第21話 チケットのご用意

 最近、スマートフォンの待ち受け画面を変えた。


 綾さんとうちで一緒に夕飯を食べた、アルバイト帰りの夜の写真。

 その写真のなかで、美しくドレスアップした、化粧品のCMにでも出てきそうなきらびやかな綾さんが、満面の笑顔で「あーん」と僕の口元に料理を運んでくれている。


 僕は部屋で一人朝食をとりながら、そんな天使のような綾さんの写真を眺める。それだけで頬がカアァッと熱くなってくるから、参ってしまう。


 今日は午後にまた綾さんと会う約束をしている。授業もアルバイトもない完全な休日。約束の時間が待ち遠しくて、なんだかじっとしていられない。


 いそいそと服を着がえ、いったんソファに座り直し、部屋の時計をじっと眺める。なかなか時間が進まない。

 まだ早すぎるけれど、もう家を出てしまおうか。本屋にも寄りたいし。本を買って喫茶店で読んでいたら、きっとすぐに時間も経つよね。


 そう思って立ち上がった、ちょうどその時。

 一件のメールが僕のスマートフォンに届いた。



『松本律様の抽選結果 チケットがご用意できました』



 予期せぬメールにとまどう。

 いったいなんのチケットだろう?

 メールの内容を読んでいくうち、あいまいだった僕の記憶がしだいに色を取り戻していった。






 それは、ちょうどひと月前、桜の花が盛りを迎えた三月下旬のことだった。


「実は、律くんに折り入ってお願いがあるんだけど……」


 いつもの和テイストのカフェで、綾さんは僕の表情をうかがいながら、言いづらそうに切り出した。


「どうしたんですか? 急に改まって」

「どうしても律くんに協力してほしくて。ダメ、かな?」

「ダメもなにも、いったい僕にどんな協力を求めているんです? それが分からないと、返事のしようもないのですが」

「これを見て」


 綾さんは僕にスマートフォンの画面を見せてくれた。

 そこには、綾さんがハマっている二次元の男性アイドル育成ゲームのライブの告知が大きく映し出されていた。


「全国三か所を巡るツアーなんだけどね、そのうちの一つが千葉公演で、舞台は幕張なんだ」

「なるほど。幕張ならここからでも行きやすいですね」

「でしょう。だから、申し込みたいんだけど」

「いいじゃないですか、申し込めば」

「もちろん、私は申し込むよ。でも、今って観客の人数制限が設けられているじゃない? ただでさえ当たらないのに、さらに倍率が高くなって、超激戦なんだよ。だから、お願い! 律くんも一緒に申し込んで!」


 綾さんはまるで神頼みでもするかのように僕に懇願してくる。こんなに必死な綾さんも珍しい。

 僕はため息をついた。


「綾さんはそうまでして雪斗に会いに行きたいんですか」


『雪斗』は綾さんの最愛のキャラクターであり、いわば僕の恋敵だ。

 綾さんと雪斗との付き合いは、僕よりずっと長い。なんでも、綾さんの高校時代、辛い入院中に誰よりも心を支えてくれたのが、この雪斗だったとか。

 綾さんは拳をきゅっと握り、しんみりと訴える。


「私は雪斗の歌声に何度も励まされてきたから。退院したら、絶対に現地に参戦するって心に決めて、今日まで生きてきたの」

「そうですか。じゃ、頑張ってください」

「冷たっ!? 律くん、いつからそんなに冷たい人になったの!? お願いだから、私に協力してよ~っ!」

「でも、仮に当選して現地に行けたら、綾さん、ずっと雪斗のことばかり見ているでしょう?」


 僕は想像してみる。

 僕のとなりで、綾さんがペンライトをふっている。

 ステージ上の雪斗のパフォーマンスに釘づけになり、心を鷲づかみにされている綾さん。

 その瞳には、ピンクのハートマークがくっきりと刻まれているのであった。

 ……僕、いらない子だよね?


