第27話 同じ部屋でいいの?
六月中旬の、とある午後。
「お見舞い、ですか?」
「うん」
部屋のソファに並んで座る綾さんが、僕の声にうなずく。
綾さんが僕の家を訪れてくれたのだ。しかも、駅前にフルーツサンドのお店ができたから、とお土産まで持参して。
おかげで、僕はこうして綾さんとフルーツサンドを食べながら、充実した午後をまったり過ごしているというわけだった。
「鴨川のほうに従姉が住んでいてね。今、入院しているんだ」
「もしかして、感染症ですか?」
「ううん、そうではないんだけどね。私とわりと年が近い、姉のような人で。私が入院した時、なにかと気にかけてくれたんだ」
どうやら、よほど信頼を寄せている人らしい。心配そうに眉尻を下げる綾さんからは、普段通りにふるまいながらも密かに気落ちする様子が伝わってきた。
「鴨川って、千葉の南のほうにあるんでしたっけ」
「うん。太平洋に面した街でね。子供の頃には海に遊びに行ったり、水族館に連れて行ってもらったりしたなあ」
綾さんが懐かしそうに目を細める。
どうやら、綾さんにとって姉と慕う従姉と一緒に遊んだ体験は、今でも忘れられない大切な記憶として、心に深く刻まれているようだ。
「鴨川まではどうやって行くんですか?」
「いつもパパが運転する車に乗っていただけだから、実はよく分かっていなくて。電車で行くなら、これから調べなきゃなんだけど」
「ご家族で行かれるんじゃないんですか?」
「違うよ。パパ、最近忙しいから。それでね」
綾さんが急に言いよどむ。それから、僕の様子をうかがいつつ切り出した。
「ママが、律くんと一緒に行ってきたらどうかって」
「僕とですか?」
「うん。鴨川のとなりにある勝浦のホテルなら、株主優待で安く泊まれるんだって」
「えっ? それってつまり、一泊旅行ってことじゃないですか」
綾さんがポッ、と色白の頬をほの赤く染めながら、小さくうなずく。
「ほら、ママは律くんのこと、すごく信頼しているから」
「嬉しいです。お母さんって、僕たちのこと、いつも応援してくれていますね」
「うん。ママは私になんでも経験させたいって考えているみたい。だから、恋愛でもなんでも基本的にOKなんだ」
綾さんのお母さんって、娘に甘いところがあるよね。
娘が病気になったのを自分の責任のように感じてしまう人だからか、娘の味方になってあげたいという気持ちがいっそう強く働くのかもしれない。
「でも、お父さんが許さないんじゃ」
「大丈夫。パパにはママから上手く伝えてもらうよ」
綾さんは悪戯っぽく笑う。
娘の誕生日にハイブランドの高級バッグをプレゼントしてしまうくらいには、娘を溺愛しているお父さんだ。怒られそうで、ちょっと怖い。
綾さんが期待に満ちた瞳を輝かせ、上目づかいで問いかける。
「で、どうかな? 私と一緒に行ってくれないかな?」
だから、その顔は反則ですって。
そんなに可愛い顔でお願いされたら、断れるはずないじゃないですか。
ちょうど緊急事態宣言からまん延防止等重点措置に切り替わったところだし、県境をまたがない移動でもある。お見舞いという事情もあるし、気を緩めるわけじゃないけれど、少しくらいならお出かけしてもね?
