第23話 ご褒美タイム
僕らを乗せた電車は、まもなく海浜幕張駅に到着した。
時刻は十二時を少し回ったところで、ライブまではまだ相当な時間がある。
綾さんが心配していた悪天候による電車の遅延がなくてよかったけれど、いくらなんでも早すぎだ。
「幕張まで来れば、もう安心だね。律くん、お昼なに食べよっか」
綾さんははやる気持ちを抑えきれないのか、先へ先へと進もうとする。
普段はお姉さんぶっているけれど、今日の綾さんはそわそわと落ち着かない少女のようで、なんだか見ていて微笑ましい。
「律くん、なに笑っているの?」
「いえ、綾さんは今日も可愛いなと思って」
「なにそれ。いいから早く行くよ」
綾さんは僕の手を取り、ぐいぐいと引っ張ってくる。そんな仕草もいじらしくて、しぜんと頬が緩んでしまった。
駅を降りると、さっそくプロ野球の球団マスコットのオブジェが僕たちをお出迎え。そういえば、ここ幕張には野球のスタジアムもあるんだっけ。
幕張は不思議な街だ。
オフィスが連なる大きなビル群が立ち並んでいるかと思えば、ショッピングモールやアウトレットといった大型の商業施設もある。加えて、コンサート会場や展示場、野球のスタジアムまであり、海沿いにはホテルも多い。
ビジネス、生活、エンターテイメント、そしてレジャーが混然一体となった近未来型都市、それが幕張だと言えそうだ。
僕たちは駅前のビルで昼食を済ませ、アウトレットをちょっとのぞいてから、コンサート会場のほうへと移動を開始した。
「まだ早い気がしますけど、もう行きます?」
「うん。あっちのほうに喫茶店があるはずだから。今のうちに少しでも近づいておいたほうがいいでしょう?」
「そんなに急がなくても」
とはいえ、足に不安を抱える綾さんだ。早めに喫茶店に行って、混まないうちに休んでいたほうが、綾さんの足への負担が軽減できていいのかもしれない。
海に向かって一直線に伸びた広々とした大通りを、綾さんとゆっくり歩く。
幸い、雨は弱まってきたものの、あいかわらず空は灰色ですっきりしない。それに、海からの風が強くて、歩道沿いに立つヤシの木も揺れている。今日は一日中ずっとこんな調子なのかな?
まもなく喫茶店に到着し、僕たちは窓側の席に座った。
「律くん、見て見て。じゃーん」
綾さんがいつもの黒いリュックサックからぬいぐるみを取り出して、得意満面に見せてきた。もちろん、雪斗のぬいぐるみだ。
「そんなもの、持って来ていたんですか」
「当然だよ。ねっ、可愛いでしょう?」
二・五頭身くらいにデフォルメされた雪斗のぬいぐるみが、綾さんの胸にむぎゅっと抱かれている。できることなら、ぬいぐるみと場所を代わってほしい。
「私たちの来場推奨時間って、たしか十六時十分だったよね。その時間に合わせて移動しようか」
「まだ二時間以上ありますけど」
「仕方ないよ。それまで、ここでじっとしていよう。律くんだって、私とたくさん一緒にいられて嬉しいでしょう?」
「それはまあ、そうですけど」
「じゃあ、ご褒美みたいな時間だよね?」
綾さんは、ふふん、と勝ち誇ったような悪戯っぽく笑う。
僕が綾さんのことを好きなのは事実だし、仕方のないことだけど、もてあそばれているような気がしなくもない。
反撃……にもならないけれど、僕も綾さんにたずね返す。
「それなら、綾さんにとっても、僕と一緒にいるこの時間はご褒美みたいなものなんですか?」
綾さんがきょとんとした目を向ける。それから、楽しげに口元を緩めた。
「さあ、それはどうだろうねえ」
「ひどい」
「ふふっ、冗談だよ。もちろん、私にとってもご褒美タイムだって」
綾さんが雨に濡れた外の景色をそっと見やる。
「ほら、私、入院が長かったじゃない。いつも病室に閉じこめられて、外に出ることさえ叶わなかったから。だから、こんなふうに彼氏と一緒に雪斗のライブを心待ちに過ごせるなんて、夢みたいで。きっと、闘病生活を頑張った私への、神様からのご褒美なんだろうね」
「綾さん……」