「そりゃそうだよ。雪斗に会いに行くんだから。雪斗に会いに行って、律くんばかり見ているわけないじゃない」

「僕は綾さんの一番でいたいんです。恋敵のライブに行くのはちょっと」

「雪斗はあくまで二次元のキャラクター。一番好きなのは律くんだよ」

「ほんとうですか?」

「ひどい! 私の愛を疑うなんて……。律くんは私のこと好きじゃないの?」

「もちろん、好きですけど」

「じゃあ、私が好きなものは、律くんだって好きなはずだよね?」

「すごい暴論が飛んできた」


 まったく、綾さんは雪斗が絡むと暴君にもなってしまうから、困ってしまう。

 とはいえ、このままでは埒が明かないので、僕もしぶしぶライブのWEB抽選に申し込んだ。

 綾さんがこんなに必死なんだもの。僕だって少しは力になってあげたい。


「はい、申し込み完了しましたよ。でも、世のカップルって、こういう時どうしているんですかね?」

「どういうこと?」

「彼女が自分以外の男性を推していたら、妬いたりしないのかなって」

「律くんは嫉妬しすぎ」

「だって、綾さんを取られるみたいで嫌じゃないですか」


 僕は聞き分けのない子供のように、むすっとした顔で正直な思いを打ち明ける。

 綾さんにだって趣味はあるし、推しの一人や二人いたっておかしくないことくらい、僕にだって分かる。


 だけど、頭ではそう理解していても、心がざらついて落ち着かない。

 綾さんが好きなものを受け入れてあげたい気持ちと、拒む気持ち。相反する気持ちが複雑に入り混じって、僕の心はにわかに陰り出すのだった。


 そんな子供じみた態度で拗ねている僕を、綾さんは優しい眼差しで見つめている。


「私は律くんと一緒にライブに行きたい。好きな人と、好きなキャラを一緒に応援できたら、どんなに幸せかと思う。でも、律くんが嫌なら一人で行くよ。ごめんね、無理強いして」


 綾さんはずるい人だ。

 そんな優しい声で諭すように告げられたら、僕のほうが悪いって、嫌でも思い知らされてしまう。


「こちらこそ、ごめんなさい。綾さんが幸せなら、僕だって幸せですから。一緒にライブに行かせてください」

「どちらかが当選したら、だけどね」


 微苦笑を浮かべる綾さん。

 そんな綾さんの柔らかい笑みに、僕もつられて口元がほころんでしまう。


「律くん、私は今、試されているの。雪斗への愛が本物かどうかをね。本物ならきっと当選するはずよ」

「じゃあ、僕が当選したら、綾さんへの愛が本物だって証明になるんですか?」

「ふふっ。だとしたら、律くんは絶対に当てないとだね」

「もし僕がチケットを引き当てたら、綾さん、どうします?」

「いいよ、なんでも言うこと聞いてあげる。だから頑張って当ててね、律くん」


 綾さんはそう言って、楽しげに笑うのだった。






 午後、綾さんとの約束の時間が近づくと、僕は待ち合わせ場所である駅と向かった。


 僕にライブチケットの通知が届いたことは、綾さんにはまだ伏せてある。

 あれから一ヵ月。まさか、ほんとうに当選してしまうなんて。綾さんが知ったらどんな反応をするだろう?


 目的地に到着すると、行き交う人たちに紛れて駅のみどりの窓口付近に立ち尽くす綾さんの姿を発見した。

 綾さんは、まるでこの世の終わりのような、絶望感に沈んだ顔をしていた。どうやらチケットが外れたらしい。少なくとも、これからデートをする人の顔じゃない。


 僕は大きな秘密を抱え、綾さんに足早に近づいていく。


「どうしたんです、綾さん。そんなに暗い顔をして」

「『残念ながらお席をご用意できませんでした』って、いったいどういうこと? お席をご用意するのが運営の仕事でしょうがッ!」

「荒れていますね。チケットの話ですか?」

「まあ、激戦なのは分かっていたし、仕方ないよ。今回もオンラインで楽しむつもり。律くんもありがとうね、一緒に申し込んでくれて。結果は残念だったけど」

「はい。綾さん、これ」


 僕は、綾さんにスマートフォンを掲げてみせた。

 画面には、チケット当選を知らせるメールが映し出されている。

 綾さんは、僕のスマートフォンをひったくるように奪い取ると、画面をのぞきこみ、わなわなと肩を震わせた。


「ま、まさかっ! 律くん、当たったの!?」

「そうみたいです。これで綾さんへの愛が本物だと証明できましたかね。……わぷっ!?」

「もお~っ、律くん大好きっ!」


 感極まった綾さんが、いきなり大きく腕を広げたかと思うと、僕に飛びかかるように抱きついてきた。

 僕の心臓もまた、たちまち大きく飛び跳ねた。


「どうしてもっと早く教えてくれなかったの?」

「綾さんをびっくりさせたくて」

「もう、意地悪なんだから~」

「あの、頬をツンツン突かないでくれます?」

「それじゃ、来月のライブに向けてさっそく予習しないとだね。私がみっちり教えてあげる!」

「それより……」


 僕はこほん、と一つ咳ばらいをした。


「たしか、綾さん、言ってましたよね? 僕が当選したら、なんでも言うこと聞いてくれるって」

「なに言ってるの? 今までさんざん聞いてあげたじゃない」

「えっ?」

「よかったね、律くん。これまでの愛の前借りをようやく私に返せて。ライブのチケットは、これまでの感謝の気持ちの表れとして大切に受け取っておくね」

「横暴だぁ」


 綾さんは機嫌よさそうに無敵のスマイルを輝かせる。


 やっぱり、雪斗が絡んだ時の綾さんは暴君なのだった。

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