第32話 妄想水着
綾さんの従姉が入院している病院は、海岸沿いの道路に面した場所にあった。
病院の入り口前のロータリーに車を停め、綾さんを降ろす。
「せっかくですから、ゆっくりしてきてくださいね。連絡をもらえたら、すぐに迎えに来ますから」
「ごめんね、待たせちゃって。それじゃ、また後で」
綾さんはにこやかに手をふり、小さな歩幅でゆっくりと歩いていく。
遠ざかる細い背中を見送っていると、ふと、いつもとは異なる変化に気がついた。
――綾さんの歩みが、普段よりも鈍いような……。
綾さんの身体の左右の揺れ幅が、いつもよりも大きい。それに、歩く速度にしたって、普段はもう少し速く歩けている気がする。
ずっと車に乗っていたから、身体が急には動かないのだろうか。あるいは、久しぶりに従姉と会うのに緊張しているのか。
理由は分からない。けれども、綾さんの歩みを眺めていると、わずかな違和感を覚えずにはいられない。僕の勘ちがいならいいのだけど……。
綾さんは以前、これ以上足が悪くなるようなら手術もありえる、と僕に打ち明けていた。
――まさか、病が進行しているってことはないよね……?
「大丈夫かな、綾さん」
不安がしぜんと口をつく。
僕は祈るような気持ちで綾さんをじっと見守り、ようやく病院内に姿が消えると、車を走らせた。
松の木が並ぶ海沿いの直線を走る。家族連れやカップルの姿が歩道に多いのは、近くに大きな水族館があるからだろう。
シャチやイルカに加え、アシカやベルーガなどのショーも楽しめるらしい。他にもウミガメやペンギンなど数多くの海洋生物が暮らしていて、単なる水族館というよりは、むしろ総合海洋レジャーパークとでも言ったほうが適切かもしれない。
「とはいえ、一人で行くわけにもいかないし。とりあえず、駅のほうに行ってみるか」
特に当てはないものの、安房鴨川駅のほうへと車を走らせる。
観光するにしたって、綾さんと一緒だから楽しいわけで。一人になると、とたんに熱が冷めてしまう。
僕はきっと綾さんに尽くすのが好きで、もっと言えば、綾さんの喜ぶ顔を見るのが好きなのだろう。
そんな僕を綾さんはMだと笑う。認めがたいけれど、少なくとも、そういう意味では僕は綾さんに依存しているのかもしれない。
だから、こうして一人見知らぬ街に放り出されると、どうしていいのか、まるで見当がつかなくなってしまうのだった。
途中、駐車場が広いお土産屋さんを見つけ、これ幸いと車を停める。
そして、同じ敷地内にある、白い外装が目にも爽やかな、海の家のようなおしゃれなカフェへと足を運んだ。
ここでコーヒーでも飲んで時間をつぶしていよう。
「いらっしゃいませ」
入るなり、甘い香りが鼻をくすぐった。
どうやらバウムクーヘンが売りのお店らしい。輪切りにされたバウムクーヘンの中央の丸い円のなかに生クリームがぎゅっとつまっているのを見ると、つい食べたくなってしまう。
それ以上に僕の目を引いたのは、
「か、可愛えぇ」
壁に飾られた、ピーナッツに猫の耳がついたキャラクターのイラストボードだった。
木更津でも見かけた罪深いほど愛らしいピーナッツ猫に、こんな所でふたたびお目にかかれるとは。
明るい店内の雰囲気とキャラクターの可愛らしさに流され、コーヒーを飲むつもりが、ついクリームソーダなんて注文してしまった。
緑色に弾ける炭酸飲料の上に、白いアイスクリームが島のようにぽっかり浮かび、さらに色鮮やかな赤いサクランボが乗っている。
「君のせいで、こんなに可愛らしいものを注文しちゃったじゃないか」
飾られたピーナッツ猫に心のなかで文句の一つも言いつつ、窓側の席に座る。
そして、クリームソーダを飲みながら、改めてお店のなかを見わたしてみた。
天井にはサーフボードが飾られ、いかにも海辺のカフェといった趣。なんだか波の音まで聞こえてきそうだ。
僕はクリームソーダを味わいながら、そっと目を閉じ、空想の世界に思いをはせた――。
穏やかな波の音が耳に心地よい夕暮れ時の砂浜で、綾さんが長い髪を風になびかせ、僕に微笑みかける。
綾さんは艶やかな水着姿で、腰にはパレオを巻いている。色白の肌がまぶしく、僕は思わず息を飲む。
……って、なにを考えているんだ、僕は。
「もし、僕が綾さんの水着姿が見たいって言い出したら、綾さん、どうするんだろう?」
ふと、そんな疑問が頭をよぎる。
綾さん、さっき車のなかで言ってたよね。もっとわがままを言ってもいいって。
もし、僕が急にわがままを言い出して、「綾さんの水着姿が見たいです」ってお願いしたら、どんな反応を示すのだろう?
