第33話 チェックイン。ベッドイン?

「わあ~っ! 綺麗~っ!」


 ホテルの部屋にたどり着くなり、綾さんが窓辺に立ち、感嘆の声を響かせた。

 窓の外には緑の木々。眼下には勝浦の港町が小さく見え、さらには夕暮れ色に染まる雄大な太平洋が広がっている。


 僕たちが泊まるホテルは、小高い山の中腹にあった。

 見上げるほどに大きなホテルで、背の高いヤシの木が等間隔に植えられ、南国リゾート気分を高めてくれている。中庭にはプールがあり、さらにテニスコートやゴルフ場なども併設されているらしい。


 ……って、さすがに豪華すぎません? 僕たち、ただの大学生ですよね?


「うふふっ。いいお部屋でよかったね」


 綾さんが機嫌よさそうにニッコリ笑う。

 綾さんにはこなれた感じがあって、態度にも大人びた余裕が見て取れる。あまりにも立派なホテルで圧倒されている僕とは大違いだ。


「でも、お高いんでしょう?」


 つい料金が気になって、僕の口から、テレビの通販番組の常套句みたいな言葉がもれてしまった。

 綾さんがおかしそうに笑う。


「心配しなくていいよ。うちで出すから」

「えっ!? そういうわけには」

「いいの、いいの。だって、今回は私のわがままに付き合ってもらったんだもの。これくらいして当然だよ」

「労働に対する報酬があまりにも大きすぎるのですが」


 綾さんを独り占めして、お泊りまで許してもらって、その上ホテル代まで出してもらえるなんて。そんなの、申し訳なさすぎる。


「どうして僕のためにそうまでしてくれるんです?」

「それはこっちのセリフだよ。律くんはどうして私のためにここまでしてくれるの? わざわざ車を借りて、お見舞いにまで付き合ってくれて」

「だって……僕は綾さんの彼氏だから」


 改めて口にしたら、急に恥ずかしさがこみ上げてきて、顔が熱くなってきた。


 僕はきっと、『好き』という言葉よりも、ずっと綾さんのことが大好きで。

 綾さんのためならなんだってしてあげたい――そう思えるくらい、僕は綾さんに尽くしてあげたい気持ちになってしまう。

 きっと綾さんが僕にいつも優しいから、僕も愛情のお返しをしたくなるんだろうな。


「私もだよ。ううん、私だけじゃない。私の家族みんなが律くんのことが好きなんだよ。だから旅行の費用だって出してくれて」

「家族みんな、って。お父さんもですか?」


 怖々とたずねてみる。

 溺愛している大切な一人娘をこうして独占している僕を、お父さんが好きになるはずがないような……。


「うん。パパも応援してくれているよ。ただ、分をわきまえたお付き合いにしなさい、とは言われているけど」


 やっぱり、なにか言わずにはいられないよね。

 お父さんの信頼を裏切らないためにも、これからも綾さんを傷つけるようなことは絶対にしないように気をつけなくちゃ。


 綾さんは照れくさそうに少しうつむき、それから窓辺に並んで立つ僕の腕に自分の腕をからめると、甘えるように身を寄せてきた。


「……なんかさ。新婚旅行に来たみたいだね」


 綾さんがはにかんだ笑みを浮かべ、うっとりとした瞳で僕を見上げる。

 綾さん、そんなとろけそうな笑顔は反則です。そんな顔をされたら、好きにならないわけがないじゃないですか。


 『新婚旅行』というパワーワードと、夕日に輝く綾さんの甘い笑顔があまりに尊くて、僕の顔からボッ! と火が出る思いがした。


 僕の腕が、しぜんと綾さんへと伸びる。

 もう、このまま綾さんを抱きしめても許されるよね?


「あっ、そうだ。薬をしまわなきゃ」


 綾さんが急に「すん」とすました素の表情に戻る。そして、僕の腕からするりと逃れると、そそくさと小型のクーラーボックスへと向かっていく。

 そして、なかから保冷剤と小さな小瓶を取り出し、備えつけのコンパクトな冷蔵庫へと大切そうにしまいこんだ。


「…………」


 その間に、僕はL字型の大きなソファの隅に黙って座り、火照った顔を扇いで冷ましていた。

 危なかった。いくら綾さんが反則級に可愛いからといって、衝動的に手を出していいはずがないよね? 

