第16話 このまま連れて帰りたい
午後二時半過ぎ。
僕たちは最後に服を買い終えると、いよいよ車に乗りこんだ。
これからアウトレットを後にして、家へと帰っていく。
それはつまり、綾さんとのデートが終わりに近づいていることを意味していた。
綾さんと離れがたい寂しさがこみ上げてくる。わがままが許されるのなら、もっとずっと綾さんと一緒に過ごしていたい。
けれども、借りた車を返しに行かないといけないし、渋滞にはまったら大変だ。余裕をもって行動するのはけっして悪いことじゃない。
「綾さん、忘れ物はないですか? そろそろ出発しますけど」
助手席に座る綾さんに声をかける。
綾さんは今どんな気持ちでいるだろう? 僕と同じように、寂しさを感じているだろうか?
様子をうかがうと、綾さんは扉に寄りかかり、ぶつぶつと不平をもらしていた。
「まったくもう、律くんってば強引なんだから……心臓が止まるかと思った……」
綾さんは頬を頬を桜色に染め、眉をつり上げ、呆れとも苛立ちともとれるような顔をしている。
きっと『お姫様抱っこ』のことを言っているのだろう。
「すみません、僕が悪かったです。機嫌を直してくれませんか?」
「やだ」
唇をぷっくりと尖らせて、恨めしそうな目を向けてくる綾さん。
「許してほしかったら、それなりの誠意を見せてくれなくちゃ」
「誠意って……なにをすればいいですか?」
「そういうのは、自分で考えるべきなんじゃないかなあ?」
綾さんはツンとした態度でそっけなく突き放す。
不機嫌な顔も可愛いので困ってしまう。……って、見とれている場合じゃない。
早く機嫌を直してもらわないと。重苦しい空気のなかで運転はしたくない。
「お茶飲みますか?」
「いらない」
「お菓子食べ……」
「ません」
ダメだ、まったく取りつく島もない。
世の男性は、彼女や奥さんが機嫌を損ねてしまった時、どうやってピンチを脱しているんだろうね?
言っておくけど、時間が解決してくれる、というのは無しだからね。
僕は長期戦がすごく苦手で、時間が経てば経つほど、あれこれと一人で悶々と思い悩んでしまうタイプだ。
だから、できることならすぐに仲直りして、後に引きずらないようにしたい。
とにかく、なにか上手いことを言って、状況を立て直さなくちゃ。
「綾さんは笑っている時のほうが可愛いと思うな」
「すみませんね、可愛くなくて」
「いえ、怒っている時の綾さんも可愛いんですけどね」
「もう、どっちなの?」
「笑っていても怒っていても可愛いなんて、ずるくないですか?」
「あのさあ。律くん、可愛いと言えば許してもらえると思ってない?」
「そういうわけじゃないですけど。ただ、やっぱり綾さんは可愛いな、って。僕が綾さんのことを好きだから、そう見えるのかな」
「……律くんだって、格好いいじゃん」
「えっ?」
「私も律くんが好きだから、そう見えるのかもね」
綾さんは拗ねたようにボソッと言い、窓の外へとぷいと顔を背けてしまう。
車のなかを流れる空気が柔らかく和んでいく。
けれども、僕にも譲れない矜持がある。
「でも、絶対に僕のほうが綾さんのこと好きですよね?」
「は? 私のほうが律くんのことをずっと好きだし」
「だって僕、綾さんを愛していますよ」
「私だって愛してるもん」
「じゃあ、僕とキスできますか?」
「それくらい余裕だし」
チュッ。
「「……………」」
勢いとはいえ、すごいことをしてしまった。
綾さんとのキスは初めてではないけれど、ほんの数回、片手で数えられるくらいしかしたことがない。
綾さんと唇を重ねるたびに、頭がカアァッ! とのぼせたみたいになって、それからなにを言えばいいのか分からなくなってしまう。
綾さんと重ねた唇が焼けるように熱い。綾さんの顔をまともに見ることができなくて、ただうつむく。
むず痒いような、面はゆいような気持ちに包まれ、身体までぽかぽかと熱くなってくる。
綾さんもまた決まりが悪いのか、照れくさそうにそっぽを向いて前髪をいじっていた。
「ねえ、そろそろ行かない?」
「そ、そうですね。じゃあ、出発しますね」
こうして、僕はハンドルを握り、車のエンジンをつけると、ついに車を走らせた。
家までのルートは二通り。
朝来た道をそのまま戻る千葉ルートか。
はたまた、東京湾アクアラインを抜けて、首都高を回って千葉へと戻って来る東京ルートか。
ナビによれば、どちらも家に着くまでにかかる時間はたいして変わらないらしい。
ただし、東京湾アクアラインに乗る場合は、途中で海ほたるに寄っていくことになるだろうから、時間を多く見積もっておかなくちゃいけない。
「綾さん、海ほたるに行ってみたいですか?」
「ううん、今日はいいかな。またの機会にしよう」
千葉ルート決定。
綾さんは今日一日歩いてお疲れなのかもしれない。足はまだ痛むのかな?
