飲み薬ですか?」

「ううん。あれは鼻から取り入れる薬」

「鼻から?」

「うん。細いチューブに薬を一滴垂らしてね。チューブの両端を鼻と口に差しこんで、息を吹きかけて鼻から薬を吸いこむの」


 綾さんは慣れた調子で平然と説明してくれた。


 綾さんから聞かされる話は知らないことばかりで、僕は少なからず落ちこんだ。

 まさか鼻から取り入れる薬があるなんて、想像もしていなかった。


 僕はソファに座る綾さんのとなりに腰を下ろし、しょげ返る。


「すみません。僕、綾さんのことを分かっているつもりで、ぜんぜん分かっていませんでした」


 入浴の苦労から薬の事情まで、僕にはまだ気づいていないことが多すぎる。これでよく綾さんに寄り添っているつもりになっていたものだ。

 綾さんは不思議そうに首を傾げ、それから優しく諭すように言った。


「そうだねえ。律くんは私のこと、ぜんぜん分かっていないかもねえ」

「やっぱり……」

「律くんは私を美化しすぎだよ。ほんとうは私、そんなに綺麗でもないし、心のなかではすっごい欲望がうごめいているかもよ?」

「欲望? どんなです?」

「ふふっ、ダメだよ律くん。それを女の子に言わせようとしちゃ」


 綾さんは、ふふーん、と悪戯っぽい笑みを浮かべ、となりに座る僕の肩の辺りに頭を預けて寄りかかってくる。


「お姉さんはいつまでも待っているよ。律くんが私の心の扉を開けてくれる日をね」

「またそうやって僕を子供扱いして」

「……なんなら今夜でもいいんだよ?」

「えっ?」


 とまどう僕に、綾さんが怪しげに笑う。

 そして、甘えるように僕と腕を組み、手のひらを重ね、指を絡めて恋人つなぎをしてきた。


「幸せだね、律くん」

「それはもう」


 綾さんとソファに並んで、二人きりでゆるやかな夜を過ごす。


 綾さんの柔らかい身体からは温もりが伝わってきて、僕の心臓はずっとドキドキしっぱなしだ。


 今夜、僕、ちゃんと寝られるかな……。


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