第20話 そういうことじゃ、ないんだよ

 夕方、アルバイト先である『燕屋珈琲』に行ってみると、すでに山根さんの姿があった。


「あっ、律先輩!」


 僕を見るなり、ぱっと表情を輝かせる山根さん。弾けるようなまぶしい笑顔は、可憐なメイド服と絶妙にマッチして、山根さんの美少女ぶりをいっそう際立たせている。

 山根さんはうかがうような上目づかいでさっそく僕にたずねてきた。


「あの、毎日で恐縮なんですけど、今日も勉強で分からないところがあって。よければ、仕事の後でまた教えてもらえませんか?」


 遠慮がちな口ぶりとは対照的に、山根さんの瞳には期待の色が浮かんでいる。


 けれども、今日の僕は山根さんのお願いを素直に聞き入れるわけにはいかない。

 だって、綾さんの涙を見てしまったから。

 綾さんが僕に望まないことは、僕だってしたくない。


「ごめん。今日は用事があって」

「どんな用事なんです? そもそも、夜に用事なんてほんとうにあるのかなぁ? ふふっ、怪しいー」


 山根さんはクスクスとおかしそうに笑う。

 うーん、さすがに分かりやす過ぎたかな。嘘を上手につけない自覚はあったけれど、年下の女子高生にあっさり見破られるだなんて。我ながら嘘が下手すぎる。


 ちょうどその時、一人のお客様が店を訪れた。


「いらっしゃいませー」


 山根さんは僕の嘘を見抜いて機嫌がいいのか、いつもよりわずかに高いトーンで接客する。

 僕はそのお客様の姿を目にしてびっくりした。


「綾さん!?」


 なんと、お店に登場したのは綾さんだった。

 しかも、大人びたシックなドレスのような衣装を身にまとい、メイクもばっちり決まっている。

 まるで口紅のCMにでも出てきそうなアイドル顔負けの美しさで、キラキラと光の粒子が拡散して見えるかのようだ。


「こちらのお席へどうぞ」


 山根さんは、綾さんを席に案内しようと先に進み、ふり返ってハッとする。

 どうやら綾さんの足取りが健常者のそれとはまるで異なることに、ようやく気づいたらしい。綾さんは山根さんのずっと後ろをゆっくりと歩いていた。

 山根さんは綾さんが席に着くのをじっと待ち、注文を取り終えると、カウンターのほうに戻ってきた。


「すっごく綺麗な人でしたね。でも、足が悪いって気づかなくて、申し訳ないことをしちゃいました。……って、律先輩。なに見とれているんです?」


 山根さんが、自らの腰に手を当て、唇を尖らせて不満げなジト目を向けてくる。


「ごめん、つい」

「へえー。ああいう綺麗な人が律先輩の好みのタイプなんだ」

「別にそういうわけじゃ。いや、そうなのかも」

「もう、男の人って、ほんとーにしょーがないですねー」

「彼女なんだ」

「えっ?」

「だから、あの人が僕の彼女」


 山根さんは大きく目を見開き、およそ信じられないといった顔で、席に座る綾さんの後ろ姿をふたたび見やる。


「あはは。まさか、嘘ですよね?」

「嘘じゃないよ。信じられないだろうけど」


 なにせ彼氏である僕がびっくりしているくらいだもの。山根さんに信じてもらえなくたって仕方がない。

 いつもの綾さんは優しくて可愛らしい印象だけど、今の綾さんはどこかクールで大人びた妖艶な色香を漂わせている。


 突然、僕の目の前に降臨した高貴なるプリンセスのような綾さんのまぶしさに、しぜんと鼓動が高鳴っていく。

 綾さんがちょっと本気を出したら、すぐこれだもの。僕なんか、一生かかったって太刀打ちできるはずがない。


 山根さんは、どうやら僕が嘘をついていないと悟ったらしい。笑みを引きつらせていたが、やがて


「あー、なるほどー」


 と一人合点したようにうなずいた。

 山根さんが、綾さんが注文したホットカフェオレを慣れた手つきでトレイに乗せながら、しゃべり出す。


「あの人、障害者ですよね? 律先輩の優しさに付けこんだんだ。嫌なひと


 山根さんはカップを乗せたトレイを両手に持ち、ツンとした態度で話を続ける。


「いいですよね、障害を持っている人って。それだけで心配してもらえますもんね。私なんか、いくら受験が不安でも誰も心配してくれやしない。羨ましい」

「山根さん」

「なんですか、律先輩?」

「そういうことじゃ、ないんだよ」