穏やかな春の陽光に照らされながら、高速道路をひた走る。
「綾さん、今日は楽しめましたか?」
「すごく楽しかったよ。お姫様抱っこまでしてもらえるとは思わなかったけど。できれば周りに人がいない時にしてほしかったな」
「じゃあ、今度は綾さんがうちに来た時にします?」
「ううん。もう十分堪能したからいい。今日だけの特別にしとく」
「それは残念」
綾さんにやんわりと断られ、ひそかに肩を落とす。
たしかに、たかがワンルームに過ぎない狭い我が家でお姫様抱っこをしても、雰囲気も出ないかもしれないけど。
でも、どんな環境だって、綾さんと一緒なら楽しめる。今の僕には不思議とそんな確信もあるのだった。
市原
ゆるやかに速度を落とし、車間距離を保ちながら前の車にのろのろと続いていく。
「やっぱり渋滞になっちゃいましたね。……綾さん?」
気づけば、綾さんは助手席で小さな寝息を立てていた。
大人っぽさとあどけなさが同居した、二十歳の寝顔。
その無防備な可愛らしさが、僕の胸に突き刺さる。
渋滞にはまって、かえってよかったのかもしれない。
世界にたった一人、かけがえのない最愛の人の安らかな寝顔をゆっくり眺めていられるのだから。
艶やかな唇に目がいくと、さっきのキスを思い出して、身体がまたカッと熱くなった。
「綾さん、眠ってます?」
小さな声でそっとたずねてみる。
もちろん、返事はない。
綾さんの幸せそうな寝顔を眺めていると、なんだか優しい気持ちになって、しぜんと言葉が口をついで出た。
「綾さん、いつもありがとうございます」
広大な世界のなかから、こんな僕を見つけてくれて、付き合ってくれて。
綾さんから注ぎこまれた温かい愛情の数々に、思わず涙が出そうになる。
綾さんと出会っていなかったら、今ごろ僕はどうしていただろう?
冷たい部屋の片隅で膝を抱え、孤独に震えていただろうか?
「僕は、綾さんの愛にいつもたくさん救われています」
日頃は恥ずかしくて言えない感謝の言葉をこっそりと告げてみる。悪戯をしているみたいで、ちょっぴり気分が上がってしまう。
綾さんは僕を信頼してくれている。だから、こんなにも無防備に、僕にすっかり心を許して寝入っているのだろう。
でも、僕だって一応男なわけで。
好きな人のあどけない寝顔を前に、つい魔がさしてしまうことだってあるかもしれない。
先ほどの悪戯ついでに、もう一言、冗談っぽく続けてみる。
「もう、そんなに可愛いと、このままうちに連れて帰っちゃいますよ」
「……いいよ」
えっ!?
僕はびっくりして目を見張った。
「もしかして、綾さん、起きてます?」
寝返りを打つ綾さんに、探るように問いかけてみる。
けれども、綾さんからの返答はなく、小さな寝息がもれ聞こえてくるばかりだ。
「ホッ、寝言か」
僕は安堵の息を吐き出した。
もし聞かれていたらと思うと恥ずかしくて、身体が汗ばんでしまう。
綾さんは今どんな夢を見ているのだろう?
綾さんが主人公の物語に、僕の姿はあるだろうか?
綾さんがお姫様で、僕が王子様――そんなおとぎ話のような夢色の物語を見ていてくれたら、嬉しい。
けれども、そんな物語を望むのは僕のエゴだとも分かるから。
たとえ王子様でなくても。侍者に過ぎなかったとしても。
綾さんをこの先もずっと支えていけたらいいな、って思うんだ。
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