第22話 いざ幕張

 五月下旬。ついにライブの日がやって来た。


 空はあいにくの雨模様。

 雨脚はそれほど強くないものの、空は灰色の厚い雲におおわれ、時おり生暖かい湿った風が吹きつけてくる。


 綾さんとはいつもの最寄り駅の改札前で落ち合った。


「律くん、忘れ物はない? ペンライト、ちゃんと持った?」

「大丈夫ですよ、子供じゃないんですから。それより、綾さん、今日はずいぶん気合が入っていますね」


 この日のためにわざわざ美容室に行ったと分かる美しい髪。カジュアルながら大人の品性を感じさせるおしゃれなファッション。メイクもばっちり決め、いかにも『綺麗なお姉さん』といったオーラを放っている。


 綾さんは色白の頬に細い人差し指を添え、はにかんだ笑みを浮かべる。


「だって、一番綺麗な私で雪斗に会いたかったんだもん」

「絶対、僕に会う時よりも気合入ってますよね?」

「そうかしら? けど、私なんて大人しいほうだよ。会場に行ったら、みんなもっとすごいから」

「もう、いいです。今日は綾さんの侍者になりきるって決めましたので」


 僕はため息交じりに肩をすくめる。

 今日は、綾さんが念願だった雪斗とライブを通じて初めて出会う日だ。


 雪斗という王子様がいて、綾さんというお姫様がいる。そんな二人だけの世界に、残念ながら僕の居場所はない。

 ならば、せめて綾さんを会場まで送り届け、無事に家まで連れ帰る侍者となろう。


「また拗ねてる」


 綾さんがおかしそうに僕の頬をつんつん、と人差し指で突いてくる。あの、むずがゆいのですが。


「別に拗ねてません。それより、集合時間、早すぎません?」


 現在、駅の時計は十一時を指している。今から電車に乗ったら、幕張には十二時には着いてしまう。

 ちなみに、ライブは十六時開場、十七時開演だ。向こうで何時間もいったいなにをして待っていればいいのだろう?

 しかし、綾さんはまったく聞く耳を持たない。


「万が一、電車が止まったらどうするの? この悪天候なんだよ。強風、落雷、濃い霧……電車なんていろんな理由ですぐに止まっちゃうんだから」

「霧で止まります?」

「止まるよ。とにかく、早く着いていたほうが安心でしょう。お昼を食べて、お茶でもしていたら、時間なんてあっという間に経っちゃうんだから。ほら、早く行こっ」


 綾さんは僕の腕を引っ張り、改札へと歩き出す。

 綾さんは、足取りこそゆっくりではあるものの、はやる気持ちはまるで合戦に臨む戦国武将のよう。我こそは一番槍! と今にも駆け出してしまいそうだ。


 エレベーターを利用してホームに降り立ち、そのまま電車に乗りこむ。そして、並んで席に座り、ひと息ついた。


「今回は物販がなくて残念だったね」

「物販?」

「以前は、パンフレットとかTシャツとかタオルとか、現地でしか手に入らないグッズがたくさん売られていたんだよ。でも、今は密になるからってネット通販のみになっちゃったんだ」

「そのほうが確実に手に入ってよさそうですけど」

「そうかもしれないけど、やっぱり物販がないのは寂しいよ。あの戦場に揉まれて人は成長するんだよ」

「でも、綾さん、足が悪いじゃないですか。そんな戦場で並んでいたら、それだけで身体に悪そう」

「大丈夫。今日は足の一本や二本、くれてやる覚悟だから」

「なんでそんなに勇ましいんですか」


 綾さんは親指を立て、誇らしげに宣言する。

 推しのライブに気持ちが前のめりになるのは分かるけれど、彼氏としては、もう少し自分の身体を労わってほしいと願ってしまう。


 まもなく電車を乗り換える。ホームに降り立つと、今度はエスカレーターで別のホームへ。

 何両目の電車に乗れば乗り継ぎがスムーズにいくか、事前に調べておいて正解だった。おかげで、綾さんはさほど歩くことなく次の電車に乗りこめた。


 それにしても、エスカレーターといい、エレベーターといい、都会の駅は足の悪い人への配慮がきちんとなされていて、つくづく感心する。

 僕の故郷の田舎町ではこうはいかない。もっとも、駅の利用者の数がけた違いだから、比べようもないのだけど。


 しばらく電車に揺られていると、やがて東京湾の景色が大きなビル群の間に広がってきた。

 外が快晴なら見晴らしもよかったのだろうけれど、今日はあいにくの雨。灰色の海が曇天の空に重く押しつぶされているかのような、そんな閉塞感がある。


 僕はつい、外の景色と彩り豊かな故郷の自然と比べてしまった。

 未知のパンデミックに見舞われて以来、もう一年も故郷には帰れていない。

 今年の夏には帰れるだろうか? 故郷の街並みは今なお色あせてはいないだろうか? 両親は? 時々、心配になる。


「どうしたの、律くん。なにか面白いものでも見つけた?」


 よほど景色に見とれていたのか、綾さんが気にして声をかけてくれた。


「いえ、そういうわけじゃ。ただ、天気が悪いなって」

「ほんとにね。こんな日くらい晴れてくれてもいいのにね」


 綾さんも一緒になって、鉛色の景色をのぞきこむ。海沿いでさえぎるものがないせいか、雨がいっそう車窓を強く打ちつけていた。


 僕は綾さんの横顔をそっとうかがった。

 綾さんの横顔は、暗い世界に光を灯すかのように、美しく輝いている。


 もし綾さんと出会えていなかったら、今ごろ僕はどうなっていただろう

 やっぱり、綾さんを手放したくない。

 たとえ今日の美しい顔が雪斗のためだったとしても、僕にだって譲れない思いがある。


「綾さん」

「なに?」


 手をつなぎませんか? 

 ……とたずねるよりも早く、僕の腕がしぜんと綾さんへと伸びる。そして、僕は綾さんの手をそっと握った。

 綾さんが驚きの目をぱっと開いて、重なった二人の手をじっと見つめる。


「どうしたの、律くん? いつもはあまり手をつなぎたがらないのに」

「ほんとうは、いつもこうしていたいって思っているんです。でも、恥ずかしいから。……ただ、今日は特別こうしていたい気分っていうか。ダメですか?」

「ううん、ダメじゃないよ」


 僕が正直な気持ちを告白すると、綾さんは共感を示すように、きゅっ、と柔らかい手で強く握り返してくれた。

 綾さんの手から伝わる優しい温もりに、僕の心はたちまち溶かされてしまう。


「なんだかすごく安心します」

「今日の律くんはずいぶん甘えん坊さんだねえ。もしかして、私が雪斗に夢中だから、寂しくなっちゃった?」

「それはもう」

「安心して。私はどこにも行かないよ。ずっと律くんのそばにいる。私にとって雪斗は大切な存在だけど、それ以上に律くんのことも大切だから」


 綾さんの甘いささやきが耳に心地いい。


 綾さんはにこやかに微笑んで、よしよし、と僕の頭を撫でてくる。まるで子供扱いだ。

 けれども、悔しいよりも、嬉しい気持ちのほうが勝ってしまうのだから、どうしようもない。


 僕は二次元のキャラクター相手にも嫉妬や羨望を抱いてしまうような、心の狭い人間で。

 かえって綾さんに気を遣わせてしまうような、情けない男だけれど。


 いつかは心も成長して、雪斗ごと綾さんを受け入れられるような度量の広い男になりたい。


 でも、その域に到達するには、まだまだ時間がかかるから。


 今だけは、綾さんの手の温もりに酔っていたい。

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