第28話 お父さん
七月初めの土曜日。
ついに綾さんとのお泊りデートの日がやって来た。
夏の青空が爽やかに晴れわたり、まるで僕たちの門出を祝うかのように明るく輝いている。
朝八時ごろ、綾さんの実家までいつものレンタカーで迎えに行くと、
「あら、いらっしゃい」
玄関先で花に水をやっていた綾さんのお母さんとばったり遭遇した。
お母さんはいつも僕をにこやかに出迎えてくれる。
「ごめんなさいね、綾がいつもわがまま言って」
「いえ、綾さんにはいつも助けられています」
「うふふ、律くんはほんとうにいい子ね」
お母さんは笑みを深め、おっとりとした調子で続ける。
「あの子、以前は家にこもってスマホばかり見ていたから、心配していたの。それが律くんと出会って、外に出かけるようになって。律くんには感謝しているわ」
意外だった。
僕の印象では、綾さんはいつも快活で、行動的だ。
大学、僕の家や最寄り駅、アルバイト先、ライブ会場……綾さんは自分の足でいろいろな場所に出かけていく。
だから、いくら読書やゲームが好きな綾さんとはいえ、家にこもり続ける姿はあまり想像できない。
でも、かつて僕がなにげなく投稿したSNSに最初に反応してくれたのは、他でもない綾さんだったわけで。
もしかしたら、お母さんの言う通り、僕と出会う前はあまり家から出ずにSNSをずっと眺めているような生活を送っていたのかもしれない。足が悪いのだから、仕方のないことだとは思うけれど。
もし、僕と出会ったことで綾さんに前向きな変化が起きたのだとしたら、こんなに嬉しいことはない。
「綾が迷惑ばかりかけるようなら言ってね。私からも注意するわ」
「もう、ママは黙ってて!」
家のなかから、綾さんが慌てて飛び出してきた。
半袖のブラウスに、足元がすっきり見える長めの丈のスカート、白いスニーカー。そして、左の薬指に光るシルバーリング。
綾さんが、僕からのプレゼントをちゃんと身につけてくれている。それだけで嬉しくて、頬がしぜんと緩んでしまう。
綾さんは、キャリーバッグのほかに、小型のクーラーボックスを車に持ちこんだ。
「綾さん、これは?」
「なかに薬が入っているの。冷やしておかないといけないから」
どうやら錠剤のほかに、冷却が必要な薬もあるらしい。
綾さんと交際してもう何か月も経つのに、病気と付き合う綾さんの過酷さを改めて思い知る。
綾さんは、今日も時間をかけて一生懸命助手席に座ろうとする。ドアを思い切り横開きにして、曲げにくい脚をなんとか折りたたんで。
そうまでして僕のとなりに座ろうとしてくれる気持ちは嬉しい。けれども、苦戦しながら乗車する姿を目にするたびに、いつも胸がふさがるような申し訳なさも感じるのだった。
「それじゃ、レッツゴー!」
ようやく助手席に乗りこんだ綾さんが、笑顔で明るい声を弾ませる。
今日の綾さんは朝からテンションが高い。
もしかして、お泊りだから?
どうやら心が舞い上がっているのは僕だけではないみたいだ。
まずは木更津に行った時と同じように、国道十六号線を走っていく。
「律くん、今日はどういうコースを考えているの?」
「とりあえず館山まで南下して、そこでお昼を食べようかと。それから鴨川に向かい、綾さんを病院に届けます。夕方には合流して、勝浦のホテルに行けたらなって」
「予定がいっぱいだね」
「道が混んでいたら予定を変更するかもですが。……すみません。ちょっとコンビニに寄ってもいいですか?」
「いいけど、なにか買うの?」
「いえ、そういうわけじゃないんですけどね」
まもなくコンビニを見つけると、駐車場に車を停める。
そして、僕はバッグから大切なペアリングを取り出すと、左の薬指にはめこんだ。
「律くん、指輪してないなーって思ったら、今するんだ」
「だって、綾さんのご家族に見られたら恥ずかしいじゃないですか」
綾さんとお揃いのペアリングをしているところをご家族に見られたらと思うと、恥ずかしいやら恐れ多いやら、想像するだけでゾッとする。
「私は別に見られてもいいと思うけどなあ。ママも知ってるし」
「えっ? ご存じなんですか?」
「現に私がしてるんだし、隠しようなくない?」
綾さんは視線を落とし、薬指に光るリングを愛おしそうにじっと見つめる。
綾さんとお母さんは距離が近いから、僕の言動なんてすべて筒抜けなのかもしれない。気をつけないと。
さすがに駐車場を借りるだけでは悪いので、コーヒーだけ買って戻ってきた。
「お待たせしました」
ふたたび車を走らせる。
慣れないペアリングをつけた左の薬指がにわかに熱を帯びてきて、頬が火照ってしまう。
けれども、それ以上に誇らしい気持ちが沸いてくるから不思議だ。
綾さんとお揃いだと、僕は一人じゃないって強く実感できるから、気持ちが大きくなるのかもしれない。
国道を順調に走っていると、ふいに綾さんが口を開いた。
「前から思っていたんだけどさ、運転している男の人って格好いいよね」
「そうですか? じゃあ、今の僕も格好いいですか?」
「ふふ。さあ、それはどうだろうねえ」
「綾さんの口から格好いいって言われてみたかった」
「嘘うそ。世界で一番格好いいよ」
「それこそ嘘じゃないですか」
僕は苦笑した。
僕だって、いつかは綾さんに褒めてもらえるくらい格好よくなりたいとは思うけれど、どうしたらそうなれるんだろうね?