 綾さんみたいな素敵なお嬢様とお付き合いさせていただいているんだもの。僕ももっと紳士でいなくちゃ。


「ディナーまでまだ時間があるけど、律くん、どうする? 先にお風呂に入ってくる?」

「いえ、少し横になってもいいですか?」

「いいよ。ずっと運転してくれていたもんね。さすがに疲れたよね」


 綾さんが僕を労わるように優しく微笑む。

 僕は立ち上がり、部屋のなかで存在感がありすぎる大きなベッドの一つに仰向けに転がった。

 ふかふかで、あまりに心地よくて、このまま深い眠りに沈みこんでしまいそう。

 綾さんが、僕に調子を合わせるかのように、大きく伸びをした。


「ふわぁ、私も横になろうかな。えいっ」


 綾さんもまた、可愛らしいかけ声とともに、ベッドに身を投げ出す。


「……って、どうして綾さんまで僕のベッドに来るんです?」

「さあ、どうしてだろうねえ」


 僕が寝そべる横に、綾さんが身体を密着させてくる。いい匂いがした。


「綾さんのベッドはとなりだと思うんですけど」

「私、こっちのベッドがいい」

「じゃ、どきますね」


 僕はむくっと立ち上がり、となりのベッドに移動する。

 すると、綾さんもついてきて、やっぱり僕と同じベッドに寝転んできた。


「綾さんのベッドはあっちなのでは?」

「私、やっぱりこっちがいい」

「もう、どっちなんですか」

「律くんがいるほうがいい」


 頬を紅潮させ、好奇に満ちた瞳をキラキラと輝かせて、べったりと甘えてくる綾さん。

 その柔らかい感触に僕はずっとドキドキしっぱなしで、顔は火傷したみたいに熱い。


「今日は綾さんのほうが甘えん坊ですね」

「そんなことないよぉ」

「酔っぱらいみたい」

「たしかに。……私、ずっと酔っているのかも。律くんに」


 綾さんは腕を伸ばし、さらにむぎゅっ、と僕に抱きついてくる。

 あっ、これ以上はいけませんよ、お嬢様。僕だって一応男なんですからね。

 綾さんが僕の耳元で照れくさそうにささやく。


「ありがとね、律くん。私にこんな素敵な恋愛をさせてくれて」

「それを言うなら、僕のほうこそ」

「……きっと、運命だったんだろうね。私たちの出会いって」


 先ほどまでとは違う、しんみりとした声だった。


「私、病気にかかってから、ずっと気分がふさぎこんでいた。この先どうなるんだろうって、ずっと不安だった。……でもね、律くんと出会って、すべてが変わったの」


 綾さんの声に、涙の色がにじみ出す。


「律くんはこんな私でも愛してくれる。ずっと自信が持てなかった私を肯定して、受け入れて、好きだと言い続けてくれる。それが病に侵された私にとって、どれほど救いだったか、心の支えだったか……律くん分かる?」


 綾さんの澄んだ瞳が潤いを増し、涙がこぼれそうになる。



――私に会えば、がっかりするかもしれません。



 綾さんと出会う前に僕に届いたメッセージを、今さらながら思い出す。

 綾さんはどれほど震えながらこのメッセージを僕に送ってくれたのだろう?


 僕は綾さんへと腕を伸ばし、なだめるように髪を優しく撫でてあげた。

 僕は知っている。綾さんの豊かな髪に隠れた頭部には、手術で縫った傷跡が今もくっきりと残っていることを。


「律くんと出会ってから、気持ちもずっと明るくなれて、毎日がとても楽しいの。……おかしいよね。それまで家にこもりがちだった私が、律くんに会いたい一心で、急におめかしして外に出るようになるなんて。私、単純なのかな」

「いえ、むしろ嬉しいです。僕も、毎日でも綾さんに会いたいですから」

「律くぅん……」


 綾さんの目尻に浮かぶ涙の粒を、指の背でそっとぬぐう。綾さんはくすぐったそうに笑みをこぼす。すると、さらに涙が頬を伝って落ちた。

 綾さんが、急にもじもじしながら、潤んだ上目づかいで僕に告げる。


「それでね。さっき車のなかでも言ったんだけど……。律くんも、私にわがまま言ってくれていいからね」

「わがまま、ですか?」

「うん。律くんだって、私としたいこと、いっぱいあるでしょう? なんでも言ってくれていいよ。私はもう……律くんにすべてを捧げる覚悟は、できているから」


 綾さんはそこまで言うと、表情を隠すように、僕の胸に顔をうずめた。

 よほど恥ずかしいのか、耳まで真っ赤になっている。


 綾さんがここまで言ってくれているんだもの。僕も覚悟を決めなくちゃ、ね。


「それじゃ、一つだけ、わがまま言ってもいいですか」

「うん。なぁに?」


 綾さんの声が緊張している。

 一方、僕も心臓が痛いくらいに高鳴っている。僕の心臓の音、絶対綾さんに聞かれているよね。

 僕はごくっと息を飲み、ついに口を開いた。


「あの、いったん離れてくれます? このままだと僕、眠れないので」

「なんでよ!?」


 ぷんすか怒り出す綾さん。枕をつかみ、僕に投げつけ、たいそうご立腹でいらっしゃる。


 でも、これ以上綾さんに抱きつかれたら、僕はどうにかなってしまいそうな気がして。


 きっとこれが紳士的な態度というものだよね?

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