「分かりました。一緒に行かせてください」
「やったあ!」
綾さんが無邪気な声を弾ませ、コロコロと笑う。こんなに喜んでくれると、僕まで嬉しくなってしまう。
「それじゃあ、どこを回るか、さっそく計画を立てないとだね」
綾さんの声に従い、僕は本棚から千葉県の旅行ガイドブックを取り出し、机上に地図を広げてみた。
春休みに出かけた木更津までも結構時間がかかったけれど、鴨川までは、距離にしてざっと二倍くらいはありそうだ。
「こうして見ると、けっこう遠いですね」
「律くん、車で行けそう?」
「大丈夫だと思います。運転にも慣れてきましたから」
感染症のことを考えたら、多くの人と触れ合う電車よりも、空間が限られている車のほうが安心な気がする。それに、綾さんの足のことだってある。
なにより、車なら綾さんと二人きりになれるしね。好きな人を助手席に乗せて走る幸福感は、やっぱり格別なものだ。
まして、綾さんとの初めての一泊旅行だもの。頑張らないわけにはいかないよ。
「律くんはどこに行ってみたい?」
「具体的にどこというのはないんですけど、せっかくなら海の幸が食べたいです」
「いいね。行こう行こう」
「綾さんこそ気になる場所はありますか?」
「この前、テレビてやっていたんだけどね。今、道の駅がかなり充実しているんだって。だから、途中の道の駅に寄ってみたいな」
地図をのぞいてみると、南のほうの海岸線沿いに道の駅がいくつも並んでいる。
春には花々が咲き誇り、夏には海水浴客がたくさん訪れる南房総だ。道の駅のほうでもかなり力を入れているのかもしれない。
綾さんがマグカップを口に運び、ほっと一息つく。
「ふふっ、楽しみだね。律くんとお泊りだなんて」
甘い声でささやく綾さん。『お泊り』という言葉が僕にはキラーワードすぎて、しぜんと気持ちが高まってきた。
僕は素朴な疑問をぶつけてみた。
「あの、綾さん。一つ、気になることがあるんですけど」
「なあに?」
「僕たち、同じ部屋に泊まるんですか?」
「律くんは別々の部屋がいいの?」
「いえ、そういうわけじゃ……。ただ、こういうの、初めての経験だからよく分からなくて」
なんてことない言葉のはずなのに、なぜか流暢に口にできず、たどたどしくなってしまう。
綾さんが、ふふーん、と悪戯好きな猫のような目をして僕に追求してくる。
「律くんはどっちがいいのかなあ? 個別に部屋を取るのと、私と一緒の部屋になるのと」
僕の本音を探るように、くりくりっとした目でじっと見つめてくる綾さん。
あの、そんなに間近で見つめられると、恥ずかしいのですが。
「ど、どっちでもいいんですけど」
「へえー。どっちでもいいんだー」
「あ、綾さんはどっちがいいんです?」
「私は律くんに従うよ。律くん、選んでいーよ」
「ずるい」
どうやら、選択権は僕のほうにあるらしい。
僕は綾さんの顔をまともに見られなくなって、そわそわと視線を宙にさまよわせ、それからうつむき、観念したようにぽつりと言った。
「……綾さんと一緒の部屋がいいです」
本音を口にして、顔から火が出る思いがした。
けれども、綾さんはこの程度では許してくれない。
「律くんは、どうして私と一緒の部屋がいいのかなあ?」
「えっ? だって」
「だって?」
「せっかく一緒に行くのに、綾さんと離ればなれになったら寂しいじゃないですか」
僕の頭から、白い煙がボッ! と吹き出した。これでは、まるで母親に甘える幼い子供みたいじゃないか。
綾さんがニヤリと口角を上げる。
「そっかー。律くんはそんなに私と一緒にいたいんだ。うんうん。じゃあ、しょうがないなー」
満足げな笑みを深め、うんうん、と数度うなずく綾さん。
見れば、綾さんの顔もほのかに赤らんでいた。
「め、迷惑でした?」
「ぜんぜん。って言うかさー」
綾さんがとどめとばかりに言い放つ。
「別々の部屋なんてありえないでしょ」
え? そういうものなの? 僕としては精一杯気をつかったつもりだったのだけど。
僕にとっては究極の選択だったけれど、どうやら綾さん的には正解だったみたいだ。
綾さんが帰った夜。
僕はベッドに身を投げ出し、ぼんやりと天井を眺めていた。
綾さんと『お泊り』――僕の頭のなかはそのことでいっぱいで、他の思考が入りこむ余地はない。
綾さんと一泊旅行の約束をしてから、胸の奥のドキドキがずっと収まらない。
僕はおもむろに立ち上がり、棚にしまっておいたペアリングを取り出した。
綾さんの誕生日にプレゼントしたペアリングを、僕の指にもはめてみる。左の薬指で合っていたっけ?
それから、ふたたびベッドに仰向けになり、ペアリングを通した左手を掲げてみた。
シルバーのリングは電光に輝いて、たちまち僕の視線を釘づけにする。
「綾さんと、お泊りデート……」
取りつかれたようにぽつりとつぶやいたら、またしても身体が熱くなってきた。
言葉にならない感情が大きなうねりとなって、僕の胸に怒涛のように押し寄せてくる。
「わああっ、僕はとんでもない約束をしてしまった!」
僕は衝動的に掛け布団を抱き枕のように強く抱きかかえると、火照った顔をうずめたのだった。
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