 僕は、立ち止まる山根さんの両手からトレイを引き取る。


「そういうことじゃないから」


 僕はきっぱりと二度告げると、綾さんの元へと歩き出した。


 障害を持っているかどうかなんて、関係ない。

 僕は綾さんの可愛らしい外見に、美しい心に、たくましい生き方に、そして誰よりも深い愛情に惹かれて好きになったんだ。

 だから、僕はどんな綾さんにだって、きっと恋をしていたはずだ。


「お待たせしました。ホットカフェオレをお持ちしました、お嬢様」


 僕の声に、綾さんが嬉しそうに顔を上げる。


「ふふっ。なかなか様になっているよ、律くん」

「ありがとうございます。今日の綾さんは一段と素敵ですね」

「どう? 惚れ直してくれた?」

「僕はずっと綾さんに惚れっぱなしです。ところで、どうです? 仕事が終わったら、僕と一緒に食事にでも行きません?」

「いいよ、律くんのおごりならね」

「かしこまりました」


 こうして綾さんが店を訪ねてきたのだって、僕が余計な心配をかけたからなわけで。食事をご馳走するくらいで罪が晴れるのなら、お安いご用だ。


 僕がカウンターのほうに戻ると、山根さんと目が合った。


「ごめん。やっぱり今夜は用事があるから、勉強はまた今度ね」


 山根さんは、むうぅ~っ! と子リスみたいに頬をいっぱいに膨らませると、怒ったように僕の元を去ってしまった。






 仕事が終わり、綾さんとようやく落ち合う。

 綾さんは百貨店の入り口付近で待ってくれていた。


 あんまり綺麗なものだから、変な人に声でもかけられていたらどうしよう、と心配になって駆け足で来たけれど、どうやら杞憂のようだ。

 綾さんはいつもと変わらぬ穏やかさで、僕に優しく微笑みかけてくれた。


「律くん、お仕事お疲れ様」


 その労いの言葉に、僕は今日も救われる。

 どんなに大変な仕事だって、綾さんのまぶしい笑顔があれば、きっと乗り越えられる。そんな気がした。


 綾さんは悪戯っぽい笑みを口元に浮かべ、誘うように話しかけてくる。


「ねえ、どこかで食べていこうかと思ったけれど、よく考えたら閉店まであまり時間がないじゃない? だから、今日は律くん家で食べようよ。地下で美味しい物でも買ってさ」


 たしかに、時短営業の影響で、飲食店は早くに閉まってしまう。それなら、うちで食べたほうがゆっくりとくつろげそうだ。


「僕は構いませんけど、でも、いいんですか? 綾さん、帰りが遅くなりません?」

「大丈夫だよ。バスがなかったら、パパかママに迎えに来てもらうよ」


 綾さんの実家はとなりの駅だから、距離的には難なく車で来られそうだ。

 でも、だからと言って、娘に急に呼び出されたら、ご両親だって大変だよね?


「綾さん。なんなら今夜うちに泊まっていきます?」

「……泊っていったって、律くん、なにもしてくれないじゃん」

「えっ?」

「ううん、なんでもないの。こっちの話」


 綾さんはカアァッと顔を赤らめ、ぷい、とそっぽを向く。

 綾さん、いったい僕になにを望んでいるんだろう?


「綾さん。もし僕にしてほしいことがあったら、なんでも言ってくださいね。僕、綾さんのためなら、なんだってしますから」

「いいから。律くんはそのまま、純粋なままでいて」

「もしかして、僕のこと、子供扱いしてます?」

「そんなことないよ。とにかく、今日は薬を家に置いてきちゃったから、律くんの家には泊まってあげられなーい。ごめんね」


 綾さんはそう言って腕を伸ばすと、僕と腕を組み、甘えるように身体を寄せてきた。


「そうと決まれば、美味しい物を買って帰ろ。ねっ」


 むふーっ、と猫のように機嫌よく僕に懐いてくる綾さん。

 大人びた綺麗なお姉さん彼女が、こんなふうに僕にデレて、甘えてきてくれる。これ以上の幸せって、きっとないよね。

 僕たちは百貨店のなかへとゆっくりと歩き出す。


「ところで、瞳ちゃんだっけ。可愛かったね。どうりで律くんが構ってあげたくなるわけだ」

「もしかして、まだ根に持ってます?」

「うふふっ。残念だったね。せっかく美少女JKと仲良くなれるチャンスだったのに」

「もう、からかわないでください。僕には綾さんが一番です」

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