今にも泣き出しそうな彼女の切なげな笑みに、僕も胸がつまる思いがした。
僕にとっては何気ない日常でも、綾さんにとっては、これまでの思いがつまった特別な一日なのだ。
僕はもっと綾さんに寄り添わなくちゃいけないのだろう。綾さんを襲った過酷な運命を受け止め、幸せへと変えていけるように――。
綾さんは表情を和らげ、優しい目で僕をじっと見つめてくる。
「律くん、私のために雪斗の歌を聞いたり、アニメや動画を見てくれたりしたじゃない。嬉しかったな」
「だって、綾さんが、予習が必要だって言うから」
「でも、それって、私の好きな物をちゃんと理解しようとしてくれたってことじゃない。だから、律くんにはすごく感謝してる」
綾さんは改まって丁寧に頭を下げる。僕はかえって恐縮してしまう。
「そ、そんなにたいしたことをしたわけじゃないですよ。彼氏として当たり前のことをしたまでで」
「それを当たり前と言えるところが、律くんのいいところなんだよ。普通はきっとこうはいかないよ」
「そうですか?」
「そうだよ。それと、ごめんね。いっぱい嫉妬させちゃって。私のために嫉妬してくれる律くんを見ていると、つい面白くて」
「もう、からかって。綾さんはもっと知るべきなんです」
「なにを?」
「綾さんが思っているよりもずっと、僕が綾さんを好きだってこと」
僕は拗ねたようにアイスコーヒーのストローを口にくわえる。ガムシロップを入れすぎたのか、苦みよりも甘さのほうが舌に来た。
綾さんがくすくすと笑い出す。
「なにがおかしいんです?」
「いや、律くんと一緒にいるとやっぱり楽しいなって」
「綾さんが楽しんでくれているならいいんですけどね。でも、ほんとうに僕の気持ち、分かってます?」
「はいはい、分かっていますよー。逆に、律くんこそ、ちゃんと分かってるの?」
「なにをです?」
「律くんが思っているよりも、ずぅーっと、私が律くんを好きだってこと」
「えっ?」
綾さんの悪戯っぽい目に見つめられ、僕の顔がみるみる熱くなっていく。
僕は慌てて冷たいアイスコーヒーに手を伸ばし、ごくっと飲みこむ。この調子だとあっという間にグラスが空になってしまいそうだ。
綾さんとの会話は楽しかったけれど、さすがに二時間も場所を占領し続けるのは申し訳なくて、僕たちは予定よりも早く喫茶店を後にした。
幕張のライブ会場にやってくる。
そこは、横に細長い大きな倉庫のようだった。
僕たちが参加する男性アイドル育成ゲームのライブ以外にも、家具の展示販売や、女性アイドルの握手会など、いろいろな催しが行われていた。
「早めに来てよかったね。迷うところだったよ」
僕のとなりで、綾さんがホッと胸を撫でおろす。綾さんなら目的の場所まで執念でたどり着けそうだと思ったけれど、黙っておいた。
指定の会場に近づくと、目に見えて女性ファンの姿が増えてきた。
ライブのTシャツを着ている人。
スマートフォンに推しのキャラクターのストラップをずらりとぶら下げている人。
痛バッグにぬいぐるみやバッジをこれでもかと詰めこんでいる人。
キャラに寄せてコスプレしている人、などなど。
ライトな層から歴戦の猛者まで、年齢層も幅広く、人数制限がされているにも関わらず早くも熱気に包まれていた。
「ねっ、私なんて大人しいほうでしょう?」
綾さんは同志を見つけて嬉しそうに微笑み、通路脇のベンチに腰を下ろした。
これだけの人が集まっていればにぎやかな声が聞こえてきそうなものだけれど、みんな密にならないように適度な感覚を保ち、静かに待っていた。こういうところは、日本人ってほんとうに真面目だ。あるいは、ライブを無事に成功させたいと願うファンたちの思いの表れなのかもしれない。
十六時。ついに開場の時間を迎えた。
僕たちはアナウンスに従って列に並ぶ。
そして、スマートフォンに映し出された電子チケットを提示し、検温を済ませると、ほの暗い観客席へと歩を進めた。
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