「うぅ……私、どうしてあんなこと言っちゃったんだろう……」
綾さんは唇をツンと尖らせ、顔を真っ赤に染めながら、もじもじと恥じらいつつ水着姿を披露してくれるだろうか?
そんな綾さんが見られるなら、ぜひお願いしてみたい。
あるいは、怒り出すだろうか?
「……サイッテー。律くんがそんな人だとは思わなかった」
想像のなかで、綾さんの美しい顔が険しく苦々しいものへと変わっていく。
「だって、綾さんがわがままを言ってもいいって」
「律くんさあ、世の中には限度というものがあるのをご存じ? さっき私に言ったこと、もう一度大きな声で言ってもらえるかなあ?」
「あ、綾さんの水着姿が見てみたいです」
「ふぅん、言えちゃうんだ。それが律くんの本性ってワケ? いやらしい。もう金輪際、私の前に現れないで。さようなら」
「そんなぁー」
なんて展開になったらどうしよう。
でも、心優しい綾さんのことだから、案外笑って許してくれるかも。
「うふふっ。律くん、お姉さんの水着がそんなに見たいんだ」
「む、無理ならいいんですけど。ただ、ちょっと興味があるっていうか」
「仕方ないなあ。見せてあげないこともないけど、ただし、条件があるよ」
「条件?」
「律くんも脱いで」
「えっ、僕も水着になるんですか!?」
「当たり前だよ。そうじゃないと、フェアじゃないじゃん。律くんが水着にならないなら、私も水着にならないからね」
「ぼ、僕も水着になります!」
「ふぅん。そうまでして私の水着姿を見たいんだ。それが律くんの本性ってワケ? いやらしい。もう金輪際、私の前に現れないで。さようなら」
「そんなぁー」
……って、結局バッドエンドじゃないか! それに、必死すぎるぞ、妄想のなかの僕! だいたい、僕の水着姿なんて読者サービスにもなりはしない。
自分が言われて困ることは、綾さんにも求めちゃダメだよね。沈黙は金、言わぬが花。水着のことは黙っておこう。
クリームソーダを飲み終えて、席を立つ。けっして長居をするつもりはなかったけれど、意外と時間が経っていた。
「結局、こうして綾さんのことを考えている時間が一番楽しいんだよね」
心のなかでそうつぶやいて、一人呆れる。どうやら、今の僕には綾さんのいない人生は考えられないみたいだ。
そうこうするうちに、綾さんから電話がかかってきた。
慌てて病院まで迎えに行く。まもなく合流し、綾さんを助手席に乗せると、今度はホテルのある勝浦方面へと走り出した。
「どうでしたか、久しぶりの再会は」
「すごく喜んでくれたよ。おかげで元気になれそうだって。私のほうこそ元気をもらっちゃった。それとね」
綾さんが運転する僕の横顔をじっと見つめ、嬉しそうに微笑む。
「今度、彼氏に会ってみたいって」
「え? じゃあ、僕も会いに行ったほうがよかったですか?」
「ううん、大丈夫。従姉ね、退院したら今度はこっちに遊びに来るって。だから、その時には二人で従姉を迎えてあげようね」
「はい。早く退院できるといいですね」
車はしだいに鴨川を離れていく。
海沿いの道はわずかに内陸へと逸れ、うっそうとした木々やトンネルが増えてきた。勝浦はもうすぐだ。
綾さんが予約してくれたホテル、いったいどんな所なんだろう?
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