「でも、だとしたら車がますます欲しくなりますね。綾さんともっと頻繁に出かけられますし」
「じゃあ、買っちゃう?」
「そんな簡単には買えませんよ。駐車場も借りなきゃですし、とても」
「それなら、うちの車を使えば?」
「綾さん家の車は怖くて乗れません」
実は、綾さんの家の車庫にはいつも白い外国車が停まっている。僕が運転してうっかりぶつけでもしたら、とても弁償できそうにない。
それにしても、綾さんのお父さんって、いったい何者なんだろう?
これまであえて触れてこなかったけれど、綾さんのことをさらに理解するためにも、ちゃんと知っておく必要はありそうだ。
「綾さんのお父さんって、どんな方なんですか?」
「普通のサラリーマンだよ」
「普通じゃ高級車は買えませんよ。エリートサラリーマンって感じがしますけど」
「そうなのかな? たしかに何不自由なく過ごさせてもらっているけど。車はパパの趣味だから」
なるほど。たしかに、普段は慎ましやかな生活を送っておきながら、突然ドカンと大きな買い物をする人っているよね。綾さんのお父さんもそういうタイプなのかな?
自分で稼いだお金だもの、好きに使えばいいとは思うけれど、それにしてもすごい。
「どんな仕事をなさっているんですか?」
「建築関係とは聞いているけれど、詳しくは」
綾さんは肩をすくめ、さらに僕に教えてくれた。
「パパは昔から仕事人間で。帰りも遅かったし、休日に家族サービスなんてしてくれなかったから、娘や家庭にはあまり関心がない人なんだって思ってた。……でもね、私が入院してからは、毎日早く帰ってきて、できる限り病院に寄ってくれて。時々、私が退屈しないように少女漫画を買ってきてくれたりしてね。あのパパがいったいどんな顔をして本屋で少女漫画を買っていたのか、想像できないけど」
綾さんはクスっと笑い、懐かしげに目を細める。
「私ね、入院して初めてちゃんとパパに愛されているって実感したんだ。それまでは私も幼くて、パパが家族のために頑張ってくれていたんだって、あまり気づいていなかった。親不孝な娘だよね。だからバチが当たったのかな。病気になって、ますます家族に迷惑をかけて」
「そんなことないですよ。綾さんみたいな娘がいたら、お父さんだってきっと誇らしいと思いますよ」
「ありがとう。律くんはいつも私に優しいね」
「綾さんほどじゃないですけどね」
『雨降って地固まる』という言葉があるけれど、もしかしたら、綾さんのお父さんもそうだったのかもしれない。
きっとお父さんは、綾さんが病気になって、生活を改めたんじゃないかな。家族との時間をもっと大事にしようって。
だから、綾さんが病気になって、かえって深まった家族の絆もあるんじゃないかって、そんな気がするんだ。
まして、綾さんは大切な一人娘だもの。最愛の娘のために最善を尽くしたいと願う――父親って、きっとそういうものなのだろう。
お父さんとはまだ一度もお会いしたことがないけれど、いつかじっくり話を聞いてみたいな。
「それにしても、綾さんのお父さんって、僕が家まで迎えに行っても絶対に出てきませんよね。今朝は家にいらしたんですか?」
「いたよ。でも、複雑な気持ちみたい」
「複雑な気持ち?」
「彼氏に会ってみたいような、会いたくないような、そんな気持ちみたいだよ」
なるほど。
僕とお父さん。ちょっと似ているかもしれない。
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